下長房村(読み)しもながぶさむら

日本歴史地名大系 「下長房村」の解説

下長房村
しもながぶさむら

[現在地名]八王子市長房町・並木町なみきちよう廿里町とどりまち城山手しろやまて一―二丁目

南浅みなみあさ川北岸から長房丘陵にかけて東西に広がる河岸段丘地帯に立地。甲州道中が通り、西に向かうと上長房村。南は浅川を境に上椚田かみくぬぎだ村・散田さんだ村。「ながふさ」とも。中世は京都東福寺領船木田ふなきた庄に含まれ、貞治二年(一三六三)一二月一九日の船木田庄領家方年貢算用状(東福寺文書)に長房郷とみえ、延文六年(一三六一)分・貞治元年分・同二年分の年貢として、それぞれ一貫文が東福寺に納入されている。至徳二年(一三八五)一二月二五日の船木田庄年貢算用状(同文書)では郷名の記載はないが、一括して記される本庄分二〇貫文のうちであった可能性がある。のち長房郷は武蔵守護代の系譜を引く大石氏の領するところとなり、天文二二年(一五五三)白山社の造営には権大僧都大阿闍梨珍慶・大檀那大石氏源左衛門尉縄周とともに「長房安楽寺別当」の智泉阿闍梨が関与していた(「棟札」風土記稿)。永禄一二年(一五六九)秋、武田信玄が武蔵に南下、北条氏照の滝山たきやま城を包囲するが、このとき信玄の命をうけた甲斐国都留つる郡の領主小山田信茂は小仏こぼとけ峠を越えて滝山城に迫った。奥多摩方面からの侵入を予想していた北条勢は不意をつかれ、急遽小山田勢を当地の廿里(戸取・鳥取とも)で迎え撃った。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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