下福原村(読み)しもふくはらむら

日本歴史地名大系 「下福原村」の解説

下福原村
しもふくはらむら

[現在地名]木造町下福原

東は中福原なかふくはら村、田圃を隔てて北は吉見よしみ村、西は三ッ館みったて村、南は床前とこまえ(現森田村)

元文元年(一七三六)の工藤家由緒書(津軽新田開発者の系譜)によれば、二代目の弥三兵衛が寛文四年(一六六四)に開村し、家数は三七軒とある。享保一二年(一七二七)木造新田に属し、山通三六ヵ村の一つで村位は下とある(平山日記)。元文元年の検地帳によれば、田畑屋敷合せて六七町八反四畝四歩、村高三三七・五七四石とある。うち田方は六〇町六反四畝一歩で三一四・一四八石、上田下々田のみで下々田が五八町八反一畝一六歩、二九四・〇七二石とあり、畑方は七町二反三歩で二三・四二六石、下畑と下々畑だけで下々畑が三町四反二六歩、三・四〇八石とあり、畑方には屋敷地が一町七反二畝二三歩含まれている。


下福原村
しもふくはらむら

[現在地名]美作町平福ひらふく

東作誌」によれば平野ひらの村の南に位置し、年代は未詳だが同村から分村したという。天正二年(一五七四)九月一四日の難波理介宛後藤与四郎宛行状(美作古簡集)に平野福原分とある。正保郷帳に村名がみえ、田一二四石余・畑五一石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高四一石余・開高一二石余、村位は下。津山藩森氏断絶後の領主変遷下倉敷しもくらしき村と同様。「東作誌」によれば毛付高二〇七石余、家数四一、男一一二・女七八。神社は山王社・荒神社・竜王社・妙見社のほか稲荷大明神があり、美作古社一一二社の一つといわれ、明治六年(一八七三)稲荷神社改称

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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