対馬国(読み)ツシマノクニ

デジタル大辞泉 「対馬国」の意味・読み・例文・類語

つしま‐の‐くに【対馬国】

対馬

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日本歴史地名大系 「対馬国」の解説

対馬国
つしまのくに

古代

〔国名と名義〕

対馬の表記は「三国志」魏書東夷伝倭人条(以下「魏志倭人伝」)に対馬国とあり、日本列島で最も早くにみえる地名のひとつである。しかも中国の史書であること、現在に至るまでその表記が変わらないことも、対馬の歴史的性格を示すように思われる。日本側の史料では「日本書紀」大八洲生成条に「対馬嶋」とみえ、一書第七には対馬洲としており、神功皇后ほか允恭・雄略・顕宗・継体・敏達・推古・舒明・天智・天武の各天皇条においても対馬の表記である。ただし同書敏達天皇一二年是歳条には「津嶋」とも記しており、これは「古事記」や「先代旧事本紀」の用例と同じである。対馬と津島の表記や語義をめぐっては、いずれが本来かという議論が古くから行われている。

「古事記」大八島国生段に「津嶋。亦名謂天之狭手依比売」とあり、また天菩比命の子建比良鳥命は津嶋県直等の祖であるとあって、「古事記」ではすべて津島とする。こうした表記について、「日本書紀纂疏」が「対馬和訓猶言津也、海津之所有之嶋也」とするのをはじめ、湊に由来するという説明が多い。「古事記伝」は津島の名の義はとして「万葉集」巻一五の「毛母布禰乃波都流対馬」を引き、「韓国の往還の舟の泊る津なる島なり、魏志と云から書に、此岸のことを対馬国ついまこくとあり(中略)たゞ津島と云を、彼国にて聞キ伝へ誤りて、かくは書る物なり、さて書紀に、やがて此文字を仮字に取用て、対馬島つしまじまとかゝれたり、津島の仮字に対馬とかゝむは、さる例あれば、さも有リなむを、島ノ字を添られたるこそ、いと心得ね、島島と重ねて云フ名はあるべきことかは」としており、これが要を得た注釈とされる。「諸国名義考」もこれと同意見である。天明(一七八一―八九)頃、対馬の藤仲郷は「用対馬字者、西上人問我国名、答曰津志麻、彼人以移於国音而、曰都伊麻阿、以来填用対馬二字、其由之乎、本邦上古之俗取音不拘字、故仮用之也」(津島紀事)という見解を示している。「隋書」倭国伝に「都斯麻国」とあるのをみれば、「ツシマ」という名称が古くからあったことは確かである。そこで「古事記」などは津島としたにもかかわらず、「日本書紀」以下の国史が一貫して対馬としたのは、朝廷における公称が対馬国または対馬島であったからで、訓はツシマで通っている。

ツシマの語義を湊ではないところに想定する見解もある。「空華工夫略集」(応安四年末条)は「対馬乃対馬韓之義也」としている。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「対馬国」の意味・わかりやすい解説

対馬国
つしまのくに

九州と朝鮮との間に存在する島で、西海道(さいかいどう)に属する国の一つ。大宝令(たいほうりょう)の規定による下国(げこく)。国府(こくふ)は現在の長崎県対馬市厳原町(いづはらまち)に置かれていた。古くは上県(かみあがた)郡・下県(しもあがた)郡の2郡よりなり、上県郡には伊奈(いな)・向日(むかい)・久須(くす)・三根(みね)・佐護(さご)の5郷、下県郡には与良(よら)・豆酘(つつ)・賀志(かし)・雞知(けち)・玉調(たまつき)の5郷があった。延喜式(えんぎしき)によると大宰府(だざいふ)よりの海路行程は4日、正税(しょうぜい)3920束、庸(よう)・中男作物(ちゅうなんさくもつ)は免除され、特産物として銀を納めている。

 対馬は朝鮮半島より北九州への交通路として開け、『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』にも対馬について、「狗邪韓国(くやかんこく)から1000余里の海を渡ると対馬国に到着する。そこの大官を卑狗(ひこ)(彦)とよび、副官を卑奴母離(ひなもり)(夷守)とよぶ。住んでいるところは絶海の孤島で、面積は400余平方里(実際は約698平方キロメートル)で、土地は山が険しく、深林が多く、道路は鳥や鹿(しか)の通るような道しかない。そこには1000余戸の家があるが、良田がなく、海産物をとって食糧とし、自活生活を送っている。島民は船に乗って貿易をしている」との記事がみえる。対馬国では、初めは島司(とうし)、島分寺(とうぶんじ)と称されていたが、のちには国司(こくし)、国分寺と名称を改めた。島分寺は現在の対馬市厳原町国分字金石(かねいし)に建立されていたが、857年(天安1)の郡司(ぐんじ)の反乱で焼失している。また式内社は上県郡に16社、下県郡に13社が存在した。対馬は4世紀後半から大和(やまと)政権の朝鮮半島経営の前線基地となっていたが、663年(天智天皇2)8月の白村江(はくすきのえ)の敗戦によって、逆に防衛の第一線となり、防人(さきもり)と烽火(とぶひ)を設置し、667年には金田城(かねたのき)を築き、外敵の侵入に備えた。以来、対馬には防人が常駐することになった。対馬はしばしば外敵に襲われているが、894年(寛平6)9月の新羅(しらぎ)人の入寇(にゅうこう)、1019年(寛仁3)3月の刀伊(とい)の入寇は大規模な外敵の侵入であった。このように絶えず対馬は外敵侵入の危険にさらされていたので、平安時代には武勇に秀でた者を国司に任命した。

 鎌倉幕府成立後、源義長(よしなが)が守護に任じられたが、のちには武藤(むとう)氏が守護を世襲した。平安時代以来、在庁官人の阿比留(あびる)氏が土着して勢力を振るっていたが、鎌倉時代には武藤氏の地頭(じとう)代(代官)である宗(そう)氏が阿比留氏にかわって対馬を支配することになった。1274年(文永11)、81年(弘安4)の二度のモンゴル(元)の襲来によって、宗氏の奮戦にもかかわらず島民に多くの被害が生じた。14世紀後半には宗氏が事実上の島主として君臨しており、対朝鮮貿易も独占することになった。室町時代には対馬は倭寇(わこう)の中継基地となり、その根絶を意図する朝鮮側は1419年(応永26)大軍を対馬に送り、一時対馬を占拠した(応永(おうえい)の外寇)。この事件により朝鮮貿易が中絶したため、対馬は経済的に苦境に陥り、その後の外交交渉によって対朝鮮貿易の回復を図っている。豊臣秀吉(とよとみひでよし)による文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の朝鮮出兵には対馬がその前線基地となり、江戸時代にも宗氏(対馬藩)は対朝鮮外交の功によって、10万石格の大名として貿易の特権を与えられている。明治新政府成立後、対馬は厳原県となり、その後一時伊万里(いまり)県、佐賀県に所属したこともあったが、1872年(明治5)8月長崎県に合併され、現在に至っている。

[瀬野精一郎]


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「対馬国」の意味・わかりやすい解説

対馬国
つしまのくに

現在の長崎県対馬。西海道の一国。下国。古くから朝鮮との交通の要地として重視された。3世紀の『魏志倭人伝』には,「対馬国」とみえ,ここには千余戸の家があり,良田はなく,海のものを食して自活し,船で交易していると記されている。また『隋書』倭国伝には「都斯麻国」,『日本書紀』には「対馬島」,『古事記』には「津島」と記されている。日本が7世紀半ば朝鮮半島の経営を放棄してからは,対馬は外敵に対する最前線であったため,『日本書紀』天智天皇6年 11月の条には当国に金田城を築いたことがみえる。『旧事本紀』には「津島県直」が置かれたことが記され,『延喜式』には上県 (かむつあがた) ,下県の2郡がある。国府,国分寺ともに現対馬市厳原町に置かれた。『和名抄』には9郷,田 428町が記され,さらに『延喜式』神名帳には 29社の式内社がおかれたことがみえる。平安時代後期には津島直の後裔とみられる阿比留 (あひる) 氏が在庁官人として勢力をふるったが,鎌倉時代には大宰少弐武藤氏が守護となり,その代官として宗 (そう) 氏が支配した。元寇に際して宗資国・盛明父子は奮戦して死んだが,室町時代になると宗氏は守護として勢力を保持した。やがて宗氏は対朝鮮貿易の特権を獲得して勢力を蓄えたが,豊臣秀吉の文禄・慶長の役による朝鮮との国交断絶は宗氏にとって致命的な打撃となった。のち宗氏の努力で国交が回復。江戸時代には府中藩とも称され,10万石の格式を有した。明治維新後,対馬藩は厳原 (いづはら) 藩と改称され明治4 (1871) 年7月厳原県となり,同9月佐賀県と合併されて伊万里県となり,翌5年8月長崎県に編入された。

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藩名・旧国名がわかる事典 「対馬国」の解説

つしまのくに【対馬国】

現在の長崎県北部の対馬を占めた旧国名。『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に「対馬国」と記され、古くから海上交通の要衝にあった。律令(りつりょう)制下で西海道に属し、上県(かみつあがた)と下県(しもつあがた)両郡を管轄した。「延喜式」(三代格式)での格は下国(げこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の対馬市厳原(いづはら)町におかれていた。特産物は銀。鎌倉時代には1274年(文永(ぶんえい)11)と1281年(弘安4)にモンゴル(元(げん))軍が襲来、島民に大きな被害が出た(文永・弘安の役(えき))。13世紀後半から宗(そう)氏が台頭、南北朝時代末期には守護となった。室町時代には倭寇(わこう)の中継基地にもなった。宗氏は関ヶ原の戦いで西軍についたが、戦後徳川家康(とくがわいえやす)に謝り、やがて宗氏を藩主とする対馬藩(府中藩とも)が成立。幕府から朝鮮との外交、貿易の独占を許された。1871年(明治4)の廃藩置県により厳原県となったが、伊万里(いまり)県、佐賀県を経て、1872年(明治5)に長崎県に編入された。◇対州(たいしゅう)ともいう。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「対馬国」の解説

対馬国
つしまのくに

西海道の一島。現在の長崎県対馬市。「魏志倭人伝」には対馬国,「隋書倭国伝」には都斯麻と記され,「古事記」には大八島(おおやしま)の一つとして津島とある。「延喜式」の等級は下国。所属の郡は古来から2004年(平成16)まで上県・下県の2郡。島府と島分寺は下県郡(現,対馬市厳原(いずはら)町)におかれ,一宮は海神神社(現,対馬市峰町)。「和名抄」所載田数は428町余。「延喜式」では調は銀とされるが,ほかにも鉛・錫・真珠・金漆が献上されたことが,平安中期の「対馬国貢銀記」にみえる。海峡を隔てて朝鮮半島とむかいあうため,古来外交・軍事上の要地であった。664年(天智3)以降,防人(さきもり)・烽(とぶひ)がおかれ,666年には金田城(現,対馬市美津島町)が築かれた。刀伊(とい)の入寇,元寇の際には大きな被害をうけ,倭寇の拠点や,文禄・慶長の役の基地ともなった。古代には対馬国造氏が有力であったが,のち在庁官人出身の阿比留(あびる)氏,鎌倉時代以降は宗(そう)氏の支配下におかれ,そのまま近世の府中藩(対馬藩)に至る。卜部(うらべ)多数が住み,日本の亀卜の発祥地という。1871年(明治4)の廃藩置県により厳原県,ついで伊万里県となり,翌年5月伊万里県は佐賀県と改称,同年8月長崎県に編成がえとなる。

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世界大百科事典(旧版)内の対馬国の言及

【対馬島】より

…663年(天智2)の朝鮮半島白村江での敗戦後は国防の最前線となり,翌年に防人(さきもり),烽(とぶひ)が配備され,667年には金田(かなだ)城が築かれたが,のち1019年(寛仁3)の刀伊(とい)の入寇では大被害を受けた。古くは対馬国と称され,律令制の成立とともに上県・下県2郡を管する対馬島として国に準ずる扱いを受けた。国府・国分寺は現下県郡厳原(いづはら)町にあった。…

※「対馬国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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