吉見村(読み)よしみむら

日本歴史地名大系 「吉見村」の解説

吉見村
よしみむら

[現在地名]宇部市大字吉見

厚東ことう川にその支流大坪おおつぼ川が合流する辺り、厚東川両岸に広がる大村。村の南部と北部は山岳地帯で、ほぼ中央を山陽道が通る。東は瓜生野うりうの車地の間地くるまじのかんち、南は末信すえのぶ棚井たない、西は東万倉ひがしまぐら舟木市ふなきいち(現厚狭郡楠町)、北は芦河内あしがわち矢矯やはぎ(現楠町)の各村と接する。萩藩領で舟木宰判に属する。

村名の起源について「注進案」は

<資料は省略されています>

と記す。ここで「天文の初」というのは、同書所収の木田きだ村藤本氏所蔵文書にある天文五年(一五三六)の「吉見村 益田殿知行籠寺社領田数辻」などの「吉見村惣田数書出」をさすものであろう。承安三年(一一七三)の棚井村恒石つねいし八幡宮文書(「注進案」所収)

<資料は省略されています>

という写は、様式の点からみても検討の余地がある。

吉見氏と当村との関係については、「朝鮮渡海日記」の天正二〇年(一五九二)三月一七日条に「一、十七日ニ恒富(周防吉敷郡)御立候て、先御知行厚東へ御着被成候、彼所の刀禰川村惣兵衛、御百姓等迄路次御迎ニ参候事、一段の御振舞仕候、御脇指被遣候事」と石見国津和野つわの城主吉見元頼の家臣下瀬頼直が記しており、この地が吉見氏の先知行地であったことがわかる。


吉見村
よしみむら

[現在地名]田尻町吉見

樫井かしい川下流右岸にある。北東は嘉祥寺かしようじ村で北西は大阪湾に臨む。宝亀年間(七七〇―七八〇)吉見小佐治が当地を開発したといい、地名は開発者にちなむという(大阪府全志)。建久二年(一一九一)一〇月日の長講堂所領注文(島田文書)に地名がみえ、中世は後白河法皇の持仏堂長講堂領吉見庄の地。興国元年(一三四〇)三月、後醍醐天皇が懐良親王を征西将軍として九州に発向させた時、一行は大和吉野宮から当地に出、「吉見浦」から乗船したという(南方紀伝)。戦国期当地はしばしば和泉守護細川氏と紀伊の畠山氏との争奪の地となっている。「政基公旅引付」によると、文亀二年(一五〇二)九月一日、畠山氏に味方する根来ねごろ(現和歌山県那賀郡岩出町)と行動をともにした佐藤惣兵衛が佐野さの(現泉佐野市)や当地などの地下人を生捕りにしたり(同日条)、永正元年(一五〇四)四月五日には根来寺衆が当地辺りに出陣して放火している(同日条)


吉見村
よしみむら

[現在地名]津山市吉見

東北条とうほくじよう郡に属し、西は大篠おおささ村、東を南北加茂かも川が流れ、川の西岸に医王いおう(三四〇メートル)が屹立する。元禄一一年(一六九八)以後も津山藩領。枝郷に八代やしろ村があり、明暦元年(一六五五)に分村し、明治五年(一八七二)再び合併する。正保郷帳では田方二〇九石余・畑方六八石余、元禄一〇年の美作国郡村高辻帳では三九四石余、うち改出高七七石余・開高三九石余。


吉見村
よしみむら

[現在地名]木造町下福原しもふくはら

田圃を隔てて、北は遠山里とおやまさと村、東は菊川きくかわ村、南は中福原なかふくはら村、西は駒田こまた村へ続く。

天和三年(一六八三)の広須御新田所図に福岡ふくおか村とみえる。村名改称并新村創立調(八木橋文庫蔵)によれば、享保一一年(一七二六)福岡村が吉見村と改称された。翌年木造新田に属し、山通三六ヵ村の一つで村位は下とある(平山日記)。元文元年(一七三六)検地帳によれば、田畑屋敷合せて四〇町六反七畝一五歩、村高一九二・七一二石とある。


吉見村
よしみむら

[現在地名]福光町吉見

たち村の南、小矢部おやべ川東岸に広がる段丘上の奥小矢部おくおやべの村。医王いおう山累層の緑色凝灰岩の層が長期にわたる浸食を受けて大きな懸崖をなし、青壁とよばれる奇観を呈する。元和五年(一六一九)の家高新帳に「よしミ」とみえ、左次兵衛組に属し、役家数一〇。正保郷帳では高二三〇石余、田方四町四反余・畑方一〇町八反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高二四二石、免四ツ六歩、小物成は山役三四匁・蝋役二匁。


吉見村
よしみむら

[現在地名]市島町上田かみだ岩戸いわと上垣うえがい北岡本きたおかもと

江戸時代初期にあった村。のち郷帳類に吉見と肩書される上田・岩戸・上垣・岡本の四村に分村する。文禄年間(一五九二―九六)の検地帳に村名が載るという(「氷上郡村高辻帳」氷上郡志)。寛永一一年(一六三四)亀山藩領となる。正保郷帳に村名がみえ田高一千二〇〇石余・畠高三二九石余、芝山・日損所あり、同藩領。


吉見村
よしみむら

[現在地名]吉備町吉見

おき村の東方、近世に石垣いしがき庄とよばれた地域の西隅に位置する。慶長検地高目録によれば高二〇四石余、小物成二斗九升五合。家数は安永二年(一七七三)四九軒、寛政年間(一七八九―一八〇一)には四二軒で、うち本役九、半役一一、無役一八、庄屋・肝煎・行力各一、寺一、人数は一五五人(男八一・女七四)であった(御霊村郷土誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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