日本歴史地名大系 「下白銀町」の解説 下白銀町しもしろがねちよう 青森県:弘前市弘前城下下白銀町[現在地名]弘前市下白銀町の一部三の丸南東部分に接し、堀を隔てて堀端沿いに追手(おうて)門から外東御門(現東門)に至る道筋の町並。東は元寺(もとてら)町・元長(もとなが)町、南は元大工(もとだいく)町、西は上白銀(かみしろがね)町に接する。正保三年(一六四六)の津軽弘前城之絵図(内閣文庫蔵)では、町屋として町割されている。慶安二年(一六四九)の弘前古御絵図(市立弘前図書館蔵)によれば、銀(しろがね)町として三三軒余の屋敷割がなされ、町屋・武家入交じりの構成。町屋の職種は、宮崎屋・村田屋などの商家のほか檜物屋・煙草作・索麺屋・居鯖・酒屋があり、扶持人として鉄炮師国友文右衛門が居住。 下白銀町しもしろがねまち 兵庫県:姫路市姫路城下下白銀町[現在地名]姫路市白銀町・南町(みなみまち)姫路城南の外曲輪に位置する町人町で上白銀町の南にある。慶長六年(一六〇一)の町割で成立。元和(一六一五―二四)頃の姫路城下図(多木文化振興会蔵)には下銀子屋町とある。寛永八年(一六三一)の那波宗顕譲状(前川家蔵那波文書)に「銀子町ノ家弐軒飾万津口ノ家」とあるのは当町のことと考えられる。慶安二年―寛文七年(一六四九―六七)の侍屋敷新絵図には飾万(しかま)口門の北、ぬしや(塗師屋)町の南に並行する東西の町筋に「しろかね町」とみえ、天和二年―宝永元年(一六八二―一七〇四)の姫路図には町名がみえる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by