与良郡・与良郷
よらぐん・よらごう
与良郡は鎌倉後期から江戸時代中期にかけてみえる郡で、対馬八郡の一つ。江戸時代中期以降は対馬八郷の一つとして与良郷と改める。現厳原町東部と美津島町全域、豊玉町の一部にわたる地域が想定される。与良は府の本号とあるように(津島紀略)、「和名抄」に下県郡に置かれたとする対馬国府の地で、のち国府・府中・府内の通称に取って代わられるが、野良・耶良崎の遺称を含めて古い呼称である。「和名抄」の下県郡内の諸郷を比定していくと、豆酘郷と鶏知郷の間が空きすぎるうえ、対馬では古代の郷名を継承した中世の郡名の例が多いことから、古代当地に郷(与良郷)が置かれていたと想定され、「和名抄」に記載がないのは脱漏とされる(国郡沿革考・大日本地名辞書)。天長七年(八三〇)の「新撰亀相記」に下県郡の卜部として夜良直がみえる。夜良直は国府の官人であった可能性が高い。天安元年(八五七)の変で上県直・下県直が遠流となったあと、国府に台頭した阿比留氏はこの夜良直が改姓したものとも考えられる。永暦元年(一一六〇)三月日の下津八幡所司解案(下津八幡宮文書)に余良院とあるのは、古代郷制が院に再編されたものと解され、同所の七段などが八幡宮の常灯油料所として設定されている。
〔与良郡〕
中世の対馬では古代の郷名を郡名として継承する例が多いが、乾元二年(一三〇三)九月二一日のあひるの千代証状案(大扈従判物帳)に「つしまのくによらのこをり」とあり、与良郡の成立が知られるが、国衙の単位所領としての性格をもったものと考えられる。その範囲は古代郷の鶏知・賀志・玉調に比定される地域を含むもので、広域にわたる。正慶二年(一三三三)「与良の郡すも」(現美津島町)の地頭分の田畠所々が代々の判形にまかせ、給分として須茂宮内に安堵された(同年八月六日「少弐貞経宛行状」島雄成一文書)。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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