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対馬国 つしまのくに

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

対馬国
つしまのくに

現在の長崎県対馬。西海道の一国。下国。古くから朝鮮との交通の要地として重視された。3世紀の『魏志倭人伝』には,「対馬国」とみえ,ここには千余戸の家があり,良田はなく,海のものを食して自活し,船で交易していると記されている。また『隋書』倭国伝には「都斯麻国」,『日本書紀』には「対馬島」,『古事記』には「津島」と記されている。日本が7世紀半ば朝鮮半島の経営を放棄してからは,対馬は外敵に対する最前線であったため,『日本書紀』天智天皇6年 11月の条には当国に金田城を築いたことがみえる。『旧事本紀』には「津島県直」が置かれたことが記され,『延喜式』には上県 (かむつあがた) ,下県の2郡がある。国府,国分寺ともに現対馬市厳原町に置かれた。『和名抄』には9郷,田 428町が記され,さらに『延喜式』神名帳には 29社の式内社がおかれたことがみえる。平安時代後期には津島直の後裔とみられる阿比留 (あひる) 氏が在庁官人として勢力をふるったが,鎌倉時代には大宰少弐武藤氏が守護となり,その代官として (そう) 氏が支配した。元寇に際して宗資国・盛明父子は奮戦して死んだが,室町時代になると宗氏は守護として勢力を保持した。やがて宗氏は対朝鮮貿易の特権を獲得して勢力を蓄えたが,豊臣秀吉の文禄・慶長の役による朝鮮との国交断絶は宗氏にとって致命的な打撃となった。のち宗氏の努力で国交が回復。江戸時代には府中藩とも称され,10万石の格式を有した。明治維新後,対馬藩は厳原 (いづはら) 藩と改称され明治4 (1871) 年7月厳原県となり,同9月佐賀県と合併されて伊万里県となり,翌5年8月長崎県に編入された。

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デジタル大辞泉の解説

つしま‐の‐くに【対馬国】

対馬

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藩名・旧国名がわかる事典の解説

つしまのくに【対馬国】

現在の長崎県北部の対馬を占めた旧国名。『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』に「対馬国」と記され、古くから海上交通の要衝にあった。律令(りつりょう)制下で西海道に属し、上県(かみつあがた)と下県(しもつあがた)両郡を管轄した。「延喜式」(三代格式)での格は下国(げこく)で、京からは遠国(おんごく)とされた。国府と国分寺はともに現在の対馬市厳原(いづはら)町におかれていた。特産物は銀。鎌倉時代には1274年(文永(ぶんえい)11)と1281年(弘安4)にモンゴル(元(げん))軍が襲来、島民に大きな被害が出た(文永弘安の役(えき))。13世紀後半から宗(そう)氏が台頭、南北朝時代末期には守護となった。室町時代には倭寇(わこう)の中継基地にもなった。宗氏は関ヶ原の戦いで西軍についたが、戦後徳川家康(とくがわいえやす)に謝り、やがて宗氏を藩主とする対馬藩(府中藩とも)が成立。幕府から朝鮮との外交、貿易の独占を許された。1871年(明治4)の廃藩置県により厳原県となったが、伊万里(いまり)県、佐賀県を経て、1872年(明治5)に長崎県に編入された。◇対州(たいしゅう)ともいう。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

対馬国
つしまのくに

九州と朝鮮との間に存在する島で、西海道(さいかいどう)に属する国の一つ。大宝令(たいほうりょう)の規定による下国(げこく)。国府(こくふ)は現在の長崎県対馬市厳原町(いづはらまち)に置かれていた。古くは上県(かみあがた)郡・下県(しもあがた)郡の2郡よりなり、上県郡には伊奈(いな)・向日(むかい)・久須(くす)・三根(みね)・佐護(さご)の5郷、下県郡には与良(よら)・豆酘(つつ)・賀志(かし)(けち)・玉調(たまつき)の5郷があった。延喜式(えんぎしき)によると大宰府(だざいふ)よりの海路行程は4日、正税(しょうぜい)3920束、庸(よう)・中男作物(ちゅうなんさくもつ)は免除され、特産物として銀を納めている。
 対馬は朝鮮半島より北九州への交通路として開け、『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』にも対馬について、「狗邪韓国(くやかんこく)から1000余里の海を渡ると対馬国に到着する。そこの大官を卑狗(ひこ)(彦)とよび、副官を卑奴母離(ひなもり)(夷守)とよぶ。住んでいるところは絶海の孤島で、面積は400余平方里(実際は約698平方キロメートル)で、土地は山が険しく、深林が多く、道路は鳥や鹿(しか)の通るような道しかない。そこには1000余戸の家があるが、良田がなく、海産物をとって食糧とし、自活生活を送っている。島民は船に乗って貿易をしている」との記事がみえる。対馬国では、初めは島司(とうし)、島分寺(とうぶんじ)と称されていたが、のちには国司(こくし)、国分寺と名称を改めた。島分寺は現在の対馬市厳原町国分字金石(かねいし)に建立されていたが、857年(天安1)の郡司(ぐんじ)の反乱で焼失している。また式内社は上県郡に16社、下県郡に13社が存在した。対馬は4世紀後半から大和(やまと)政権の朝鮮半島経営の前線基地となっていたが、663年(天智天皇2)8月の白村江(はくすきのえ)の敗戦によって、逆に防衛の第一線となり、防人(さきもり)と烽火(とぶひ)を設置し、667年には金田城(かねたのき)を築き、外敵の侵入に備えた。以来、対馬には防人が常駐することになった。対馬はしばしば外敵に襲われているが、894年(寛平6)9月の新羅(しらぎ)人の入寇(にゅうこう)、1019年(寛仁3)3月の刀伊(とい)の入寇は大規模な外敵の侵入であった。このように絶えず対馬は外敵侵入の危険にさらされていたので、平安時代には武勇に秀でた者を国司に任命した。
 鎌倉幕府成立後、源義長(よしなが)が守護に任じられたが、のちには武藤(むとう)氏が守護を世襲した。平安時代以来、在庁官人の阿比留(あびる)氏が土着して勢力を振るっていたが、鎌倉時代には武藤氏の地頭(じとう)代(代官)である宗(そう)氏が阿比留氏にかわって対馬を支配することになった。1274年(文永11)、81年(弘安4)の二度のモンゴル(元)の襲来によって、宗氏の奮戦にもかかわらず島民に多くの被害が生じた。14世紀後半には宗氏が事実上の島主として君臨しており、対朝鮮貿易も独占することになった。室町時代には対馬は倭寇(わこう)の中継基地となり、その根絶を意図する朝鮮側は1419年(応永26)大軍を対馬に送り、一時対馬を占拠した(応永(おうえい)の外寇)。この事件により朝鮮貿易が中絶したため、対馬は経済的に苦境に陥り、その後の外交交渉によって対朝鮮貿易の回復を図っている。豊臣秀吉(とよとみひでよし)による文禄(ぶんろく)・慶長(けいちょう)の朝鮮出兵には対馬がその前線基地となり、江戸時代にも宗氏(対馬藩)は対朝鮮外交の功によって、10万石格の大名として貿易の特権を与えられている。明治新政府成立後、対馬は厳原県となり、その後一時伊万里(いまり)県、佐賀県に所属したこともあったが、1872年(明治5)8月長崎県に合併され、現在に至っている。[瀬野精一郎]

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世界大百科事典内の対馬国の言及

【対馬島】より

…663年(天智2)の朝鮮半島白村江での敗戦後は国防の最前線となり,翌年に防人(さきもり),烽(とぶひ)が配備され,667年には金田(かなだ)城が築かれたが,のち1019年(寛仁3)の刀伊(とい)の入寇では大被害を受けた。古くは対馬国と称され,律令制の成立とともに上県・下県2郡を管する対馬島として国に準ずる扱いを受けた。国府・国分寺は現下県郡厳原(いづはら)町にあった。…

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