住居の類語としては,すぐに住宅・住いがあげられる。住宅と住居を比べると,住宅のほうが人間のすみかとしての建物の側面を強く含意する。住い(すまひ)は〈すまふ〉の連用形の名詞化であり,当て字として〈住居〉を用いることがある。つまり住居と住いは一応同義ととらえてよいし,そこには住むという人間の能動的な営み,すなわち人の暮しが浮き出されている。《日本大辞書》(山田美妙著,1892-93)によると,〈すむ〉には(1)居所を定める〈住む〉,(2)濁りがなくなる〈澄む(あるいは清む)〉,(3)事終わってすべて澄むの〈済む〉があてられており,《岩波古語辞典》では〈すみ(棲み・住み)〉は〈スミ(澄)〉と同根であり,あちこち動きまわるものが,一つ所に落ち着き定着する意とある。これらに従うと,〈住む〉とは一定の場所にいて,落ち着き濁りのない状態にあることをさすと考えてよいであろう。そうした状態を支えている場所が住居なのである。
しかし世界のさまざまな民族の住居に目を向けるとき,この住居の定義を超えるものにぶつかる。それは採集狩猟社会や遊牧社会という移動性の高い生業形態をもつ民族の住居である。農耕社会でも焼畑を経営する人々の住居は多少なりとも移動性を伴う。遊牧民ベドウィンのテントやモンゴルのゲルに代表されるような移動式住居は,われわれにもう一つの住居観を教えている。それは一ヵ所に定住しない世界であり,家船(えぶね)を住居とする漂海民にも通じていく。だがこの一見両極をなす住居観も,定着しているにせよ,移動しているにせよ,ある一定のパターンの住居を保持し,それを拠点にして人々が暮らしているという事実にまで立ち戻れば,人々がやはり落ち着き濁りのない状態を必要としている点では違いがないのである。
そこでさまざまな民族が保有する多様な住居形態はいかにして成立してきたのか。そうした形態を生み出した要因として,いかなることが考えうるであろうか。結論的にいうと,(1)土地の気候と地形,(2)土地で得られる材料,(3)生業形態,(4)社会組織とそこでの人間行動,(5)自己表現としての世界観や信仰形態等の要因が問題になる。一口で言えば,住居とは,自然から文化までを含み込んだ広い意味の生態学的な場の所産である。
気候では,気温と降水量が強い影響力をもつ。寒い地域では採暖保温が,暑い地域では耐暑性が住居に求められる。北アジアから北西アメリカに見られる土で覆われ密閉された半地下式住居pit houseは,厳寒の冬への適応から生まれたものであり,その支柱や入口のつくり方にも積雪への配慮が認められる。一般に,竪穴住居は北の寒い地域に源をもつとされる。一方熱帯では,おおむね2通りの耐暑法が認められる。一つは通風に頼るもので開放的なつくりとなる。東南アジアに広く分布する高床住居(杭上住居)は,湿気の高い地表面から床面を離し,床下からの通風が耐暑の役割を果たす。しばしば竹床が用いられ,すきまをあけて張るようにされている。もう一つは熱風・熱気が屋内に入ることを防ぐ閉鎖的なつくりである。北アフリカ,南西アジアからインドに広がる窓をほとんどもたない厚い土壁の住居は,屋内の急激な温度変化を制御し,昼は涼しく夜は暖かい屋内を用意する。熱帯といえども夜は意外に冷えるので,早朝には暖を必要とする。そのための純粋に採暖用の炉が,東南アジアやオセアニアの山岳民族の間にみられる。この炉の火は夜のひどい湿気を取り除く防湿効果ももっている。
雨量についての一般論は,多雨地域では傾斜屋根すなわち切妻や寄棟,あるいは入母屋の屋根が見られ,雨が多いほど急勾配となる。逆に勾配のない陸(ろく)屋根は雨量の少ない地域にのみ見られる。このことはインド亜大陸でみると,南東部の湿潤と北西部の乾燥という対比の中に,その実例を見てとれる。
その土地に長く生き続けてきた住居を見ると,その材料はまちがいなくそこに豊かに存在してきた物を利用している。その典型には,有名なエスキモーのイグルー(カナダのキング・ウィリアム島,メルビル半島を中心とした地域の人々が主としてつくる)がある。無尽蔵にある雪を用いて,5,6人用の雪の家が,一人の力で2時間たらずでつくられる。針葉樹林の直材が容易に得られる所では,丸太組構造や校倉(あぜくら)造の木造住居が卓越する。中国北部,南西アジア,北アフリカに広がる土壁の住居も,その素材は足下の土であることが多い。石が豊富な山岳地域や地中海地域では石積住居が生まれる。屋根材を考えても,ココヤシがあればヤシの葉葺き,稲作地帯では稲わら葺きというふうに,入手の容易な材料が最大限に利用されてきた。こうしてその土地条件や気候条件に応じ,それを生かす技術が伝統として蓄積され共有されてきたのである。
生業形態もまた住居を規定してきた。人間の生業として最も基層をなす採集狩猟は,今日わずかな残存を示すのみではあるが,なおもわれわれが住居を論ずるときの原点となる。自然の食糧を探し求める採集狩猟社会は,ひとえに自然の側の食糧供給の質と量に応じた多様性を示す。しかし,おしなべて移動性をその特徴としている。フィリピンのネグリト,マレー半島内陸のセマン族,あるいはオーストラリアのアボリジニーの間に見られる,または見られた風よけwindbreakは,最も簡素な使い捨て住居といえる。これは風や露をしのぐという人間にとっての最小限の機能をもち,住居というより覆いの域を出ない。これより一歩進むとアフリカ南部のカラハリ砂漠のサン,アフリカ中部のコンゴの密林に住むピグミーなどに見られる半球状住居domed hutとなる。こうした簡易な住居では,しばしば住居づくりは主婦の仕事であり,手近の小枝や草を集めて数日以上かけてゆっくりつくられる。また北アメリカのカナダ内陸部や大平原インディアンの間に見られるティピと呼ばれる円錐形テントもトナカイやバッファローの群れを追う移動的な狩猟生活への適応である。この円錐形テントは北アジアにまで広がる分布を示しており,そのテント地として獣皮や樹皮が用いられている。アラスカ内陸に見るように,木造主体の定着的な〈冬の家〉に対して,〈夏の家〉として円錐形テントが用いられることがある。
採集狩猟よりはるかに安定性を増しているが,遊牧社会も移動性を不可避とする。その遊牧地域は,ユーラシア大陸の北東から南西にかけて展開している。そこにはモンゴルのゲル(中国ではパオ,中央アジアではユルタ),チベットや西アジアそして北アフリカに広がる黒色の方形テント等が見られ,遊牧社会という農耕社会とは別の生き方における成熟が,そうした住居に表現されている。ゲルや方形テントは一定の場所に長期間とどまらないとしても,その内部はけっして仮設的なものでなく,住居として充実し完成されたものである。技術的にみても,最小の材料によって最大の空間的機能を得ている点で,ひじょうに高い合理性をもっている。
これに対して,定着性の高い農耕社会に向かうにつれて,住居に投入する人々の労力は増大し,それとともに技術も発展を見る。ロビンズM.C.Robbinsの指摘によると,移動性の高い住居平面は円形であり,定住性を高めると矩形平面となることが一般的傾向としてあるという。定住により内部空間拡大の欲求が高まり,それは強い壁を必要とした。ここに矩形平面を壁で囲い,切妻屋根をのせた定住的住居の基本型が成立する。農耕社会の卓越を経た今日では,これが人類大多数の住居形態となっている。
住居はまた,制度としての社会組織とそこで展開する人間行動を写し出している。家族にはじまる社会組織と住居形態との対応の議論はL.H.モーガンをもって嚆矢とし,なお論じ続けられている。たとえばモーガンの扱ったアメリカ・インディアンのイロコイ族のロングハウスでは,母系リネージで結ばれた合同家族が集居し,各夫婦単位が寝室を保有していた。より一般的に大型住居と母系集団との相関関係を説く者もいる。しかし東南アジアのロングハウスの場合のように,大型の集合住居でありながら氏族clanや系族lineageの存在とは結びつかない例もあることは注意しておく必要がある。
人々の構成から人々の行為に目を移すと,日常生活行為が営まれる焦点の場としての住居という姿が見えてくる。さまざまに分割しうる日常行為の中で,寝,食,接客はその骨格を形成すると考える。そして事実,多くの伝統的住居において,これら三つの機能が住居平面(間取り)に表現されている。つまり家族にとっての居間でもある寝室,食事をつくりしばしばそこで食べる台所,そして住居の表側に位置し外来者を迎える接客空間が住居の基本的な構成要素になる。それ以上の空間分割による拡充はいずれも,これら3要素からの枝分かれとして解釈できる。この基本的住居平面において,広く認められる図式に一種の二元的空間分割原理がある。すなわち,寝室・台所-内-女性-家族と,接客空間-外-男性-外来者という対照である。周知のとおりイスラムやヒンドゥー教を信奉する民族においては,この二元性が強い規制として働くし,その強度に差はあっても東アフリカのダトーガ族やマサイ族のような一夫多妻制における〈女の家〉と〈男の家〉といった対比の形も見られる。このような分割原理が広く存在することは,生物学的レベルに根差した日常生活における男女の役割分担の普遍性の現れと見ることもできる。
立ち戻って,寝・食が人間にとっても不可欠の基礎的要求であれば,寝室・台所が必要なことはすぐに了解できるが,加えて接客空間が遍在するという事実には,その意味を問う価値がある。たとえば,イバン族(ボルネオ島)のロングハウスにおける〈ルアイ〉と呼ばれる長大な廊下は,村人の共用空間であり,外来者を迎え入れる場所でもある。つまりそこは外に向かって開かれた場所といえる。伝統的には男性の多くが,家族のいる〈ビレック〉という居室ではなく,夜このルアイに休んできたし,男性客が泊まる場合もルアイが寝所となる。このように接客空間ルアイが内と外のはざまにあって,両義性を体現しているのである。そこは,内外の接点として交流と防衛の窓口になっているともいえる。つまり住居の空間要素としてのこの接客空間の遍在は,住居そのものが本来的に交流と防衛のための構えをもつことを教えている。その交流と防衛の対象は,狭義には人間である外来者であるが,広くは内なる人間に対して外なる自然,さらに超自然的存在としての神々までを含んでいる。このことは日本でいえばまれびと信仰や外者歓待の風に見てとれ,伝統的住居空間が両義的な空間をはさむことで,そうした外なるものを内なる人間が受容可能な形に変換させるしかけとなっているのである。
ここまでくると,社会組織から出発した話も,すでにその民族のもつコスモロジーの問題に触れてくる。住居と宇宙観ないし世界観とのかかわりである。このような例として,多彩なインドネシアの民族建築の中でもひときわ異彩を放つスラウェシのトラジャ族の住居やスマトラのバタク族の住居があげられる。それらの住居のもつけた外れの装飾性に,その民族の宇宙観の現れを見ることができる。そこには神話的世界をともなった象徴的意味が託されている。逆の言い方をすれば,世界観・宇宙観の存在が住居の上に宇宙の中心性を担いうるような秩序を描かせるのである。たとえばヒンドゥー教徒にあっては,浄・不浄という尺度が住居を貫く。住居の内部は浄なる状態で保たれる必要があり,かりに穢れをうけることがあれば,すみやかに浄化されなければならない。そして,そうした住居の中心に〈神の部屋〉と呼ばれる,ヒンドゥー教の神々をまつる場所がある。この聖にして浄なる神の部屋には,とりわけ穢れが持ちこまれないように注意される。その部屋におわす神々は,必ず東方に顔を向ける。また,台所のかまども必ず東側につけるという例もあげられるが,これらは,東方から昇る朝日は強い活力を有するという観念に基づく。ここに,東方に原初の活力と聖性を認める彼らの世界像と住居構成のつながりの一つを見ることができる。インドにおいて,住居から都市までその建設の指針とされてきたシルパシャーストラ(《マーナサーラ》)や中国の風水説では,住居をミクロコスモスと考え,人体とも対応する宇宙(マクロコスモス)を反映するしかけとして説いている。無文字社会においても,バリ島やアイヌの住居に見るように,海と山,天と地,あるいは川上と川下といった方向軸に沿った民俗方位が発達し,住居はそこで世界の中心として位置づけられ,コスモス・イメージ(宇宙像)を演出する場となる。
こうして住居は,その本質において儀礼の場となる。儀礼をとおして,この住居というしかけの場で宇宙と合体する神話的世界を人々が一様に生きる。その体験をくり返し,蓄積することで,民族のコスモス・イメージは身をもって伝達されていく。この点で,伝統的住居がある民族の間で形態上の一様性を示すことは見のがせない。そこに,住居が民族文化の制度であり,学習装置といわれるゆえんがある。こうして住居が単なる建物ではなく,人々がそこで生きられる場所でなければならないことを,あらためて知ることになる。また,そこに住居が保守性を強くもつゆえんがある。接触の密な2民族の間でも,住居はおのおのの伝統型が守り続けられる。アメリカ・インディアンのナバホ族とプエブロ族のケースはその有名な例であり,ロングハウスの卓越するボルネオでも,民族ごとにロングハウスの形態が異なり,しかも変化しない。また政府主導の計画村にさまざまな民族が混住することになったときも,皆それぞれに民族が伝統としてきた住居をつくって住み始めるのである。したがって,もしある民族がその保有してきた住居形態を変えるということがあれば,その民族社会に大きな文化的変容が起こっていると当然考えねばならない。
ラポポートA.Rapoportは住居形態を第一義的に規定するのは社会・文化的要因であり,他の諸条件は二義的なものであると言う。すなわち居住環境はいわば身体化されているのである。その点で人々の日々の生活面である床(ゆか)のもつ意味は大きい。高床住居と地床住居の差異はその端的な例となる。高床住居が卓越する東南アジアにも一部に地床住居が混在する。それには中国からの影響によるものとインドからのものと2系統が考えられる。もう少し視野を広げると,同じアジアの熱帯の下にありながら,土から離れ垂直方向に空間分節をなす高床住居の圧倒する東南アジア文化圏と,土に多大の親近感を示す地床住居のインド文化圏とに分かれているのを知る。両者の間には,長い伝統の中で培われ身体化されてきた空間感覚における好みpredilectionの差異が存在する。実はこの身体化された好みが住居の保守性を貫かせている。その意味で住居はそれぞれの民族にとってアイデンティティを表現し確認する場となるのであり,言い換えれば,住居は人間と自然(宇宙)との間にたって両者を媒介させる働きをもつのである。この保守性のうちに,濁りなく落ち着ける場所を求める人間の,住居に託する深い欲求を見ることができる。
執筆者:関根 康正
日本に人が住みはじめたのは旧石器時代であるが,その時代の住居遺跡が発見されていないので,まったくわかっていない。おぼろげにわかってくるのは縄文時代早期以降である。遺跡として残っている当時の住居は,地面を50~60cmぐらい掘りくぼめ,中央に火をたく炉を設けていた。穴の中の床面には木の柱を立てたと思われる小穴があるので,上は木材の骨組みを使い,茅(かや)などの草で屋根を葺いていたと考えられる。このような形式の住居を竪穴住居と呼ぶ。
竪穴住居は縄文時代から弥生時代,古墳時代を通して全国各地で遺跡が発見されており,東日本では奈良・平安時代から,鎌倉時代になっても使われている。竪穴の平面は,縄文時代早期には不整な円形で規模も小さかったが,前期になると方形で面積も40m2を超えるような規模の大きなものも見られるようになる。縄文時代中期以降になると円形または隅丸方形の平面が多くなり,柱穴も規則的に配列されるようになる。弥生時代中期以降になると方形平面のものが多くなるが,西日本では整った円形平面を有し,柱穴を円形に配置した住居跡も数多く発見されている。竪穴住居の上屋に関しては,遺跡から木材や草屋根の断片,焼炭が発見されたことはあるが,構造の詳細が判明するような資料は見つかっていない。したがって,復元された竪穴住居の上屋はいずれも推定によるものである。遺跡以外の上屋の復原資料も少なく,外観を示すものとして奈良県佐味田宝塚古墳出土の〈家屋文鏡〉と呼ばれる銅鏡の背面彫刻と,奈良県東大寺山古墳出土の鉄刀環頭柄頭の彫刻だけしかない。関野克は中国地方の製鉄場として伝承される高殿(たたら)の構造が,竪穴住居の平面や外観と合致しているところから,高殿の形式を参考にして登呂遺跡の住居を復元した。その上屋は,4本の掘立柱の上部に梁(はり)を置き,その上に斜めに扠首(さす)を組んで棟木を支え,棟木と梁から周囲の地面に向けて垂木(たるき)を渡し,これを骨組みにして,上に茅の屋根を葺くという構法である。その後つくられた多くの復原建物も,同じような構法を用いているが,遺跡によっては柱穴が奇数個あったり,円形に並んでいたりして,高殿型の上屋にはなじまないものもあり,実際の上屋は多様な形式のものがあったと思われる。
古墳時代も庶民の住居は竪穴住居であったと考えられる。家屋文鏡には(1)草葺入母屋造屋根で床が高く,妻側に広縁があり,その上に日よけの傘が差し掛けられている建物,(2)草葺入母屋造屋根で,床はあまり高くない建物,(3)草葺切妻造屋根で床の高い倉庫の3棟の建物が,竪穴住居とともに描かれている。また,家型埴輪(はにわ)の中にも高床のりっぱな建物,平床の建物,高倉などが組み合わさったものがあり,当時の豪族の家では,高床住居,平床住居,竪穴住居,高倉などが用途に応じて建てられていたものと考えられ,用途により形式の違った建物が一群となって,住居を形成していたとしてよいであろう。高床や平床の建物は,壊されてしまえば小さな柱穴しか残らないので,遺跡を確認することが難しく,住居の平面などはわかっていないが,それを類推できる資料として,大嘗宮(たいじようぐう)正殿がある。大嘗宮は,天皇が即位後初めて新嘗祭を行うとき,祭場に当てられる臨時の建物である。〈貞観儀式〉などに伝えられる正殿の建物は桁行5間,梁間2間,切妻造青草葺の屋根で,内部は三方を壁で閉じた桁行3間の室(むろ)と呼ばれる部分と,外に向かって2ヵ所に出入口のある堂と呼ばれる桁行2間の部分からなっており,古来の住居の平面形式を伝えるものとされている。
この時代の住居資料も多くは発掘調査によっている。法隆寺東院の地下で発見された斑鳩宮(いかるがのみや)の遺跡は,掘立柱を用いた数棟の建物が計画的に配置され,整った外観を示していたものと思われる。
平城京跡からも住居の遺跡が数多く発見されている。なかでも左京三条二坊六坪の住宅は,邸地の東南に華麗な石組みをもった池庭があり,庭に面した2棟の建物のほか,数棟の規模の大きな建物が邸内に配置された豪壮な構えであった。しかし,遺跡からわかることは,建物の前後や前後左右に庇(ひさし)の付いた規模の大きな建物が見られるようになったことと,柱はすべて掘立柱であり,屋根は板葺きや檜皮(ひわだ)葺きであって瓦は使われていなかったことなどで,建物の用途など詳しいことはわからない。奈良時代の住居資料で室内の状況などがわかるものは,法隆寺東院伝法堂前身建物と正倉院文書から復元された藤原豊成殿とである。法隆寺東院伝法堂の建築は,寺に施入される以前は橘夫人の邸内の建物であった。残存していた古材などから復原された前身建物の形は,桁行5間,梁間4間の板床の建物のうち,桁行3間分を壁や扉で仕切り,残り2間は2方向を開放にし,妻側の先端に簀の子(すのこ)の広縁を設けていた。屋根は檜皮葺きと考えられている。内部は仏堂と同じように二重虹梁と板蟇股(いたかえるまた)を使って屋根を支えているが,平面の形式が,家屋文鏡の高床住居や大嘗宮正殿に通じているところから,奈良時代の住宅の形式を示しているものとされる。藤原豊成殿は藤原不比等の孫豊成が近江紫香楽宮(しがらきぐう)の近くに建てた別業の建物の一つで,のち石山寺に移して食堂(じきどう)にされたが,その移建時の詳しい記録(《正倉院文書》)があり,それに基づいて復原案が作成されている。建物は板葺きで桁行5間,梁間3間の周囲を板壁と扉で仕切り,前後に幅の広い屋根付の広縁が設けられていた。このように奈良時代の住居は,後に寝殿造へと発展してゆく貴族住宅の過渡的な形がだんだんと明らかになってきている。他方,庶民の住居の多くは室と呼ばれる竪穴住居であったことが《万葉集》の用例などによって知られている。
→掘立柱建物
平安時代の住居は,初期の状況はあまりわかっていないが,中期以降になると,文献や絵巻物などによって,かなり詳しい状況がわかるようになる。それらの資料によると,(1)貴族階級の住宅は定形化した形式がみられ,寝殿造と呼ばれる。(2)地方の豪族の住居も寝殿造に準ずる形式であった。(3)京都付近の庶民住居は部分的に床を張り,壁面が立ち上った形式になったことがわかる。
貴族の住いである寝殿造は,所有者の地位や財力によって建築の規模も棟数も大きく違ってくるが,共通して見られる特徴を要約すれば次のようになる。(a)主人の居所である寝殿,家族の居所である対屋(たいのや)や庭園観賞のための釣殿(つりどの),泉殿(いずみどの),内向の施設である蔵人所(くろうどどころ),侍所(さむらいどころ),随身所(ずいじんどころ),車宿(くるまやどり),台盤所(だいはんどころ)など,独立した建築群から成り立っている。(b)それぞれの建物は廊または渡殿(わたどの)でつながれる。住宅の周囲には築垣(ついじ)を設けて外部と遮断し,出入口として四脚門または棟門を設ける(門)。建物の入口は主として門に面して建てられた中門の側面に取り付けた廊(中門廊)の端の沓脱(くつぬぎ)が使われた。(c)1043年(長久4)から1166年(仁安1)まで藤原氏の邸宅として使われた東三条殿の寝殿は,6間×2間の身舎の四周に庇をまわし,北側にはさらに孫庇が設けられていた。身舎(母屋)(もや)は東端2間を妻戸(扉)で閉じて塗籠(ぬりごめ)とし,北庇と西庇は障子(現在いう襖)や遣戸(やりど)で小部屋に仕切られている。身舎の西4間板張床の広い部屋で,中を屛風や几帳(きちよう)で適当に仕切って日常の生活を行った。座具としては置畳(おきだたみ)を敷き,寝所には,床を一段高くし,四本柱で天井を支えて四方に帳を垂らした帳台が使われていた。東三条殿は貴族住居では最大規模のものであるが,寝殿などの構成原理は他の貴族住居に共通していたものと考えられる。なお,寝所は天皇の寝所である清涼殿の夜御殿(よるのおとど)/(よんのおとど)が塗籠であるところから,平安時代初期ころまでは塗籠が寝所として使われていたようであるが,平安時代後期になると塗籠は貴重品を入れておく物置になり,寝具として帳台を部屋に置くようになる。また,平安時代末期には小部屋の床を一段高くし,入口の端に方立(ほうだて)を立て,帳を垂らした作り付けの帳台が見られるようになる(《伴大納言絵詞》)。(d)家屋の構造は礎石の上に丸柱を立て,舟肘木を用いて桁を支え,扠首で小屋を組み上げた。屋根は檜皮葺きか板葺きで瓦は使わない。建具は蔀戸(しとみど)や妻戸を用い,横にすべらす引き違いの遣戸や障子も用いられた。(e)規模の大きな邸宅では寝殿の南に池庭を設け,遊興の場として釣殿や泉殿などを備えていた。
→寝殿造
地方の豪族の住居は,平安時代末期のようすが《信貴山縁起絵巻》や《粉河寺縁起絵巻》に描かれている。それらによると,主屋は蔀戸や妻戸を用い,内部は前後二つに分かれ,前の広い部屋で日常の生活が営まれるようになっている。これらの部屋の横には,家事を行う部屋が棟を代えて付け足される。屋敷の内には家族の住いである副屋や馬屋,蔵,釜屋などが独立した建築として建てられているが,建物間には歩板(あゆみいた)が渡されるだけで,寝殿造のような渡殿や廊は使われていない。主要な建物の屋根は茅葺きで庇を板で葺く。副次的な建物の屋根は長板葺きで,竹の柱を用いた建物もあるが全体には堂々とした構えを見せている。一方,《粉河寺縁起絵巻》に描かれた猟師の家は,前方に建具のない広い部屋があり,その奥に壁で囲われた部屋が続く。その裏には室内からは連続しない形で建具のない作業場が付けられている。この主屋の平面は大嘗宮正殿の平面と共通する構成になっており,庶民の住居としても,かなり程度の高い住居をモデルにしたものと思われる。同じ庶民の住居でも《信貴山縁起絵巻》に描れた奈良の家は,板葺土壁塗の建物で,半分を土間,他の半分を床(ゆか)としている。土間の入口は扉,床の開口は突止戸(つきとめど)になっている。《年中行事絵巻》の中には京都の町屋がいくつか描かれているが,基本的な構成は《信貴山縁起絵巻》の奈良の家と共通しており,もう一つの庶民の住居の形式を示しているものと考えられる。竪穴住居が中心であった奈良時代以前に比べて,平安時代は庶民住居を含め,大きな向上がみられた時代であるといえる。
鎌倉時代は政権の担い手が貴族から武士に移行し,封建的な支配体制が確立した時代であるが,住宅建築の上では目だった変化が見られなかった時代である。新たな支配階級である武士の住居は寝殿造を継承したものであり,大きな変化は認められなかったが,部分的な変化が積み重ねられてゆく。それらは(1)外部に面した建具として明障子(あかりしようじ)が普及し,蔀戸と明障子,舞良戸(まいらど)と明障子という組合せが行われる。(2)建具の変化に従って円柱が大きな面を取った角柱に変化した。(3)建物への出入口である中門廊端の妻戸が軒に唐破風を設けるなど,出入口らしい構成を取るようになる。(4)座具としての畳が普及し,部屋の縁に沿って敷きまわすようになる。(5)居室の多くに天井が張られるようになる。このような鎌倉時代の武家住宅をさらに変貌させていったのは,僧侶の住いの影響である。当時の僧侶の多くは,寺院の中で個別の住房を構えて修行を行っていたが,書見のために棚板のついた出窓(附書院)を設けたり,仏画をまつるため壁面の前に飾棚を固定した装置(押板(おしいた))を設けることが一般化していった。これらの変化は14世紀から15世紀にかけて進んでいったが,やがて,それが武家住宅にも採り入れられるようになる。
14世紀は,南北朝の争乱で世情が不穏になった時期であるが,このころを境に一時物置になっていた塗籠や納戸が,再び主人の寝室として使われるようになったようである。室町時代の将軍邸は身分が公卿であることもあって,寝殿造を基調にしていた。しかし,接客を目的にした会所(かいしよ)が建てられるなど,生活の内容はかなり変わってきている。15世紀初めの住宅を示すものと思われる〈仁和寺常瑜伽院指図〉によれば,寝殿の平面が細かい間取りに分かれ,目的に応じて部屋を使い分けていたようすが見取られる。
応仁の乱(1467-77)を契機にして,日本の社会は再び混乱の中に突入するが,この時期に武家住宅に大きな変化がおとずれる。変化した時期を具体的に明確にする資料はないが,その変化の要点は次のようになる。(1)上層武家住宅の屋敷では遠侍(とおざむらい),主殿(しゆでん),常御所(つねのごしよ),会所などの建物が雁行する形で配置される。(2)屋敷への入口は,唐門と棟門,棟門と冠木門といった組合せの二つの門を併置するものになり,二つの門から建物へ向かう通路の間は塀で仕切られ,唐門から中門廊の車寄へ,棟門からは遠侍へといったぐあいに,身分による建築空間の使い分けが建築配置の上にもはっきり表れるようになる。(3)足利義政の東山殿では,座敷飾として押板,違棚,書院,納戸構(なんどかまえ)などがあったが,やがて《匠明》所載の〈昔主殿の図〉のように,上段の周囲に集まり,対面の場を威厳づける座敷飾として定形化するようになる。(4)床には畳が敷き詰められ,貴人の座として上段が設けられる。(5)柱はすべて大面取(だいめんとり)の角柱となり,外回りの建具は舞良戸2枚と明障子1枚の組合せとなり,蔀戸はあまり使われなくなる。以上の変化の結果,武家の住居は書院造と呼ばれる様式を完成させるのであるが,その時期は15世紀末から16世紀後半ころであったと考えられる。
→書院造
鎌倉時代の庶民住居も資料が多くなく,具体的な像を描くことはできないが,絵巻物に描かれた町屋(町家)を見ると,桁行が2~3間,梁間2間ぐらいの大きさで,屋根は板葺き,壁は網代(あじろ)を使い,板扉の入口に突上窓(つきあげまど)を備えており,平安時代の町屋とあまり変わらない。室町時代末期になると《洛中洛外図》など京都の町屋を描いた資料が多くなる。それによると,京都の町は地区ごとに周囲を築地や土壁で囲み,要所に釘貫門(くぎぬきもん)を設けている。町屋は四周の街路に沿って建てられ,裏庭は共通の場になり,井戸や便所が設けられている。家屋は桁行2~3間,梁間2間程度で規模は小さいが,外壁は土壁になっている。なかには妻側の壁を高くあげ,建物外側を高い土壁で囲むようにした家もあり,防火に対する関心もうかがわれる。屋根は板葺きで石を置いているが,長屋であっても隣家との間に茅の小屋根でつくった〈卯建(うだつ)/(うだち)〉を置き,一戸ごとのくぎりを明確にしている。内部ははっきりしないが,片側が裏まで抜ける土間になり,それに沿って前後2室の床(ゆか)の間が並んでいるようである。表側の部屋の外面には四角の格子がはめられ,格子の外に見世棚を設け,商品を並べる。全体に平屋が多いが,なかには低い中二階を設けた家もあり(二階),近世町屋の原形になる要素が認められるなど,鎌倉時代に比べると,かなり発達した形になっている。
農家では千年屋と称される兵庫県の箱木家住宅が,室町時代に建てられたものとみなされる。茅葺入母屋造の屋根で内部は半分ぐらいが土間になり,床の間は表側の細長い室と裏側の〈いろり〉のある居間,およびその奥の納戸からなる。表側には縁がつき,建具は縁と居室の間にあって,袖壁の中へ板戸と障子を引き込む形式である。外壁は土塗大壁であるが,内部は板壁と板戸で仕切られている。箱木家は室町時代には地侍であったと伝えられており,この建物は農家としては最上級のもので,一般の農家建築ははるかに簡略なものであったと考えられるが,具体的な内容を示す資料は残っていない。
安土桃山時代から江戸時代の初期にかけては,新しい社会秩序が確立するとともに,住居も多様な展開を示した時期である。また,伝承された住宅建築の数も多くなり,具体的な状態がよくわかるようになる。当時,支配体制を確立した上層武士階級の住居には,儀式や政務など政治的機能が持ちこまれ,その機能に対応して,表(儀式的空間),中奥(政務空間),大奥(私的空間)の空間が統合される形になった。表の建築は,前代に完成した書院造の殿舎形式が重んじられ,多数の人々と対面できる大広間を中心に,2~3の書院を連ねる形式を採っている。二条城二の丸御殿に代表される大広間は,書院,押板,違棚,納戸構を備えた上段と,それに続く広間を中心に構成されている。壁面や建具の内側には金地に極彩色の障壁画が描かれ,長押(なげし)や天井には金色金物が打たれ,豪華な構成になっているが,納戸は貴人の出退の通路や警護の武士の控室にあてられるなど,室内設備は本来の意味を失ってしまっている。また,殿舎の入口としては,遠侍前に車寄が設けられ,中世以来の主要出入口であった中門廊が退化している。これは大名の居館などの訪問者はほとんどが家臣であり,用途上の必然的な変化である。17世紀中ごろになると,遠侍の車寄は式台付の玄関となり,対面の場も納戸を取り去った床,棚,書院を備えた上段と,次の間が1列に並ぶ形式へと変化してゆく。
近世初期の上層階級の住宅のもう一つの注目しなければならない変化は,数寄屋造の普及である。室町時代に発達した茶の湯は近世初期の武家や貴族にも愛好されたが,その場の一つである草庵風の茶室の要素を,書院造の建築に採り入れたものが,数寄屋造の発生であるとされている。数寄屋造の古い例は豊臣秀吉が聚楽第に営んだ色付九間(いろつけここのま)の座敷(書院,表千家に残月亭として形式が伝承されている)であると考えられるが,定型化された書院造とは異なった自由な造形が好まれたためか,大名や貴族の別荘の建築に好んで用いられた。その形式は池に張り出したものや2階建,あるいは茅葺きのものなど,さまざまなものがあるが,共通する特徴をあげれば,次のようになる。(1)主要な建物は開放性に富み,周囲の庭園と一体になった建築空間がつくり出される。(2)座敷は床の間や違棚を備えているが,その配置や形式は自由である。(3)柱は面皮(めんかわ)材(黒木)を使うことが多く,木材の材質感を生かした意匠にする。(4)庭内に茶室を伴うことが多い。このようにして発達した数寄屋造は,江戸幕府が住宅に華麗な装飾をほどこすことを禁止したこともあって,広く住宅に受け入れられ,その影響は現代建築にまで及んでいる。
→数寄屋造
近世になると,それまではあまり脚光を浴びなかった庶民の住居である民家も急速に発達し充実した。近世初期の農家は屋内に広い土間と,それに隣り合った〈いろり〉を切った広い居間があった。土間には馬屋や竈(かまど)が設けられ,屋内での作業や食物の煮炊き,あるいは収穫物の収納の場所にあてられた。居間は畳が10畳から15畳敷けるような広い部屋で,土間に近いほうに〈いろり〉を切り,採暖から食物の煮炊き,あるいは夜間の照明にも利用された。近世初期の農家では日常の生活やだんらん,仲間うちの接客から祝儀・不祝儀の儀式まで,この居間を中心に営まれたものと考えられる。居間に隣り合って,入口の敷居を高くしたり,幅を狭くした納戸があり,夜は着の身着のままこの部屋に入って寝た。農家にまで寝具としての布団が普及するのは江戸時代中期以降であった。〈いろり〉の周りには家族の座る席が決まっており,土間から一番遠いほうの一辺が〈よこざ〉と呼ばれ,家長の座になる。土間全体がよく見え,納戸の入口の前に当たる席である。家の裏側で土間に近い席は〈かかざ〉とか〈おなござ〉と呼ばれ,主婦や子女の座る席,その向い側は呼称が一定しないが客や男の家族が座る席,土間に近い辺りは薪が積まれ〈きじり〉と呼ばれていた。こうした〈いろり〉の周りの座の名称は,地方により発音などに変化はあるが全国的に共通している。炊事や洗物に必要な水は,屋外に設けられた井戸や樋から汲んで水がめにためて使い,洗い場は浅い箱状のものを土間に直接置いた座流しが普通であった(流し)。便所は屋外に設けられ,入浴の習慣はまだなかったものと思われる。
農家を建てる材料はすべて身近な所で得られるものに限られる。柱は雑木で表面は釿(ちような)で削って仕上げ,壁は雑木の枝で編んだ木小舞(きごまい)に土を塗った。建具は板戸が中心で,外への開口部は少なく,片袖壁の裏に板戸1枚と障子1枚を引き込む形式で,外側に格子を打つこともあった。屋根は茅を使うことが多く〈ゆい〉と呼ばれる相互労働奉仕が行われていた。床は板を得ることが難しかったため,土間に籾や藁を敷き,蓆(むしろ)を延べた土座(どざ)や竹簀の子が使われる例も多い。他方では,幕藩体制のもとで,巡検の役人などの接待に当たる庄屋級の住居では,その目的の場として,床の間や違棚を備えた座敷を設けることが許された。このような座敷は普段は人の入ることも禁止するなど,実生活上に寄与する点は少なかったが,庄屋などの地位を象徴するものとして受け取られ,江戸時代の後期にはどの民家でも床の間を備えるようになる。
近世の農家には間取りや屋根の形など,地域によって特異な形式が見られる。こうした特徴の多くは江戸時代の後半につくり出されたものが多いが,近世初期にさかのぼっても,なお,独特の形式をとっていたものもある。それらは(1)熊本県南部から鹿児島県にかけては,住宅の主要部と釜屋とが別々の棟の建物で,全体で1戸の住宅になるようにつくられている。このような形式の民家は分棟型と呼ばれ,天竜川の下流域や房総半島にも分布している。(2)中国から近畿にかけての瀬戸内海沿岸地帯には,柱3本を1組にした枠組みを連続させた形式で,間取りは2室並列型,3室前座敷型,4間型などが早くから存在している。(3)滋賀県の北部から東日本の日本海沿岸地方では,中心に4本または6本の柱を梁でつないで枠を組み,その左右に梁を投げ掛けて土間や3室広間型の部屋を構成する民家が分布している。(4)東海地方から関東・東北地方の太平洋沿岸地方には,梁行方向の部屋境に1間ごとに柱を立てる形式の3室広間型が多い。このような構造形式の違いは中世以前の成立過程の差異に基づいているものと考えられる。
近世初期の民家は17世紀初頭から近世的な変化をみせはじめ,17世紀末から18世紀初頭に一定の形に定着する。しかし18世紀の後半になると,再び変化が起こり,居住内容が向上する。その変化の概要は次のようである。(1)民家の多くに床の間付の座敷が設けられ,屋内は表と裏に二分され,表側は接客や農作業など社会性の強い生活空間,裏側は私的な生活空間にあてられ,間取りも4間取りが基本になる。(2)外側の建具に繰出式の雨戸が採用され,昼間は開口部いっぱいに障子が建て込まれ,室内が明るくなる。(3)室内に畳が敷かれるようになり,寝具として布団が使われるようになった結果,納戸も外部に向かって開かれるようになる。(4)風呂を備えた家が多くなり,農作業用の納屋や収納のための土蔵が多くの家に建てられるようになる。また,養蚕など農作業などの内容によって屋根の形式が大きく変わったり,茅葺屋根の棟飾りなどに地域的な特色のある意匠を完成させたのも,この時代と思われる。
町屋も農家と同様に,近世に入ると格段の充実を見せる。農村にくらべて敷地の制約が多い都市の住宅は,街路に沿って隣家と接するように家が建ち並ぶ。建物の内部は片側を裏まで通り抜けられる土間にして,それに沿って部屋を1列か2列設ける。1列の部屋の場合,表側の部屋が店か作業場になり,中の間が帳場,裏側の一室が多目的な用途の部屋になり,その近くの土間に炊事場がつくられる。2列目の部屋がある場合は,表側を座敷,中の間を仏間,裏の間を寝室に使った例が多い。内部の天井は太い根太で受け,小屋裏は中二階にして物置として使われた。外部の構成は,表側の建具に板蔀(いたじとみ)を使うことが多く,さらにその外側に木格子をはめるのが普通であった。入口の大戸は扉形式あるいは撥ね上げにした例が多い。近畿では16世紀末ころから屋根を瓦葺きにし外壁を土壁で厚く塗り込める町屋が多くなった。中二階の窓も格子を塗籠め(虫籠窓(むしこまど)),中に土戸を引く。また両端には防火のため〈卯建〉と呼ばれる塗籠の袖壁を出す。このような塗籠の町屋は,17世紀末には西日本全体に広がった。一方,東日本の町屋では木の柱や貫を外に見せた真壁(しんかべ)造の町屋が多く,屋根も板葺きで石を置いたものが遅くまで続く。
町屋の平面は比較的変化が少なかったが,18世紀の後半になって一般の農家にも座敷が普及するようになると,町屋にも庭に面した座敷が設けられるようになった。その方式は経済的に恵まれた家では,隣地を買収するなどして道路側に前庭,裏側に庭を取った座敷を付加したが,一般の町家では,裏側の多目的に使われていた部屋に床の間を設けて座敷にし,裏庭の端に奥へ延びる廊下をつけて,その先に便所や風呂場,離れ座敷などを建て,その裏に土蔵を建てる形が定着した。この構成は敷地の利用形態としては合理的なものであり,近代にも引き継がれている。このような店を構えた町屋のほかに裏路地などには長屋があって,職人や行商などに従事する人々の住宅に供された。前土間で台所に四畳半か六畳程度の部屋がついたものが多く,便所も共用であるなど,店持(たなもち)の住居とはかなりの落差があった。防火対策が遅れていた東日本の町屋も,江戸時代の後期になると江戸や川越などの都市で,屋根を瓦で葺き,外壁を厚い土壁で塗った土蔵造の町屋が増加し,西日本の町屋とは異なった外観を呈するようになった。
明治維新以降,日本の社会は急速に西欧の文物の移入を行う。すでに幕末期から長崎や神戸,横浜の居留地などに西洋館が建てられたが,それは西洋人の住居として建てられたもので,日本人の住居としては政府の高官などが屋敷内の接待所や別邸として建設したにとどまった。その後も農家においてはガラスを障子の一部に組み込んだ以外に,前代の住居と変わったところは少なく,町屋も2階を居室に使うようになり,ガラス戸を使うところもあったが,基本的な構成は江戸時代とあまり変わっていない。しかし,明治末からは月給取りと呼ばれた中流階級の住居に変化が見られるようになる。この新傾向の住居は,日本の伝統的な形式を基にしているが,台所や便所,風呂を一つの屋内に取り込み,座敷などとの連絡に廊下を用いるようにしている。農家や町屋にあった土間はなくなり,それに代わって1坪ぐらいの玄関を設けるようになる。来客のため,客間と呼ばれる座敷を準備し,外部に面した廊下の外側にガラス戸を建て込んで,廊下を屋内の一部として使用するようになる。また,建物の一部を2階建にして,客間や書斎などにあてる住宅も見られるようになる。また,このころから白熱電球が室内の照明に使われるようになる。
大正時代になると,一般の住宅の中にも洋風建築が採り入れられるようになる。その一つは,文化住宅と呼ばれた建物で,屋内の居間や食堂,台所などを板床にして,家具も椅子やテーブルを使い,室内の仕上げも西洋風にし,建具も扉を使う。このような西洋間を家の中心に置き,寝室や書斎などは和室の構成にし,西洋間の周辺に配する形式である。外観もハーフティンバーや,下見板張にペイントを塗るなど,西洋風なものを和風建築と組み合わせた折衷型の住宅である。このような住宅が,当時盛んになった東京や大阪周辺の郊外電車の沿線に開かれた新興住宅地に,数多く見受けられるようになった(郊外)。このような和洋折衷住宅は都市周辺の住宅地に建てられた和風を主体にした住宅にも採り入れられ,玄関の脇の一間だけを西洋間にし,部分的な外観も西洋風にした建物が愛好されるようになった。また,このころになると水道の普及に伴って,水栓からの屋内への給水が可能になり,やがて都市ガスの普及にともなって,都市住宅では日本在来の汲置水や竈が台所から姿を消し,立流しや調理台が設けられ,便所も改良便所が考案されるなど,台所,風呂場,便所にわたって衛生的な改善が進められている。
1923年の関東大震災の後,日本の住宅にも大きな変化が現れる。都市の不燃化と土地の高密度利用をねらった中層鉄筋コンクリート・アパートの出現である。1924年東京渋谷の代官山に建設された同潤会アパートメントが代表的な例であるが,ガス,電灯,水道,水洗便所等を備え,高度の文化性をうたいあげる一方,居室は8畳,4畳半,3畳の3室構成で,ひじょうに狭いものであった。鉄筋コンクリート・アパートは,改良住宅として公営の建物が東京や大阪にも建てられるが,これら公営アパートは同潤会アパートよりさらに狭いものであった。不燃化という,日本の都市住宅の最大の欠点を補う方向が生み出したものであるが,それと同時に日本の公営アパートは庭から切り離された狭い居住空間という宿命を負いこむことになる。25年から35年にかけて,西欧の住宅の近代化の影響を受け,日本にも鉄筋コンクリート造で,窓面積を大きく取り,椅子や寝台による生活を前提にして,生活の快適さや生活機能の合理化を考えた住宅が建設されはじめたが,そのような形式の住宅の普及は45年以降まで持ち越された。
→民家
執筆者:鈴木 充
屋敷はほとんど例外なく塀をめぐらし,大門一つによって外部とつながった独立した空間をなしている。塀は生垣や柴垣もあるが,大部分は土と石でつくられる。塀で囲まれた屋敷は,建物部分とそれ以外のマダンmadang(内庭)からなる。農家ではマダンは農作業に利用される。建物は土または石造の基壇(高さ30~100cm)の上に建てられる。礎石の上に柱を立て,木や竹のしんに土を塗って壁をつくる。慶尚道では泥を方形にかためて日に干したものを積み上げて壁としたり,全羅道では石と土をかためて壁にすることもある。障子のように木の桟に紙をはった扉がつけられるが,これはドアのように外側に向かって開かれる。室内の壁には壁紙をはる。建物全体の入口としての玄関はなく,各部屋から直接に,あるいは縁側部分を経てマダンに通じる。屋根は中流以上の家では瓦葺きであるが,庶民の家は稲わら葺きである。わら葺きの家を草家(チョガチプch`ogachip)という。わら屋根は毎年秋の終りに葺きかえるが,このときには新しいわらを編んで古い屋根わらの上にかぶせていく。建物内部の部屋(房という)を床の形式からみると,土間,マル,オンドルの3種類がある。オンドル房は床下暖房のある居室部分であり,マルはオンドルのない板敷きの部分である。オンドル房の外側につけられる縁側形式の部分もマルである。
建物を構成するおもな部屋には次のようなものがある。内房(アンパンanpang)は最も奥まった所にあり,おもに主婦と子どもたちの居室である。食事もここでし,衣服や貴重品を納める鍵のかかる籠もここにおく。夫と子ども以外の男性には閉ざされた部屋である。内房の隣にある大庁(テチョンtae ch`ǒng)は板敷きの部屋で,天井を架設せず屋根裏がそのまま出ている。ここの天井部分にある梁は家の最も重要な梁であり,棟上げした年月日と竜や亀などの縁起のよいことばを含む上梁文が記されている。大庁は家人の共用する部分であるが,ここには家の神である成主(ソンジュsǒngju)をまつり,また祖先の祭りもここで行う。大庁をはさんで内房の反対側にある越房(ウォルパンまたはコンノンバンkǒnnǒnbang)は成人した子どもや老夫婦の部屋である。舎廊房(サランバンsarangbang)は主人の居室であり,客人の接待が行われる。舎廊房のない場合には越房がこの代りとなる。ここは女性の立ち入らぬ部屋である。台所(プオックpuǒk`)は内房の隣(大庁の反対側)にある。床は土間で,ここは建物全体ののっている基檀の上面よりも低くなっているが,台所の竈が内房のオンドルの焚き口になっているためである。竈の正面には竈神がまつられる。台所の外にはチャンドクテchandoktaeという壇があって,塩,しょうゆなどの調味料やキムチのかめが並んでいる。便所は建物外部の離れた所につくられる。以上は庶民層の家を構成する代表的な要素であるが,その配置には地方的な差が見られる。
家の構造はそこに住む家族の社会的経済的地位を反映しており,中流以上の家では部屋数が増え,かつ上記以外の部屋が設けられる。行廊房(ヘンナンバンhaengnangbang)は大門に接続して設けられ,使用人のための部屋である。別堂(ピョルタンpyǒltang)は隠退した老主人の居所として,敷地の一角に塀をめぐらし,完全に独立して建てられる。オンドル房とマル房を含み,庭園をも設ける。祠堂(サダンsadang)は家の後方に独立した建物で,祖先の位牌を安置する場所である。祠堂の床はオンドルにするのが普通である。上流の大規模な家になるほど,内部の部屋の配置の面での地方差は見られなくなる。
儒教倫理に基づいて男女の区別を厳しくつける朝鮮では,建物の空間利用にもそれが反映され,男の空間と女の空間が区別される。その基本型は内房と舎廊房の区別に見られるが,この区別は家の規模が大きくなるにつれていっそう明確になり,男性の使用する建物である舎廊(サランチェsarangch`ae)と女性の使用する建物(アンチェanch`ae)に分けられるようになる。このように建物自体が区別される場合には,サランチェは宅地の表側の大門に近いほうに置かれ,アンチェはその後方の表から見えない位置に置かれる。さらにはこの両棟の間が塀で仕切られ,男女の空間の区別がいっそう強調されるようになる。これに伴ってマダンも,サランチェ前面のサランマダンとアンチェの前のアンマダンに区別される。
李朝時代には,身分に従って屋敷や住宅の規模・建築様式に制限が加えられていた。たとえば世宗朝には,大君(王子)の住宅は60間,王の兄弟と公主(王女)は50間,二品以上の官位を持つ者は40間,三品以下は30間,庶民は10間以内とされた。〈間〉とは4本の柱でかこまれた部分をさすが,2間をもって1房とすることもあるから,これが部屋数と一致するとは限らない。柱と柱の間隔も,大君は11尺,公主は10尺というようにおのおの制限があり,また建物の装飾等にも制限が加えられた。しかしこれらの制限は必ずしも厳守されなかったようである。
執筆者:嶋 陸奥彦
中国の住居と住宅は,その広大な国土と多種の民族を反映して,きわめて豊富多彩な類型をもつ。現存する住居は,特定地区に明代の遺構が集中的に残っているのを除くと,圧倒的多数は清代後期以降のものになる。より古い時期の住居については,考古学的発掘調査の資料や文献,画像によって大要をうかがうにすぎないが,これらの住いの構造の特色がきわめて早い時期から芽生えた伝統に根ざしていることが知られる。
先史時代の住居には,大きく分けて穴居と干闌(かんらん)の2種の形式があったことが発掘資料により知られる。穴居は新石器時代の普遍的な住居形式として黄河流域を中心に分布し,袋穴,竪穴,半穴居の各類型がある。仰韶文化後期にはすでに中原地方で地上に建つ住居が現れ,数室よりなる遺跡もあり,これらは木柱と土壁の構造を基本とする。穴居の諸類型および地上の土壁住居は,それぞれ技術的な発展過程を示すが,各地域の文化水準や階層によって年代的には一様でなく,穴居そのものは後の歴史時代まで併存しつづける。一方の干闌(高床)式住居は,発掘例こそ少ないが,すでに約6000~7000年前の遺跡に枘(ほぞ)・枘穴を工作して立てた部材が出土しており,長江(揚子江)下流域には早くから純木造建築の高度な技術が芽生えていたことを示している。この2種の構造が,後の中国建築の大系を形成する母体であったことは疑いないが,長江以南の状況については資料的になお乏しい。
後世の漢族の住宅を代表する〈四合院〉と呼ばれる中庭式住宅の形式は,住居ではないが西周初期の遺跡にすでに完璧な形態で出現しているので,きわめて古い伝統を有するとみてよい。《儀礼》等の儒教経典に見える士大夫の住宅も堂,寝,廂,門,塾などを備えた中庭式であり,同遺跡の平面構成と符合する。漢代の画像塼に描かれた住宅もやはり前後二つの中庭からなり,望楼や闕(けつ)を備えたものもある。南北朝・隋・唐時代の石刻,壁画に描かれた貴族住宅には中庭をいくつか重ねた四合院や三合院があり,大門には烏頭門(うとうもん)形式がみえる。唐代末期以降は,平座から倚座が普遍化するとともに,卓,几(き),牀,榻(とう)などの高座式家具が常用されるようになる。宋代の絵画に見られる住宅にも四合院が多く,また工字形平面のものもあり,都市では瓦葺き,農村では草葺き屋根の区別があったことや,一部には中庭を庭園化する傾向が認められる。元の大都で発掘された住居址は四合院と工字形平面を採用したものである。
現存する伝統的な住宅のうちで圧倒的多数を占めるのは漢族のもので,地方によって外観・装飾などにそれぞれ特色が異なるが,四合院に代表されるように,四周を建物でとり囲み,閉鎖的な中庭群を構成するものが主流である。以下,漢族のものを中心として,顕著な地方的・民族的特色をそなえた住居と住宅について略述する。
漢族の住宅遺構のうちでもとくに年代的に古く,明代から清代初期に建立のものが安徽省徽州地区に集中して残る。天井(てんせい)と称する中庭を囲んで2階建の主屋とわき部屋が立ち,周囲は高いしっくい塀で囲まれ,欄杆・格子・梁組みなどの文様・彫刻・彩色に素朴ながら特色を示す。近隣の江西省浮梁地区にも,類似した風格をもつ明代以降の住宅遺構が現存する。
中国の代表的な住宅形式で,とくに北京のものが典型とされる。北側中央に正房と呼ばれる主屋があり,その前方左右対称に廂房という脇部屋が向かい合い,主屋と相対する南側に倒座と称する向い部屋が建ち,この4棟によって院子すなわち中庭をとり囲むところから四合院の名がある。一般にはこの4棟だけでなく,正房の中庭前面に垂花門という華麗な装飾を施した二門(中門)を置いて,中庭を前後二つに分けるのが通例で,前庭を前院,後庭を内院という。前院,内院の分割は日常生活の面でも重要な意味があり,内院は私的な生活空間とされ,一般の来客は前院の垂花門の位置までしか入ることは許されなかった。中庭を奥行きに重ねるブロックを〈進〉で数え,両進・3進などが一般的であるが,なかには7~8進に及ぶものもあった。主屋の正房は一般に間口3間で,中央が大広間,脇の間が寝室,あるいは両脇に付設された耳房が寝室とされ,また倒座は接客にあてられた。各棟の機能は家族構成によって一様でなく,数世代同居の場合は東西廂房が下の世代の居室となったり,わきに中庭が付設されることもある。室内には卓,椅,牀などの倚座式家具が置かれ,北方では炕(カン)と呼ぶオンドルが設けられる。中庭を取り囲む建物は前面に1間分の吹放し廊があってそれぞれを連絡する。構造は木造で分厚い塼積壁を用い,屋根は硬山式という妻側の軒が出ない,丸い棟の形式が多用される。全体の大門は通常,風水思想(風水説)の関係から東南隅に開かれ,その突き当りには目隠し塀の影壁(照壁)が立つ。四合院住宅は北京だけでなく,河北,吉林,山西,山東,河南,湖南,福建,四川など諸省に広範に分布する。山西省襄汾丁村には明代後期から清代にかけて建設された古い民家が残り,柱頭,扉,窓の木彫や柱礎の石彫に地方色を見せるが,平面構成は北京の四合院と同様である。
江南地方には富裕な商人や官僚が多かったので,蘇州を中心として豪奢な邸宅が少なくない。平面構成は基本的には華北の四合院と共通するが,数進の中庭群からなり,天井(中庭)は狭く,東西の廂房を省くこともある。中庭群は1列だけでなく,2~3並列のものや,庭園を設けた邸宅も少なくない。主軸の中庭群は南から北に門庁,轎庁,大庁と呼ばれる大広間を一線上に並べ,最後部に楼房を建てる。大庁に向かう轎庁の背面は精緻な塼彫(せんぼり)を施した門楼になる。儀礼に供する大庁は間口3間だが奥行きの深い平面で,後部の楼房は女子の居室になる。わきの中庭は花庁という接客招宴用大広間を中心とし,前後に庭園を配する。建物の外観は白しっくい壁で高い卯建(うだつ)/(うだち)をみせ,室内は軒という各種の蛇腹化粧天井で変化をもたせ,梁などの部材にも彫刻が駆使される。
雲南省の昆明を中心に周辺の地方に分布する住居形式で,2階建ての周壁による真四角な外形のあたえる印象から〈一顆印〉の名がある。正房が間口3間,東西の耳房(華北の廂房に相当)が各2間の〈三間四耳〉式の三合院のほか,耳房が3間のものや,前面に向い部屋を加えた四合院もある。正房はつねに2階建てで吹放し廊がとりつき,また総2階で中庭側に回廊をめぐらすものも多い。正房および2階が居室,耳房は倉庫などにあてられる。
四川省重慶周辺の山地一帯に見られる。斜面の多い地形に懸造(かけづくり)と同様に柱を長く突き立てて高低差を処理したもので,〈吊脚楼〉と呼ばれる。他の地方の漢族住宅のように閉鎖的な構えをとらず,外側に回廊を設ける。構造は,細い柱を密に立てて貫で固める形式になる。
華北,中原,西北地方の黄土地帯に広範に分布する横穴式住居で,〈窰洞(ようどう)〉と呼ばれる。天然の黄土断崖を利用し,直接横穴を掘り進んだ最も簡素な形式が普遍的に見られるが,また人工的に地坑を掘り下げて中庭とし,その断面からさらに横穴を掘り広げたものもある。河南省鞏県から洛陽への一帯には,中庭の四方に半円ボールトの窰洞を幾室も掘り広げたもの,窰洞を重層にして地上建築をも配したもの,洞の正面を精緻な門構えとしたものが見られる。甘粛省東部の窰洞は,河南西部から山西,陝西北部一帯に分布するものと異なり,尖頭や放物線アーチ型をなし,洞内も高大な空間になる。
福建省竜岩地区に,客家(ハツカ)人の多数の家族が共同生活を営む巨大な集合住宅がある。環形と方形の2種があり,いずれも窓の少ない土壁の特異な外観を呈する。大規模なものは土壁の厚さ1m,環形平面の直径70m,4階建てで総室数300間に達し,外環の1・2階各室は厨房,倉庫等,3・4階は各家族の居室になり,中庭中央に共同の儀礼用庁堂を設ける。
新疆ウイグル族の住居は地方によって形式・構造とも異なる。カシュガルの住宅は,日常生活の大きな部分を占める中庭を随所に設けた複合型平面で,〈アイワン〉と呼ぶ大広間を中心とする。木造の梁に小梁を並べた土葺き陸屋根で,天窓により採光し,室内には壁龕を設け,セッコウの文様彫刻や木造部材にも彫刻を多用する。トゥルファン(吐魯番)は夏季の猛暑のため,地下室や半地下室のある住宅を用いており,地上の住居は日乾煉瓦造のボールト天井で陸屋根形式になる。
内モンゴルのモンゴル族は遊牧生活を営んでおり,住居には解体移設が簡便なテントを用いている。漢語で包(パオ),モンゴル語でゲルという。骨組みを木の枝で編成し,外周を羊毛フェルトで覆い,頂部中央に環形の開閉孔を設ける。
チベット族はチベット,四川西部,青海,甘粛南部に居住する。各地方により住居の形式は異なるが,とくに石積みの優れた技術に特色がある。山地の場合,通例は3階建てで,1階が家畜と物置,2階が居室,3階が物干し,経堂,便所となる。外壁は内転びをつけた分厚い石壁で,これに木材根太を組み合わせた構造とし,屋根は厚い土葺きになる。
雲南省シーサンパンナ(西双版納)のタイ族は,大屋根を葺き下ろした干闌(高床)式住宅で,下層は家畜と物置,上層に居室,テラスがある。このほか西南地方には,広西のチワン(壮)族,貴州のミヤオ(苗)族,トン(侗)族など,外観の特徴は異なるが干闌式住宅を用いている少数民族は数多い。トン族は村寨に立つ塔楼や廊橋の特徴的な建築で知られる。雲南省大理のペー(白)族は,住宅の構成こそ漢族と共通するが,優れた塼彫,木彫,造作の装飾に特色をもつ。
執筆者:田中 淡
東南アジア地域には実に多様な形式の木造建築の伝統を見ることができる。ことに島嶼部に多く見られる棟がゆるやかに反り上がった独特の屋根形状をもつ諸民族の住居は,世界的にみてその多様さと技術の洗練度において類例がなく,東南アジアの大きな特徴といってよい。
東南アジアでは一般に双系制を親族原理とし,タイやマレーシアの農村で典型的に見られる〈屋敷地共住〉の形態,すなわち,同一敷地に棟を分けて親族であるいくつかの家族が住む形態が一般的であるが,大家族が同一棟に集住する大規模な住居も少なくない。特徴的な屋根形態をもつものには大規模なものが多く,高温多湿の自然環境,稲作を主とする農業形態,さらにそれらを基にした社会構造が要請する集住様式が大規模な空間の構築技術を発達させ,洗練された住居形式を生んできたといえよう。また,ニアス島をはじめスマトラ,スラウェシ,ボルネオ,さらにティモールの諸島に点在する大規模な木造屋根をもつ住居を建てるそうした民族は,大陸部から南下してきたプロト・マレー人の系統に属し,その後移動してきたデュエトロ(開化)・マレー人によって少数民族として山間僻地に追いやられるなかで,それぞれの民族のアイデンティティを住居形式として残してきたとも考えられている。
西スマトラのミナンカバウ族の住居は,そうしたなかで,ほとんど唯一の母系制原理による大家族共住の形態として知られている。水牛の角をシンボライズするという,ゴンジョングと呼ぶ尖頭をもつその形態は実に勇壮である。基本的には柱の数によって住居が類型化されるが,桁行き方向の単位をルアング,梁間方向の単位をラブ・ガタンといい,家族規模に応じて規模はさまざまである。大規模なものは六つのゴンジョングをもち,20ルアング(20家族)に及ぶものもある。内部空間は大きく二つに分けられ,奥のラブ・ガタンは室内化されて一人の既婚女性の家族の専用とされ,前面のスペースは共有スペースとして用いられる。
父系制原理に基づく大家族共住の形態をとるのが北スマトラのバタク族の住居である。トバ・バタク族の場合,ミャンマーのカチン族の住居との類似が指摘されるが,急勾配の屋根と独特の棟の反りが特徴的である。基本的にはワン・ルームであり,囲炉裏を各家族が専用する形をとる。空間のヒエラルヒーが明確に存在するのが特徴である。また住居と倉が平行に配列される集落形態も特徴的である。バタク族の場合,バタク族はバタク・カロ,バタク・シマルングンなど6種族に分けられるが,近接しながらその形態,架構の原理を異にしている点は興味深い。
南スラウェシのサダン・トラジャ族(トラジャ族)の住居は家形埴輪(はにわ)を思わせる独特の鞍(くら)型の屋根で知られる。架構の原理はトバ・バタク族に類似するが,竹を幾層にも重ねることによって滑らかな曲線をつくり出している。また,屋外にシンボリックな棟持柱をもつのが特徴である。
東南アジアの住居のほとんどは,地上あるいは水上からときとして数mの高さに居住し,ベルをもつ高床住居(杭上住居)である。高床住居は湿潤な熱帯特有のものであり,東南アジアの住居を特徴づけるものといえる。例外は,中国の影響を受けたインドシナ半島北東部と,ヒンドゥー文化を基層にもつジャワ島東部とその周辺の諸島である。中部ジャワおよび東ジャワにおける伝統的住居は一般に,その屋根形状によってジョグロ,リマサン,シノム,カンポンの四つに類型化される。
インドネシアのバリ島およびロンボク島の一部は唯一ヒンドゥー文化を色濃く保持しているので知られ,住居・集落にもバリ・ヒンドゥーの原理が生きていてきわめて特異である。ヒンドゥー教の影響の有無によってバリ・アガ,バリ・マジャパイトの二つに住居形式を分けるのが一般的である。バリ・マジャパイトの場合,ヒンドゥー教の宇宙観に基づいて住居・集落の構成,部材寸法などが明確に規定される。分棟形式をとるのも特徴である。
東南アジア地域に見られる形式としてさらに目だつのは,ボルネオ島およびインドシナ半島北東部に分布する,ロングハウスと一般に呼ばれる長屋形式の住居である。イバン族(海ダヤク),陸ダヤクなど民族によって少しずつ異なるが,大家族制ではなく双系制を親族原理としながら同一棟に集住する。またフィリピンのルソン島山岳地方では日本の南西諸島の高倉との関連をうかがわせるボントック族やイフガオ族の小規模な住居を見ることができる。東南アジア地域には,日本の住いとの関連をうかがわせる要素がきわめて多く,そうした意味でも興味深い地域である。
執筆者:布野 修司
インドの集落や住居は,歴史的な民族の興亡や多彩な宗教,複雑な社会制度などを反映して多様性に富む。
この地域の居住空間の構成原理において特徴的なのはゾーニング(区画化)である。ヒンドゥー社会はカースト制度をもつが,集落内で同一階層の人々の住居は集まり,〈トーラ〉と呼ばれるゾーン(区画)を形成する。トーラはその境界が漠然とした空きにより示される場合が多く,また,一つの階層が一つのトーラを形成するとは限らずいくつかに分かれている場合もあり,必ずしも可視的に明快なものではない。しかし,住居の大きさや造り,配列などからおおよその判断は可能である。集落内のゾーニングにはトーラの外に宗教に基づくものがあり,ヒンドゥー教徒,ムスリム(イスラム教徒),仏教徒などが独自のゾーンを形成する。集落はいくつかのゾーンにより構成されているために,中心性が希薄で分極化の傾向が強い。マンディール(ヒンドゥー教の寺院,祠)や井戸,学校などの公共施設はゾーン相互の接点やゾーンの端部に置かれる場合が多い。住居は一般的に矩形要素の集合からなるが,住居内にも明快なゾーンがある。
北インドでは,住居は入口から奥に向かってダルワザ,アンガン,アンダラートの三つに区分される。北インドでは一般にイスラム社会ほどではないが男女の隔離が原則とされ,ダルワザが男の領域,アンガンとアンダラートが女の領域になる。ダルワザは入口部分の部屋で,これに付属する〈オサリ〉と呼ばれるベランダは男たちが日中に憩う場所で,暑い夜はベッドをここに置く。アンガンは矩形の中庭で,ヒンドゥーの祠や井戸があり,地方によっては家畜がここに入る。最奥のアンダラートは厨房,食堂と女の寝室である。小さな住居ではアンガンが省略される場合があるが,ダルワザとアンダラートは必ず存在する。インド・スキタイ系民族のジャート族の場合は男女の隔離がさらに厳しく,バイタク(男用)とガル(女用)と呼ばれる2軒の家に分離される。南インドには先住民族のドラビダ人が多いが,彼らには両性の隔離の原則がない。住居は入口の両脇にピアルと呼ばれる小さな壇をもち,これは男女に共用される。入口を入るとナーダイというホール状の空間があり,その奥がピンオーダイという寝室になっている。インドの集落には集村が多いが,南西部のケーララ州ではヤシ林の中に住居が離散的に分布する。この地方の住居は前後にベランダをもち,中央部分とその両脇が厨房と寝室になっている。ムスリムは全土に分布するが,彼らの住居は閉鎖的でオサリはない。内部はダルワザ,アンガン,アンダラートに厳密に区分される。一般に壁面は煉瓦や石の組積造で表面は牛の糞を混ぜた土で固められる。屋根は民族やカーストにより異なるが,北部では瓦葺きが,南部では草葺きが多く,少雨地帯では陸(ろく)屋根もある。
集落や住居の構成はネワール族とその他の部族でまったく異なる。ネワール族は北方のチベット文化と南方のヒンドゥー文化の影響の下にカトマンズの谷に独自の混合文化を開花させたが,その基盤を築いたのはマッラ朝である。マッラ朝は13世紀から18世紀までの約550年間続き,この間にヒンドゥーの社会制度,宗教,思想などがカトマンズの谷にもたらされた。今日見られる集落や住居形式はこの時期に完成した。その規範とされたのは《マーナサーラMānasāra》(7世紀ころ)と呼ばれるヒンドゥーの都市計画と建築の書である。《マーナサーラ》は,ヒンドゥーの宇宙観を,幾何学的パターンの形で表象した一種のマンダラとして,都市の建造物を配置することを理想とし,その基本は方位軸に基づく布置の原則である。カトマンズの谷は,谷の入口,集落の構造,住居の構成の三つのレベルに《マーナサーラ》が適用され,谷全体がヒンドゥーの小宇宙を具現したものになっている。住居の理想形は方位軸にのっとる中庭を囲む形式で,中庭の中央には小さな祠が置かれ,入口の扉には〈知恵の眼〉が描かれる。ネワール族は農耕民族であるが,その住居は都市のように密集する。住居は煉瓦造の3~4階建てで,床組み・小屋組みは木造で,屋根は瓦葺きである。平面は1階が店舗,作業場,家畜小屋などで,2階から上が居住空間となり,中間の階に接客の場,穀物庫,寝室があり,最上階が厨房と崇拝の場になるのが特徴的である。張り出した軒を支える斜材や開口部の木枠には細かな彫刻が施される。とくに窓は職人の技量を示すものとして重視され,念入りな細工の施された2連,3連の大窓がつくられる。
ネワール族とは対照的に,マガル,グルン,タカリーなど非ネワール系諸民族の住居は山間地の急斜面に離散的に分布する。石積みの2階建で草葺きのものが多く,1階が家畜小屋と厨房,2階が寝室になる。特異な平面形をもつものとして,ポカラ周辺のグルン族の楕円形平面の住居がある。
執筆者:藤井 明
シベリアの自然環境を植物相から眺めると,北から南へツンドラ(永久凍土地帯),森林ツンドラ,タイガ(針葉樹林地帯),森林ステップ,ステップ(草原)地帯に大別される。そしてその南には,モンゴルや中央アジアの乾燥・半乾燥地帯がある。生業形態はこのような自然環境に対応していくつかの異なった類型を示している。すなわち,(1)狩猟・漁労,(2)定着的漁労,(3)定着的な海獣狩猟,(4)トナカイ飼養の狩猟・漁労,(5)トナカイ牧畜,(6)農耕・牧畜,(7)遊牧・牧畜である。住居の形態や生活様式は,当然のことながら,このような自然環境や生業形態に規定されてきたが,基本的には,(a)狩猟民やトナカイ飼養の狩猟民の円錐型天幕チュム,(b)定着民の竪穴住居,(c)牧畜民のフェルトの天幕ユルタ(モンゴルのゲル),(d)乾燥・半乾燥地帯の農牧民,農耕民に特徴的な日乾煉瓦・石・土造の住居,が区別できよう。
シベリアの広大な部分を占める森林ステップとタイガ地帯は古来から狩猟民の世界であり,たとえば,この地域にもっとも広く分布するエベンキ族(狭義のツングース族)は一年中獲物を求めて移動生活を送っていた。その住居のチュムchumは,4~5本の太い棒を上部で結び合わせて主柱とし,これに10~40本の細木を円錐形に立てかけて骨組みとし,高さは2~4m,直径は3~6mであった。この骨組みを夏はシラカバ樹皮,冬はセーム皮(カモシカ,シカのもみ皮。所によっては帆布,キャラコ,ラシャ,魚皮)で上下2段に覆い,覆いは上から動物の腱,馬の毛,セーム皮の紐をかけたり,棒を立てかけて押さえとした。出入口にはシラカバ樹皮,セーム皮,布をつるし,床には針葉樹の枝を敷き,真中に炉をつくった。入口近くが調度置場,主婦の座,炉の奥は上座,左右がそのほかの家族の起居する場所で,天井には煙出しの穴が残された。移動の際には覆いだけを取り外して,小さく巻いて持参した。チュムはアムール川や沿海州地域のオロチ,ウデヘ族,北のユカギール族,西のハンティ,マンシ族の一部,南のショール族Shortsyなどの狩猟民の基本的な住居であったが,そのほかにも移動生活を営む原住民に共通して認められた。
オビ川,アムール川の流域では豊富な魚を捕獲し,燻製や干魚にして主食とする漁労文化が発達した。とくに,アムール川流域では夏から秋に産卵のため遡上するサケ・マスが主要な食料源であり,狩猟の獲物や採集植物がそれを補った。そのため川辺や湖畔,島などに定着的な集落が形成された。ただ,生業が季節的な性格をもつため,夏と冬で住地や住居を変えた。〈冬の家〉には竪穴住居と,木造で泥壁,草や土で屋根を覆った平地住居とがあった。いずれの場合も屋内に一つか二つの竈が取り付けられ,煙は煙道の高床(炕(カン))の中を通して暖房とした。ここには数家族が共住した。夏近くには〈夏の家〉に移ったが,これは〈冬の家〉に近接していることも,数km離れていることもあった。〈夏の家〉には木造家屋と杭上家屋があり,後者は2部屋からなり,一方が住居,他方が校倉(あぜくら)であった。夏冬で住居を変える生活形態は,漁労という定着性の強い生業に比重をおく混合経済に特徴的に見られ,アムール川流域のナナイ(ゴリド),ニブヒ(ギリヤーク),ウリチ,オロチ族,カムチャツカ半島のイテリメン(カムチャダール)族,オビ川流域のハンティ,マンシ,セリクープ族の場合である。また,かつてのアイヌの生活形態も同様の性格をもっていたと考えられる。
北極海,オホーツク海,北太平洋の沿岸には古代から海獣狩猟を基本とする高度な海洋文化が発達した。とくにエスキモーや〈海岸チュクチ〉〈海岸コリヤーク〉と呼ばれる原住民はセイウチ,アザラシ,クジラなどの海獣狩猟や河川での漁労によって衣食住のすべてを充足した。古くは竪穴住居が一般的で,とくに海岸コリヤークのそれは木や丸太で組んだ漏斗を伏せたような構造の屋根をもっていた。そして八角形プラン,竪穴の深さ1~1.5m,長さ15m,幅12m,高さ3~7mの住居に数家族が共住した。これには通路と出入口が付設され,外側は枯草と泥で覆ってあるため全体の外観は半割りのヒョウタンを伏せたかっこうであった。大きいほうの半球の頂には上述の特異な構造物がのっていたが,これは煙出しで,冬の出入口でもあった。またエスキモーやチュクチ族では,かつて鯨骨を骨組みとする竪穴住居が用いられた。
タイガ地帯には,少数のトナカイを飼い,それを移動運搬手段としながら狩猟漁労に携わる原住民がいた。東シベリアのエベンキ,エベン(ラムート)族,北のドルガン族Dolgany,南のトファラル族Tofalary,西では一部のネネツ族,ケート,セリクープ族である。この場合にも,移動生活が営まれ,文化的にはシベリアの森林ステップ,タイガ地帯の狩猟漁労民と共通し,住居もチュムであった。
ツンドラや森林ツンドラにはトナカイ飼養に専従するいわばトナカイ牧畜が発達した。ネネツ族,ヤクート族の一部,内陸部のチュクチ,コリヤーク族はトナカイ群を追う遊牧生活を送った。その住居はヤランガyarangaと呼ばれる天幕であった。これは3本の棒の上部を縛って主柱として円形に数十本の支柱を垂直に立て,それに屋根の横木をのせ,トナカイの毛皮で全体を覆った丸屋根の天幕であった。床の径は10m,高さは4mほどで,床には草ござ,その上にトナカイの毛皮を敷いた。内部の壁にはトナカイの毛皮で仕切られた個室(高さ1.3~1.5m,長さ2~4m,幅1.3~2m)が3~4個ないし5~6個設けられ,それに核家族が住んだ。未婚の成人男女はおのおのの個室をもった。
シベリアの南部には牛,馬,羊,ヤギ(所によりラクダ)を飼い,狩猟や漁労,農耕をも営む混合経済が見られた。ブリヤート,アルタイ,ハカス,トゥバ,シベリア・タタール族の場合である。自然環境や歴史的事情により,狩猟や農耕の比重は地理的にも民族的にも異なったが,基盤は遊牧的な牧畜であった。遊牧形態には冬の宿営地と夏の放牧地の間を水平に移動する場合も,谷の宿営地と山の放牧地の間を夏冬で上下する場合もあり,移動範囲にも差異があった。このような遊牧・牧畜のもとでは,住居はモンゴルのゲルのようなユルタであった。また,狩猟や漁労が主要な生業である場合にはシラカバやカラマツの樹皮で覆ったチュム,農耕の進んだ所ではロシア人の影響で木造や丸太造の家屋が建てられた。レナ川流域のヤクート族では,南部で牛馬を飼育する農牧民は丸太造,長方形で平屋根,泥土で塗壁した住居に住んだが,北部のツンドラ地帯でトナカイを飼う牧畜民はトナカイ皮のチュムを住居とし,移動の際には骨組みの棒をも持ち運んだ。
モンゴルや中央アジアの乾燥・半乾燥地域では羊,ヤギ,牛,馬,ラクダの遊牧・牧畜が古くから発達し,住居は遊牧生活に適した天幕ユルタ(モンゴルではゲルと呼ぶ)が一般的であった。その構造は民族により多少の相違はあるものの,基本は同じであった。たとえば,カザフ族のユルタは次のような組立てであった。(1)ヤナギの細木を格子状に組み,ラクダの皮紐で結合した板4~5枚(大きいユルタには8~9枚)が円筒形の壁をつくる。(2)両開きの木の扉(ない場合には戸口にフェルトをつるす)。(3)丸屋根用の曲げをつけた棒。(4)接合や固定のための紐や縄,模様入りの幅広の紐,細い真田紐。各家で女がつくる。(5)覆い用のフェルト(壁に3,4枚,屋根用のひし形のもの2枚,天井用の長方形のもの1枚),戸口用のフェルト(草ござで補強した二重フェルト)。内部は真中の炉を中心に,戸口と反対側の奥の壁際に衣類の箱や袋,寝具を置き,その前の,炉に近い部分が上座,戸口から見て炉の右半分が女性,左半分が男性の空間であった。それぞれの戸口寄りの壁際には女財(調理用具,食器,馬乳酒をつくる皮袋,食料)と男財(鞍,投縄,家畜用の道具,ときには生まれたばかりの羊やヤギ,愛犬)が置かれた。床にはフェルトや毛皮を敷いた。裕福な牧民は模様入りのフェルトやじゅうたん,熊やオオカミの毛皮を敷き,木のベッド,食卓を置いた。移動するとき,ユルタは解体しラクダや牛の背に積んだが,19世紀末には荷車を使う所もあった。解体,組立ては女の仕事であった。
モンゴルや中央アジアの発達した牧畜民では貧富の差,社会階層の分化が顕著で,社会組織も複雑になるが,このことは住居であるユルタに直接に反映し,この点でシベリアの原住民の場合と根本的に異なる。
中央アジアの南部やオアシスの農耕民の住居は日乾煉瓦・石・泥土造で,トルクメン,ウズベク,タジク,キルギス族に多くの共通性が見られる。住居と菜園,畜舎,穀物乾燥場などからなる農家が散在する場合,住居と住居を密着させて壁や屋根を共通にする場合,全体を高い土壁で囲んで城塞とする場合など,住居や集落のあり方は自然環境よりは,むしろ灌漑水路や外敵の襲撃という社会的要因により特徴づけられている。
全般的にみると,シベリア,中央アジアでは19~20世紀にはロシア人の植民の影響をうけ,社会主義革命以降は定着化政策,集団農場化,都市化などの進行とともに,恒常的な住居が普及し,移動生活に適応したチュム,ユルタは今日では廃れて,過去のものとなっている。
執筆者:荻原 真子
中東地域の住居の特徴として第1にあげられる点は,中庭を中心とした構造である。各住居は中庭を中心にして周囲に居室が配置され,このような矩形の住居を単位として街区(ハーラ)が形成され,またハーラの集合が都市となる。中庭型住居は,古くは初期ローマやヘレニズム期に特徴的に見られたものであり,やがて中東をはじめ地中海地域に受け継がれた。しかし中庭型住居が中東に広まったことには,同地域特有の自然条件によるところが大きい。すなわち,雨が少なく乾燥し,日ざしが強いという気候条件の下で,中庭の空間は住居全体の通風口の役割を果たすと同時に,周囲の壁によって直射日光を遮られた涼みの場となる。中庭にはしばしば池や泉亭がつくられ,また中庭に向かって開いたイーワーンīwānと呼ばれるホールが設けられ,中庭は住民の憩いの場として生活に不可欠なものとなっていった。中庭型住居は,外に対しては閉鎖性をもつ。通りに面しては,しばしば小さな入口しか設けられず,また窓も最小に限られている。これは,外来者の侵入を防ぐ意味がある。そして,ヨーロッパの住居が通りに面したファサードを飾りたてるのに対し,中東では,内側すなわち中庭に面した周囲に装飾がこらされ,それは外面の素朴さとは対照的である。
このような中庭型住居は,ほぼ10世紀ころまでに東はイランからシリア,エジプト,西は北アフリカ,イベリア半島にまで広まり,これらの地域に定着した。ヨーロッパ風の新市街の発展した今日でも,中庭型住居は中東地域に広く見られる。とくに北アフリカのマグリブ地方では,中庭型住居の密集する旧市街は〈メディナmadīna〉(アラビア語で〈都市〉の意味)と呼ばれ,伝統的な中東の集落形態をよく示している。このほか,乾燥地域を主とする中東においても,山岳地帯や大河の湿地帯といった自然条件の下にある地域があり,そこでも特異な自然条件に対応した居住形態が見られる。以下,マグリブの中庭型住居を典型として考察しながら,他の特徴ある例も紹介していきたい。
マグリブ地方の旧市街〈メディナ〉は城壁に囲まれ,城内のわきにスークsūqと呼ばれる市場をもつ。スークは城壁内でもっとも低い所に立地し,一見迷路状にみえる道路はここに集まる。モスクは住居群のなかに埋もれているが,ミナレットと呼ぶ塔により存在が知られる。メディナの一隅に防衛の拠点となるカスバがある。アトラス山脈の峡谷には日乾煉瓦造で,四隅に塔状の物見をもつみごとな造形のカスバが見られる。メディナには中庭型住居が密集し,航空写真では矩形の核をもつ細胞のように見える。住居は日乾煉瓦造の2階建てで,外部に対しては開口部がほとんどなく,きわめて閉鎖的であるが,内部の中庭に対しては開放的である。中庭には回廊が巡り,すべての部屋は中庭に面する。中庭まで入れるのは近親者のみで,入口から中庭は見通せない。中庭は採光のほかに隣の住居との平面的なゆがみを吸収する機能があり,これにより住居を連続的につないでゆくことが可能になる。屋上はフラットで,テラスや物干場とされる。外来者から女性を隔離するために隣家のテラスとつながっている場合もある。都市部の住居は2階建てで,かつ矩形の中庭の四周を部屋がとり囲むようにコンパクトにつくられるが,農村部では大きく矩形に囲った壁の内側に建物がはりつく形になり,余った部分が中庭となる。メディナの中庭型住居は,都市型住居に要求される高い自律性と密着性とを同時に実現した巧妙な居住形態である。
ティグリス・ユーフラテス川の下流域は大湿地帯になり,葦が一面に繁茂する。この沼沢地には〈マダン〉と呼ばれるアラブの一派が住む。彼らの住居は5000年の歴史をもつといわれるが,比較的浅い部分に土盛りをして築いた人工の島の上に建てられる。島の規模は家族の大きさに応じてまちまちであるが,一つの家族が一つの独立した島をもつという原則がある。そのため島は離散的に分布し,島と島との間の交通は舟による。住居の素材は葦である。まず,葦の束を2列に立て,その上部を結んでアーチ状にしてフレームをつくり,次いで葦で編んだマットでこれを覆う。細長いボールト状の空間ができるが,入口は妻側にある。入口に次いでゲスト・ルーム(客室)があり,奥は寝室と厨房になる。ゲスト・ルームとの間は収納により区切られる。水辺に立地する集落で,最奥に家畜小屋をとり込んだ形式のものもあるが,その場合は線形の住居の後半分がドラム状に膨らみ異様な形になる。家の周囲の空きの部分は作業場で,水牛と家禽が同居する。村の長の家には〈マディフ〉と呼ばれる共有のゲスト・ハウスがある。マディフは1室の空間で,中央に炉があり,外来者の接待や村の行事に使用され,モスクの機能も合わせもつ。接客空間はすべて男の領域に属し,女が立ち入ることは許されない。
イランの中央部は砂漠であるが,その周縁部には幾多の人工的なオアシスがあり,水はカナートと呼ばれる地下水道により運ばれる。カナートは山岳地帯に源をもち,長いものでは数十kmに及ぶ。集落内に導かれた水は地下の貯水池に蓄えられる。貯水池の上には通風のための貯水塔がある。一般的な公共施設としてモスクとキャラバンサライがあり,カーレと呼ばれる領主の館がある場合もある。カナートの流れに沿って住居は配置され,その末端は農耕地となる。住居は中庭型を基本とするが,菜園や果樹園を敷地内にとり込んだ広大なものもある。季節風の向きが一定している地方では,屋根に通風筒をもつものがある。通風筒の細長いスリットをくぐり抜けた風は居間のアルコーブから吹き出す。居間は作業場を兼ね,ここで布やじゅうたんが織られる。木材が乏しいために建物はすべて日乾煉瓦でつくられる。屋根はドーム状かボールト状になるが,そこにうがたれた穴の造形は下の部屋の機能に対応する。円錐形の通風孔は寝室で,丸穴で周囲がくすんでいるのは厨房,そうでないのは家畜小屋,ガラスを組み合わせた三角錐は共同浴場である。
アルメニアからエルブルズ山脈にかけての山岳地帯では木の梁が使用され,屋根はフラット(陸屋根)になる。カスピ海沿岸部の綿花地帯には木造2階建てで瓦の寄棟屋根をもつ住居がある。砂漠の住居とは対照的に開放的な住居で,数戸が集まりクラスター(群)を形成する。平面は1階が作業場と厨房で2階に居間と寝室がある。大きく張り出した軒と,外階段で結ばれたベランダとバルコニーに特徴がある。
シリア北部からトルコ南東部にかけての地域には独特な紡錘型のドームをもつ住居群がある。石積みの壁の上に日乾煉瓦の迫持(せりもち)ドームをかけたもので,表面は泥で塗り固められている。住居は中庭型であるが,特徴的なのは規格化された正方形平面の住居ユニットを持つことである。住居はこのユニットを正方形グリッド(格子)上に配置し,それらを壁で連結して形成される。各ユニットの開口部はすべて中庭に面し,中庭には井戸がある。この住居はいくつか集まり,さらに大きなクラスターを形成する。
トルコの西部からバルカン半島にかけての都市型住居には,2階部分が1階よりも大きくせり出している形式がある。1階が石造で2階がハーフティンバーのものが多いが,せり出した部分は曲木の方杖や石材の持送りにより支えられる。機能的には狭い路地における監視と防御に役だったものと思われる。アナトリア高原には,校倉(あぜくら)造の高床住居がある。1階は家畜小屋で2階が居室にあてられ,炉は外部に設けられる。高原の中央部の峡谷,カッパドキアは侵食の進んだ奇岩地帯として知られ,現在も穴居住居が見られる。洞窟は先史時代の遺跡やヒッタイト人のものと考えられる横穴式住居跡,ビザンティン時代の隠遁修道士により掘られた修道院や穴居跡の再利用をはかったもので,前面に石積みの家屋が付加されるケースが多い。
サハラ砂漠の南縁部はステップ地帯である。トゥアレグ族は砂漠の騎士として隊商を組織する一方,ステップ地帯で遊牧に従事してきた。トゥアレグ族の住居はテントである。テントをつくるのは女の仕事で,まず,上端がY字形になった小枝を地面に立て四角に囲み,それにドーム状に屋根の架構をかける。次にこれを草やヤシの葉で編んだマットで覆い,梱包するようにロープをかける。サハラ砂漠の北縁部からイランにかけてのテントが柱で支えた布地をロープで引っ張ってつくられるのに対し,トゥアレグ族のテントは架構式構造で,内部に支柱のない空間が得られる。トゥアレグ社会はイスラム教であるが一夫一婦制の核家族により構成され,寝室用のテントとベランダ,簡単に囲っただけの厨房と便所,家畜の囲いが基本的な単位となる。遊牧地は季節により異なり,移動の際,テントは畳まれ,ラクダやロバの背で運ばれる。
サバンナには〈コンパウンドcompound〉と呼ばれる独特の住居形式がある。これは大家族制に立脚した居住形態で,多数の棟が明快な配列パターンのもとに複合化して形成される。コンパウンドを構成するエレメント(要素)は住棟,ベランダ,厨房,便所,穀倉,家畜小屋,門,柵,塀などで,その形態とテクスチャーは変化に富む。住棟は家族の成員一人に一つを原則とする。これには円形と矩形のものがあり,いくつかが複合したものもある。壁は日乾煉瓦や草を編んだマットでつくられ,屋根と一体化したものもある。屋根は円錐形やドーム状のものとフラットなもの(陸屋根)とがある。穀倉の形態は多様で,壺状,逆円錐形,四角い塔状などがあり,ふたや脚部の形態もさまざまで,大きさや素材もまちまちである。エレメントをまとめる柵や塀も,木の編み方や日乾煉瓦の積み方にいくつかのタイプがある。このように基本的なエレメントの種類は共有されるが,その表現は部族,地域に固有で視覚的に差異が明快である。ちょうど方言のように,デザインのみならずエレメントの組合せや配列の仕方は,部族により微妙に異なる。コンパウンドはアフリカのサバンナ地帯の全域に分布するが,その形態的な特徴を,とくに西アフリカを例に述べる。
最も初源的な形態と思われるのは,木柵や土塀で囲まれた領域にエレメントが点在するもので,この場合,住棟の配列には入口の向きを除いて規則性はない。これは最もルーズな結合のコンパウンドで,定住したトゥアレグ族やハウサ族,フルベ(プール)族などに見られる。住棟は円形で穀倉は壺状となる。ニジェールのハウサ族には住棟より大きな穀倉をもつものがある。矩形の住棟をもつコンパウンドは土塀も直線的になり,囲み型の様相を呈するが,その成立過程は,エレメントが先で囲いが後である。そのためアラブ世界の中庭型とは異なり非分割的で有機的である。ハウサ族の〈シギファ〉と呼ばれる住棟は正方形平面で中央に太い棟持柱がある。屋根の四隅と入口上部に〈ザンコ〉と呼ばれる角のような飾りがあり,外壁面にはレリーフが施される。マルカ族やヌヌマ族,ドゴン族の集落では住居が密集し,かつ四角い塔状の穀倉がそびえ,遠くからは要塞のように見える。この形式がさらにコンパクトになると各住棟は互いに接し,全体として中庭を囲むようになる。ガーナのアシャンティ族のコンパウンドがその例である。アシャンティ族は熱帯雨林気候に住み,そのため住棟を一体化し大きな屋根で覆う必要があったと思われるが,この形式がコンパウンドの変形であることの証左はロ字型のほかにコ字型やL字型の住居が混在することである。
円形平面で明快な配列則をもつ例としてグルマンチェ族やモシ族,ダゴンバ族のコンパウンドがある。円形の住棟を環状に並べ,間を柵や塀で閉じたもので,首飾状の完結度がきわめて高いものである。各住棟は中庭に面して囲われた炉をもつ。円形の住棟が複合化した例としてレラ族,フラフラ族,セヌフォ族のコンパウンドがある。レラ族の場合,3~4の円形棟が重合して一つの基本単位となるが,夫人のゾーン(区画)では各夫人の棟が連結し,さらに大きな泡状の集団となる。各基本単位は前面に区画された前庭をもち,そこに炉がある。フラフラ族の場合は住棟,厨房,穀物庫が少しずつ重なり合いながら連結したもので,家畜のゾーンと住棟のゾーンに二分される。円形平面の住棟が複合化したものは屋根がフラットでシリンダー状をしているが,特異なものとしてセヌフォ族の二重円平面の住居がある。これは大きい円が小さい円を内包する形で重合したもので,屋根は草葺である。
矩形の住棟が複合化した例としてロビ族のコンパウンドがある。ロビ族の住居は細長いホールの両側に矩形の住棟が並列的に並んだもので,各部屋へは奥の厨房を介してアプローチする。
以上の各タイプのほかに,一つのコンパウンド内に円形と矩形の住棟が混在する場合があるが,一般に使用方法と形態との対応は明確でない。
執筆者:藤井 明
ここでは,まず今日にいたる住居の歴史の前史として住居址の残る古代オリエント,古代のギリシア,ローマをとりあげ,次いで西欧の歴史を述べ,東欧,地中海地域の特徴的な住居を,地形や集落などとかかわりつつ記す。一般に原始的住居はその構造から,(1)小屋のような構造物,(2)穴居型の住居に分かれると考えられている。(1)は木造建築の祖型,(2)は組積造建築の祖型である。また,(1)の多くは一室住居,(2)は何室かに分かれた住居であることが多い。原始的な住居は孤立してつくられることは少なく,何戸かが集まり,また壁を共用して密集して群居する例も多い。前6000年ころと考えられるトルコのチャタル・ヒュユクⅥB層の住居址では,日乾煉瓦でつくられた長方形の住宅が壁を接して並んでいた。屋根は陸屋根で出入口は屋根の穴からはしごを用いてなされた。円形住居では前5800~前4900年ころとみられるキプロス島のコイロコティアChoirokotíaの住居址(キロキティアKhirokitia)が古く,直径8.75mの円形平面に粗石を積んだ壁を築き,その上に日乾煉瓦のドームを架けたと考えられている。内部は2階になっていた。一般にこうした円形の建物をトロスtholosと呼び,クレタやミュケナイに見られる長方形の建物をメガロンと呼ぶ。
古代エジプトの住居は日乾煉瓦の壁体をもち,陸屋根を架けていたが,形式としては1棟の住居としてつくられるものと,中庭型住居とに分かれる。第12王朝のセンウセルト2世がピラミッド建設の労働者のために造営したラーフーンal-Lāhūnの町には,密集した労働者住宅と,中庭をもつやや大型の工事監督官の住宅とが見られる。前2000年ころのメソポタミアでは,日乾煉瓦のドームをもつ円錐形住居,田舎に見られる長方形で陸屋根をもつ住居,そして都市に見られる中庭型住居の3種類からなっていた。中庭型の住居址では,前1800年ころのウルの住居が知られ,わずかに傾斜した陸屋根に降る雨水は中庭に落ちて排水された。
古代ギリシアの住居は中庭型が多く,オリュントス(前5~前4世紀),プリエネ(前3~前2世紀),デロス島(前2世紀)などの住居が発掘されている。その構成は,道路に面した入口の門(プロテュロンprothyron)から中庭(アウレaulē)に入ると中庭に面して屋根の差しかけられた歩廊(パスタスpastas)があり,そこに各室が入口を開くというものであった。主室(アンドロンandrōn)は,元来は男性の客をもてなす部屋であったが,食堂,宴会場としても用いられた。このほか寝室,台所,炉室,浴室,倉庫などが歩廊に面して配置されていた。中庭の周囲全体が列柱によって屋根を差しかけられて整備されたものは,ペリステュロスperistylos(列柱中庭)と呼ばれる。住居は2階建てのものもしばしば見られ,主要な部屋の床は小石のモザイクで飾られた。敷地が不整形でもペリステュロスは正方形につくられる場合が多く,中庭を中心とする構成の重要さを示している。壁は割石の基礎の上に日乾煉瓦で築かれ,2階の床や屋根や階段は木造であった。屋根は瓦葺きである。
ローマの住居も,中庭型住居を中心に発展した。もっとも有名な例がポンペイの住居址群(前2世紀ころ~後1世紀)であり,類似の形式は地中海沿岸の各地に見いだされる。ドムスdomusと呼ばれる大型の中庭型住居では,街路に面した入口が二重扉になっていて安全を確保し,そこからアトリウムと呼ばれる第1の中庭にいたる。アトリウムは周囲を屋根に囲まれた小型の中庭で,中央に雨水を受ける浅い池が設けられる。アトリウムの正面奥にはタブリヌムtabulinum,tablinumという部屋が設けられるが,家長の寝室であったものが家族の文書類(タブラtabula)を収める部屋となったものである。また寝室(クビクルムcubiculum)その他がアトリウムを囲んでいる。アトリウムの奥にはペリステュルムperistylum(列柱中庭)が設けられる。私的な中庭というべき性格のもので,主室,食堂,寝室,台所などがまわりを取り巻く。ペリステュルムの中央部分には花壇があり,都市住居の中に自然の要素をもたらしている。大規模なドムスでは,街路沿いに入口の左右に小さな賃貸店舗用の小部屋を設け,またペリステュルムのさらに奥を後庭として菜園にしたりする。ドムスの形式は,アトリウムおよびタブリヌムによる構成をエトルリアの住居の伝統から得,ペリステュルムとその周囲を各室が取り囲む構成をギリシアやヘレニズム世界から摂取したと考えられている。二つの中庭をもつ典型的なドムスとして,ポンペイの〈パンサの家〉(前2世紀)をあげることができる。しかしローマ帝政期末期にはこのような大規模住居はつくりにくくなり,アトリウムを欠いたものが多くなる。
ローマ時代の稠密な都市化が生んだ住居形式にインスラinsulaがある。3階から5階に及ぶ共同住宅で,外壁を煉瓦で築いた天然無筋コンクリート造であった。通常1階にはタベルナtabernaと呼ばれる1室の住居または店舗が設けられ,2階に高級な貸家,その上階に1室住居が設けられた。ローマ都市では階ごとに異なる社会階層の人々が住みわける形式が一般であった。インスラはローマやローマの外港のオスティアなど,商業活動の盛んな都市に多く建設されたが,大半は衛生設備が伴わず,容易にスラム化して都市問題を引き起こした。歴代ローマ皇帝は建築の高さ制限によってインスラの規制を行ったが,スラム化したインスラは大火によって焼失しないかぎり,除去できなかった。このほか,郊外の別荘であるウィラも多くつくられた。多くは中庭型住居であったが,特異例として最も有名なものがティボリにつくられた〈ハドリアヌス帝のウィラ〉(ビラ・アドリアーナ。118-138)である。敷地は南北1km,東西600mほどで,このなかに池を多用したさまざまな建築物を建てた。
ヨーロッパでは中世都市の発展によって,11~12世紀ころに新しいタイプの住居が現れてくる。都市内の住居(町屋)は木造で,1階に店舗等をもち,上階に居住部分をもった。こうした住居はフランスでは早くも13世紀ころに石造になっていったが,その他の諸国では木骨構造を露出させたハーフティンバーの建築が多かった。都市外あるいは地方の領主邸は城を兼ねたものが多く,その居住部分は大きな広間(ホール)を中心とした。イギリスのマナー・ハウスと呼ばれる領主邸は,ホールと,それに隣接するスクリーン・パッセージと呼ばれる通路部分とが中心部を構成し,その横に台所等を設けた。ホールには出窓が設けられることが多く,これはアルプス以北の陽光の少ない地方における工夫と考えられている。イタリアの都市住居は,中庭を中心とする3~4階建てのパラッツォ形式を生み出してゆく。北ヨーロッパでは15世紀ころにはハーフティンバーの住宅が中心となってゆき,これは石造建築が主流を占めていた13世紀のフランスでも例外ではなかった。代表的な中世の都市住居であるフランスのブールジュに建つジャック・クールJacques-Cœur邸(1443-51)は,塔を備え中庭をもった堂々たる大型住居である。またベネチアの大運河沿いに建つカ・ドーロ(1421-40)はベネチア・ゴシック様式の壁面が美しいイタリア型中世都市住居の精華である。ハーフティンバーのマナー・ハウスとしてはイギリスのリバプール近郊に建つスペック・ホールSpeke Hall(15世紀末~17世紀初め)が有名である。
中世都市の住居は個々の建築物の特色だけでなく,都市全体の構成の美しさによって評価されることが多い。イタリアのベネチアやシエナ,フランスのルーアンやボーベ,ドイツのヒルデスハイムやローテンブルク,イギリスのチェスターやヨークなどの都市は,現在も中世の都市構成を示している。ヨーロッパ都市の構成とそのなかに建つ住居の形式は,中世末期に確立されて以後,本質的には19世紀に産業革命が都市化の波を引き起こすまで,変化することなく持続する。
ルネサンス住宅建築の課題は,中世以来の左右非対称の平面構成を古典主義的な左右対称の壁面構成と両立させることであった。アルベルティはフィレンツェに建つパラッツォ・ルチェライPalazzo Rucellai(1446-51)の正面壁面にローマのコロセウムに由来するオーダーとアーチの組合せのデザインを応用し,ルネサンス的な意匠をもつ都市邸宅の端緒を開いた。イギリスのスミッソンRobert Smythson(1535ころ-1614)は,ホールを中心とする中世的な大邸宅に左右対称の壁面構成を与える試みを,ロングリート・ハウス(1568-75ころ)等のカントリー・ハウスの設計を通じて行った。またイタリアのセルリオはフランスに赴いてフォンテンブローのグラン・フェラール(1544-46)等の都市邸宅を設計し,オテルと呼ばれるフランスの都市住宅の原型をつくり上げた。オテルは街路から門を入ると中庭があり,その正面に邸館を据え,背後に庭園をもつもので,建物の左右対称の軸線が中庭側と庭園側でずれるのを,巧みにカムフラージュしている。オテルは大規模都市住宅の形式であるが,一般にはアパルトマンappartementと呼ばれる住居がフランスの都市で用いられた。これは一つの入口から入る共同住宅で各階に住戸をもつ。一般に2階に高級な住戸が設けられ,上階にいくほど社会階層の低い住戸が設けられた。アパルトマンは5~6階から7階にまで及ぶものが建てられたが,エレベーターの普及以前にはこの高さが居住の限界であった。
アパルトマンに対してイギリスでは,テラス・ハウス形式が近世都市住宅の主流となった。これは3~4階の住戸を横に連続させたもので,各戸はそれぞれ街路に向かって入口をもつ。アパルトマンやテラス・ハウスは,建物全体としてまとまりある意匠とされる例が多く,ウッド(子)がバースに建設したローヤル・クレセント(1754-75),J.ナッシュがロンドン北部のリージェンツ・パークに建てたカンバーランド・テラス(1826-27)は,共同住宅を全体として宮殿のような意匠にまとめ上げている。同時にこれらの住宅は,共同住宅のレイアウトを都市計画的視野に立って計画した例として知られる。ルネサンスから近世にかけての時期を通じ,1666年のロンドン大火後の法律に見られるように木造建築の禁止が多くの都市で制定され,石造もしくは煉瓦造の建築のみが建設されるようになった。しかしこれらの建物も床や屋根は木造である。
近代の特徴は,専用住居が出現したことである。これまでの住宅は,農家であれ職人や商人の住い(町屋)であれ,そのほとんどが家内作業や商業のスペースを住宅内に含むものであった。また貴族や領主の都市内の邸宅(タウン・ハウス)や所領の館(カントリー・ハウス)は,家族のための住いであるより社交と所領経営のためのスペースを中心としたものであった。近代産業社会の中で生み出された労働者や高級専門職に従事する人々は,職場と住居を別々にする,いわゆる〈職住分離〉のライフ・スタイルを受け入れる。そのための住居が専用住居であり,そうした住居が既存の都市の外周部に広がることによって郊外住宅地が出現する。
産業革命がはじめて起きたイギリスでは,当初無数の低劣なテラス・ハウスが工場周辺に建設された。その多くは一室住居を背中合せに並べた〈背割り長屋〉形式であったので,〈バック・トゥ・バック・ハウスback-to-back house〉と呼ばれた。産業革命期の住宅改良はこの種のテラス・ハウス除去から始まる。やがて工業家たちのなかから,工場と従業員住居を一体として計画する新しい都市づくりが現れる。1850年にヨークシャーにつくられたソルテアSaltaire,79年にチョコレート工場主G.キャドベリーが建設したブーンビルBournville,88年にセッケン工場主レバーの建設したポート・サンライトPort Sunlightなどがイギリスにおける代表例である。アメリカでは寝台車製造工場主G.M.プルマンが建設したプルマンPullmanの町(1880),ドイツでも製鉄会社クルップによるクルップ・コロニーKruppkolonie(1905)などの例が見られた。E.ハワードの主張した〈田園都市〉は町づくりのために工場も設置するという発想で計画されたもので,レッチワース(1903)とウェルウィン(1919)に結実した。そこに見られる住宅は中世風の意匠をもつものが多かった。他方,都市内のスラムの改良は,フラットと呼ばれる中層の集合住宅建設によって進められる。当初は純営利事業として計画された住宅建設は,やがて利潤が上がらぬことが判明し,ピーボディ・トラストPeabody Trustに代表される非営利財団の慈善事業として進められ,最終的には自治体等の公営住宅事業に受け継がれてゆく。中産階級の住宅は〈田園郊外Garden Suburb〉と呼ばれる住宅地に多く建設され,2戸で一つの建物となっている住宅(セミ・ディタッチト・ハウスsemi-detached house)が多く建設される。田園郊外の住宅地は風致計画を加味したベッドタウン(住宅都市)であり,1870年代後半にロンドン西郊に建設されたベドフォード・パークBedford Parkがその嚆矢(こうし)である。
建築家たちも専用住居を数多く設計するようになる。これは特筆すべき変化で,従来の建築家は教会堂や宮殿,貴族の大邸宅を設計することはあっても,一般の家庭生活のための個人邸宅を設計することはなかったのである。ル・コルビュジエは1914年に〈ドミノDomino〉と呼ぶ建築の原型を提出したが,これは床と柱と階段だけからなるモデルであり,専用住居を想定したものであった。彼に限らず,20世紀初頭の建築家たちは独立専用住居を建築の原型と考えたのであった。
集合住宅はエレベーターの発明に伴って高層のタイプが現れるようになり,大規模集合住宅地の開発は高層住宅と低層住宅を組み合わせて設計されるようになった。集合住宅の一つのユニットとしての住戸のモデルは,1851年ロンドン万国博覧会の際にロバーツHenry Roberts(1803-76)によって設計されたアルバート住宅(2階建て4戸の集合住宅)と,1925年パリの現代装飾・工業美術国際展にル・コルビュジエの設計によって建設されたエスプリ・ヌーボー館が知られる。前者は煉瓦造,後者は鉄筋コンクリート造であり,両者の時代的差異のうちに,住宅の構造を伝統的組積造から鉄筋コンクリート造に変化させていったことが知られる。コンクリート造建築による新しい都市イメージをはじめて提出したのはT.ガルニエの〈工業都市〉案(1918)であり,初期のコンクリート造集合住宅としてはA.ペレ設計によるパリのフランクリン街のアパート(1903)がある。現在では中高層以上の住宅は鉄筋コンクリート造あるいは鉄骨造によって建設され,大型のコンクリート・パネルを用いたプレハブ建築も数多くつくられている。さらに構造体だけでなく,窓,建具,設備機器の多くが工業製品となることによって,住宅は風土,伝統に根ざして生み出されてきたというその歴史的性格を大きく変えつつある。
→集合住宅
執筆者:鈴木 博之
ポーランド平野は北ドイツ平原に連なり,12世紀以降ここを舞台にいわゆる東方植民が行われた。ドイツ人商工業者は卓越した資力と技術をもち,聖俗両界が領主の援助のもとに新しい都市を次々と建設した。こうした都市は都市法のもとに自治権を獲得した(その基本はドイツの〈マクデブルク都市法〉である)。したがって当時の都市社会は,スラブ的な伝統の上にゲルマン的な秩序が投影されたものとなった。この歴史的経緯は,今日〈中世都市〉と呼ぶ都市の構造に色濃く反映されている。都市は城壁に囲まれ,中央に矩形の広場をもつが,西欧の広場との対比で特徴的なのは,広場の中に市庁舎や計量所などの建物があること,教会堂が広場の中心でなく隅部,あるいは外れた位置にあること,広場の四周の建物がすべて商店で,広場に面して破風壁をもつことである。住居の形式は1階の表が店舗で裏手に作業場がある。2階から上が居住空間で,細長い平面の中央部分に階段とホール,それに厨房があり,居室は表と裏に振り分けられ,屋根裏にも部屋がある。壁面は石か煉瓦の組積造で,小屋組みは木造である。屋根はスレート葺が多いが瓦葺もある。ファサード面の破風壁が町並みの景観を決定している。
バルカンとはトルコ語で〈山〉を意味し,西欧社会にとってバルカンの山々は東方からの侵略を防ぐ自然の防波堤であった。東方世界に対して唯一開かれていた門戸はドナウ川で,東方からの文化はこの川に沿って伝播した。この文化の大きな流れに対して,よどみのように取り残された地域がトランシルバニアやカルパチの山中にある。そうした地域では独自の地方文化が開花し,現在も飛地のように残存している。バルカン半島北部の住居の様式は地方によって微妙に異なるが,全般には木の文化である。建物の壁面は木壁組積造(校倉)で,この構造の分布は針葉樹林帯の分布と一致する。その理由は,針葉樹は軸組造よりも組積造に適すること,同一径の材料が得やすいこと,一帯が木の断熱効果を必要とする寒冷地であること,などである。屋根は草葺きも見られるが一般には柿(こけら)葺きである。ルーマニアの民家に特徴的なのは屋根の煙抜きのデザインで,明らかに目を模している。棟飾や煙抜きの装飾には,地方ごとの独自性が発揮されている。とくにルーマニアに接するモルドバ共和国では,木柵,門,ポーチ,柱,バルコニーの手すりなどにも細かな彫が入れられ,住居全体が過度なまでに飾りたてられている。平面は単純で,母屋はホール,厨房,寝室からなり,バルコニーをもつものが多い。納屋と家畜小屋は分棟される。
ハンガリー盆地からスロバキアにかけての地域には地割型集落が多い。地割型は,街村の背後に短冊型の耕作地をもつ農業集落をさしていう。地方によっては円形や楕円形の広場に対し,住居や耕作地が放射状に配列される場合もある。地割型の起源は植民集落にあるといわれ,この形式の集落では土地がほぼ均等に分割されると同時に住居も整然と並び,道路からの景観は母屋の妻壁と塀とが交互に繰り返す。住居平面も単純で,平入りの中央部分に居間と厨房があり,その両脇が寝室になる。納屋と家畜小屋は分棟する場合と母屋に付属する場合がある。
旧ユーゴスラビアの海岸部はアドリア海を介してイタリアと対面し,この地域の港町はかつてベネチアと地中海貿易の覇を競った。集落や住居の形式はイタリアやギリシアに近いが,特徴的なのは集落の構造,とくに道路パターンに作為性があり,幾何学的なパターンをもつものが多いことである。岬に立地し城壁に囲まれた都市が多いが,微地形と道路パターンとのずれは住居の中庭で吸収される。住居は石造の3,4階建てで密集し,路地状の道路の両側に石の壁が立ち上がり,閉鎖的な構えをもつ。
スペインからフランスにかけての集落は,中心に教会と広場があり,その周囲に住居が配列されるという求心的な構造をもつ。住居は道路に沿って密接し,通りに面する外壁はタイルや塗料で仕上げられ,花で飾られる。入口からホアイエ,居間,寝室,厨房,パティオ(中庭)の順に部屋が並ぶが,ホアイエは通りの延長としてのセミ・パブリック(準公共)な空間で,居間から奥がプライベートな領域として使用される。壁は石かブロックの組積造で,屋根は瓦葺きである。スペインではこのような住居をカーサcasaと呼ぶが,これとまったく対照的な穴居住居がアンダルシア地方にある。クエバスcuevasと呼ばれるジプシーの住居で,丘のくぼみを利用した小広場を中心に,周囲の崖を横穴式にくりぬいたものであり,数戸が集まってクラスター(群)を形成する。小広場は作業場,洗濯場,物干場,子どもの遊び場と多目的に使用される。住居は入口から厨房,居間,寝室の順に線型に並ぶが,必要に応じて左右に分岐する。入口周辺の崖面と内部の壁面は白く塗られる。丘の上に林立する白い換気筒群は厨房の位置を示し,地下のコミュニティの存在を象徴的に暗示する。カーサとクエバスの見られる領域は接するが,両者の間には人種,社会階層,生活様式に明確な差異が存在する。
イタリアからギリシアにかけての集落では道路が生活空間として重要な機能を果たす。この地域の道路は不規則に折れ曲がり,随所に小広場をもつが,この小広場は街区の不整形を吸収すると同時に,日常的には生活広場として活用される。道路に生活空間が突出する傾向が強く,階段,テラス,バルコニー,ブリッジなどが道路に面して設けられる。住居は壁面が密着し,各戸の境界は定かでない。壁は石積みで厚く,開口部にアーチが多用される。屋根はイタリアでは瓦葺きが多いが,東南部のプーリア地方には〈トルーロtrullo〉と呼ばれる独特の石積屋根が見られる。これは石灰岩の薄板を円錐形に積み上げたもので,白い外壁と黒っぽい屋根とがコントラストをなす。
エーゲ海のキクラデス諸島では少雨のため屋根はフラット(陸屋根)になる。住居は立地する地形に対応して,大きく二つのタイプに分かれる。サントリニ島のように地形が急峻な場合,住居は斜面にひな壇状に配列される。各戸はパティオや屋上テラスをもち,道路とは階段で結ばれる。一方,ミコノスMíkonos島のように平坦な地形では,道路に沿って外階段やテラスが設けられる。階段下は便所や物置で上部はバルコニーになる。日中の生活はパティオやバルコニーの下で行われる。住居と道路がともに石灰で白く塗られ,これは生活空間と道路との一体化を象徴的に示している。
アメリカ・インディアンの住居は北アメリカではもはやほとんど見ることができず,中南米の限られた地域に残存するにすぎない。滅びつつあるものを含めて,エスキモー(イヌイット)とアメリカ・インディアンの居住形態を以下に概観する。
エスキモーの冬の住居はイグルーと呼ばれ,固まった雪のブロックをらせん状に積み上げてつくる。主室のドームは風よけの前室とトンネルで結ばれ,周囲に半球状の食料庫や収納庫が付属する。一つのイグルーが一つの家族に対応する。夏の住居はトゥピックと呼ばれるテントで,簡単な木の骨組みをアザラシの皮で覆ってつくる。
北アメリカの大平原インディアンの住居はティピと呼ばれる。ティピは3~4本の支柱の頂部を結び角錐形とした骨組みをバイソンの皮で覆ってつくる。ティピを建てたり畳んだりするのは女の仕事である。
アリゾナからニューメキシコにかけての乾燥地帯にはプエブロ・インディアン(プエブロ族)が住み,その独特な住居形式は〈プエブロ〉(スペイン語で〈集落〉の意)と呼ばれる。プエブロは3~5階建ての多層構造の密集住居で,恒常的なものである。プエブロは広場を囲むが,広場に面する側は上層にゆくほど後退し,ひな壇状のテラスになっている。一方,広場の反対側の壁面は垂直で,開口部が少なく要塞のように見える。住居へのアプローチは,かつてはテラスからのみ可能で,はしごにより内部に入った。この形式は外敵と熱に対する防備のためといわれる。壁面は日乾煉瓦や石でつくられ,梁は木造である。梁材は貴重で繰り返し使用され,部屋のスパンより長い部分は外壁から突出し,独特な外観を形づくる。
中南米のインディオの集落形態として特徴的なのは離散型である。離散型とは,集落に中心や境界がなく,かつ住居が一定間隔で広域的に分布する形態を言い,中央アメリカのメキシコ高原からグアテマラ高地にかけての地域や,南アメリカのアンデス山中に広く分布する。離散型の集落の特性は空きの部分にあり,空きを媒介として集落全体に環視のネットワークが張られる。環視は対外的のみならず対内的にもなされ,共同体の維持を可能とする。住居は分棟形式が多く,母屋の外に厨房,納屋,家畜小屋が独立した棟を形成する。架構方法はまちまちで,木造の軸組造も石や日乾煉瓦の組積造もある。屋根は寄棟が多いが草や瓦で葺かれ,新しいものではトタン葺きが多い。
エクアドルの海岸部は低湿地帯で熱帯性の樹木がうっそうと繁る。この地域にはバナナやコーヒーのプランテーションが多く,その小作人の住居に高床式のものが見られる。多雨で湿度の高い風土に対応した住居形式で,軸組みは木造であるが,外壁,間仕切,床はすべて竹を割ってつくられる。通風がきわめてよく,床下は鶏小屋となる。屋根はバナナやヤシの葉で葺く。
水上住居としてコロンビアのカリブ海岸の湖沼地帯の杭上住居と,ペルーのチチカカ湖の浮島住居がある。コロンビアのマグダレナ川の河口付近はラグーンになっており,この地域の住居は,ラグーンの浅い部分に杭を打ち,横板で土止めをした人工島の上につくられる。深い所では杭の上に直接住居が載る。漁業集落で,一つの家族が一つの島をもち,交通はカヌーによる。住居は切妻の妻側に二つの入口をもち,内部は入口に近いほうが居間で奥が寝室になり,厨房は下屋にある。一方,チチカカ湖のウロ族の住居は葦の浮島につくられる。この浮島は住居を載せたまま移動が可能である。ここでは住居もカヌーもすべてトトラtotoraと呼ばれる葦を編んでつくる。
中南米の都市部ではコロニアル・スタイルが徹底している。コロニアル・スタイルの都市は道路がグリッド(格子)・プランで,その中心に矩形の広場がある。広場の正面には教会堂があり,その周囲に公共施設,商店が並びコロネード(列柱廊)が巡る。広場の中には噴水やベンチがあり花で飾られる。ここでは中心性が明快で,場所のヒエラルヒーが可視的である。住居は内部にパティオ(中庭)をもち,屋外の居間として日常生活の中心となる。壁面は煉瓦や石の組積造で,屋根は瓦葺きである。こうした都市には白人やメスティソが住む。大都市の場合,郊外にスラムが見られる。都市の形成過程には計画性が見られ,まずグリッド状に道路をつけ,次いで住区を均等割りして住居の区画を決め,住居が建てられる。
執筆者:藤井 明
アメリカでは植民地時代の当初から,手近に豊富にある木材を使い,熟練技術を要せずにつくれる木造建築が主流となった。部材と工法の規格・簡略化,また木造独自の形態と意匠が順次追求されて,各種の木造住宅様式が展開し,その流れは20世紀まで受け継がれた。
まず,17~18世紀には,コロニアル・スタイルと総称される建築様式が,地方ごとに特色ある発展をとげた。次いで1820年ころから,グリーク・リバイバルの影響を受けて,ペディメントと列柱を備えたギリシア神殿風の住宅が,都市と田舎の双方で大流行した。19世紀前半にはゴシックをはじめ,イタリアのビラとパラッツォ,ロマネスク等の各種様式が採り入れられ,その代表例としてゴシック様式のポールディング邸(設計A.J. デービス,1838-42,リンドハースト)が知られる。19世紀中ごろ,造園家ダウニングAndrew Jackson Downing(1815-52)は,その著作活動を通じてチューダー朝およびイタリア風の建築・造園様式を紹介する一方,伝来の木造建築の特色--構造と仕上げの両面に表れたスティック(木造骨組部材)--を直接表現すべきであると説いて,アメリカ独自の木造住宅様式の創始を促した。南北戦争後は中規模住宅に新機軸が打ち出され,とくに杮(こけら)葺きの一種で,自在な平面計画とのび広がるマッス(量塊)の表現を特徴とするシングル・スタイルshingle styleは,ストートン邸(設計H.H. リチャードソン,1882-83,ケンブリッジ)等の傑作を生んだ。19世紀末にはアカデミズムの立場からの反動が興って伝統復興を促し,この傾向はその後半世紀の間続く。ルネサンス風のビラード邸(1883-85,ニューヨーク)などで古典折衷様式の旗頭となったマッキム・ミード・アンド・ホワイトは,同時にコロニアル・スタイルの復興を標榜し,ロウ邸(1887,ブリストル)等で住宅建築に普及型を与えた。
20世紀に入るとF.L.ライトが各種の住宅タイプを提示する。バルコニーがつくる水平線と抽象的形態を表したプレーリー・ハウス(ロビー邸,1908など),室内の床高と屋根の重なりを変化させ抑揚感を表現した作品,そして垂直性を強調し,かつ壁面を浮彫装飾で飾った南カリフォルニア地方でのコンクリート造住宅の連作(1920年代)が続く。当時の西部ではB.R.メイベックやグリーン兄弟らがシングル・スタイルや東洋趣味を駆使して,〈カリフォルニア・バンガロー〉と呼ばれる地方様式を打ち出していた。30年代半ばからのライトはカウフマン邸(落水)等で,水平線を積み重ねた三次元的な効果と,連続ガラス窓による建物内外の融合を目ざし,さらに正方形など幾何学図形のモデュールに基づく平面計画を発表する。一方,R.ノイトラ設計のラベル邸(1929,ロサンゼルス)を契機に国際様式建築が導入され,W.グロピウス,P.ジョンソン,ミース・ファン・デル・ローエらが自邸を舞台に,ガラスと鉄骨による明解な住宅デザインを提唱した。19世紀後半に登場したスカイスクレーパーは1950年代から高層住宅としてつくられ始めた,レーク・ショア・ドライブ・アパート(設計ミース・ファン・デル・ローエ,1951,シカゴ)がその先鞭をつけた。また,同じころからプレハブ部材と規格・ユニット製品を組み入れて,住宅の低廉化が積極的にはかられた。ロマンティックな郊外住宅地建設の伝統と,ラドバーン方式等の計画理論の蓄積を生かして,60年代にはニュータウンの建設が始まる。レストンとコロンビア(ともにワシントン郊外)は,自然を残した中に低・中・高層の各種住宅を有機的に配したアメリカ型ニュータウンの初期の典型例である。街区保存事業も,60年代から軌道に乗った。〈創造的統合〉といわれるこの計画は,古い住宅の保存・改修と並行して,新規建設を奨励し,外観を周辺と調和させるよう指導しながら新旧が相まった町並みをつくり出す都心再開発の新方式として,高い評価を受けている(フィラデルフィア市ソサエティ・ヒル地区など)。
→住宅
執筆者:黒川 直樹
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
衣食住という表現が示すように、住居は人間生活の基本条件の一つである。建築物としての住居に対しては、家屋や住宅などのことばがしばしば用いられるが、住居ということばは単に建築物のみを指し示すわけではない。建築物の中で人間の生活が営まれて初めてそれは住居とよびうる存在となるのである。また、人間の手がほとんど加わっていない洞窟(どうくつ)などの自然物を利用して、その中で人間が生活するような場合にも、住居ということばを用いることができる。すなわち、人間が手を加えるか加えないかにかかわらず、ある一定の空間を、人間が生活を営む場として利用するとき、それが住居とよばれるのである。
[栗田博之]
住居が人間生活に対して果たすもっとも基本的な機能は、人間生活を外界から保護するというシェルターとしての役割である。住居によって人間は雨や風、暑さや寒さなどの自然の力から保護され、さまざまな行為を円滑に進めることができる。また、これらの自然力のほかにも、外界には猛獣、毒をもった動物、敵対関係にある人間などが存在し、住居はこれらの外敵からも人間を保護してくれる。このシェルター(避難所)としての役割のほかにも、社会生活を営む場としての役割、儀礼的・宗教的な役割など、住居はさまざまな機能をあわせもっているが、住居がどのような機能を果たしているかは、社会ごとに、また地域ごとに異なっている。
これと同様に、住居内で行われる人間の行為も多種多様である。睡眠や休息を住居内でとるというのは、かなり一般的な現象である。また、食物の調理、食事、性交、排泄(はいせつ)、育児、所有物の保持などの行為も住居内で行われることが多い。寝室、台所、食堂、便所、倉庫など、ある行為が別の棟で行われるという、棟ごとに機能が分化している場合もしばしばみられるが、これは、住居と家屋とはいちおう別のものであるという点を考慮すれば、一つの家屋内で室ごとに機能が分化しているという場合と大差なく、それらの棟をまとめて一つの住居であると考えればよい。このほかにも、さまざまな行為が住居内で行われるが、どの行為が住居内で行われるかは、やはり社会ごとに、また地域ごとに異なっている。
以上から明らかなように、住居という概念を厳密に定義することは非常にむずかしい。ある一つの機能、あるいはある一つの行為を取り出して、そこから住居を定義することはできないのである。住居というものを、いちおう建物と切り離して、一種の空間概念としてとらえるほうが適切であろうが、やはりその概念自体もあいまいなものとしてとどまってしまうのである。
[栗田博之]
シェルターとしての住居の機能に注目すると、住居の形態と自然環境の間には密接な関連がみられる。寒冷な地域では、暖房を用いて室温を上げ、さらに保温性を高めることが必要となる。暖房方法としては、炉(ろ)を用いたりして室内で火を焚(た)く方法が一般的であるが、朝鮮のオンドルなどの床下暖房や、ロシアのペチカなどの壁面暖房などもみられる。また、保温性を高めるためには、竪穴(たてあな)住居のような半地下式住居を用いたり、壁面や屋根の部分を密閉したりする方法などが用いられる。エスキモーのイグルーとよばれる、凍結した雪を用いた住居の場合、保温性が非常に高く、北極圏周辺の気候にみごとに適応している。シベリアや北西アメリカにみられる半地下式住居の場合も、地上部を土で密閉することによって保温性を高めている。
これに対し、熱帯周辺地域では、いかに室温を下げるかが問題となる。一般的にみられるのは、住居内の通風性を高めるという方法である。壁面のすきまを利用して通風性を高める場合が多いが、東南アジアからメラネシアにかけてみられる杭上(こうじょう)住居では、床面を地表面から離すことによって、よりいっそうの通風性が確保されている。この開放性の住居とは逆に、熱い外気の侵入や影響を避けるために、閉鎖性を高めるという方法が採用されることもある。厚い土壁や日干しれんがの壁を用いた閉鎖性の高い住居が西南アジアや北アフリカにみられるのは、このためである。
一方、降水量も住居形態にさまざまな影響を与える。多雨地帯では、傾斜屋根を用いて、室内への雨の侵入を防ぐ。また、地表面からの雨水の侵入を防ぐために、住居の入口に框(かまち)を設けたり、高床(たかゆか)式住居や杭上住居を用いたりする。逆に、少雨地帯、乾燥地帯では、簡素な屋根あるいは平屋根などで十分である。また、多雪地帯では、積雪の重みに耐えうるような構造の住居が発達し、急傾斜の屋根によって積雪を防いだりしている。
自然環境は住居の形態に影響を与えるだけでなく、住居の材料を提供するものでもあり、どのような素材が入手可能かによって、住居の形態は変化してくる。乾燥地帯など、木材の入手が困難な地域では、土や日干しれんが、石材などが利用される。エスキモーのイグルーの場合には、凍結した雪が利用される。木材など植物の利用に関しても、針葉樹などの直材が利用可能な地域と、低灌木(ていかんぼく)などしか利用できない地域とでは、当然住居の形態も異なってくる。このほか、動物の皮をテント式の住居に用いたり、牛糞(ぎゅうふん)などを土に混ぜて土壁に用いたり、草や藁(わら)、ヤシの葉などを屋根材として用いたりするなど、さまざまなものが材料として用いられている。
[栗田博之]
以上のように、自然環境が住居の形態に大きな影響を与えていることは明らかではあるが、けっして自然環境が住居の形態を決定しているわけではない。同じような自然環境のなかで生活している場合にも、生業形態が異なったり、文化が異なったりするために、住居の形態が異なっているという例が世界各地にみられる。材料に関しても、人々のもつテクノロジー(技術)によって、どのような素材が利用できるかが異なってくるし、また、同じ材料を利用したとしても、テクノロジーによって、住居の形態は異なってくる。したがって、住居の形態に関する単純な環境決定論は成立しない。住居の問題は文化の問題でもあるのである。
[栗田博之]
まず、住居の形態は生業形態と関連している。狩猟採集民、遊牧民など、移動生活を行う場合には、住居もその移動生活に適したものでなければならない。アフリカのサン人、東南アジアのネグリト、オーストラリア先住民などの住居は、単なる風よけにすぎないようなものであり、移動先で短時間のうちにつくることができ、次に移動する際にはそのまま放置しておくような使い捨ての住居である。
組立て・解体の容易なテント式の住居も、移動生活を営む人々によってしばしば用いられる。シベリアの狩猟民が用いるチュム、北アメリカの採集狩猟に従事する先住民の用いるティピは、円錐(えんすい)形の小型のテントであり、動物の皮などがテント地として用いられる。また、屋根と壁面からなるテントは、シベリア、モンゴル、中央アジア、西アジア、北アフリカの遊牧民の間で用いられており、動物の皮のほか、布地などをテント地として用いる。中国でパオ、モンゴルでゲル、シベリアでユルトとよばれるものが、この型のテントである。
一方、定住度の高い農耕民の場合には、より固定的な住居が一般に用いられている。焼畑農耕の場合、多少移動性がかかわってくるが、移動周期は比較的長く、やはり住居は固定的である。漁労に従事する人々の場合は、ほぼ狩猟採集民の場合に準ずるが、船を利用した漁労の場合には、船自体が住居の役割を果たすこともある。また、ペルーのティティカカ湖では、漁労に従事するインディオが葦(あし)でつくった浮き島の上に居住しており、ときには浮き島ごと移動することもある。このほか、東南アジアやメラネシア、南アメリカでは、水上に杭上住居を建てる例がみられるが、これらの人々はかならずしも漁労をおもな生業としているわけではない。
[栗田博之]
住居の形態は、また、社会構造とも密接に関連している。一つの住居に一家族が居住するという場合が一般的ではあるが、単に家族といっても、核家族以外に、直系家族、拡大家族、合同家族、複婚家族などがあり、どのような親族が一つの住居を共有するかは、社会ごとに異なっている。また、これには、単系社会であるか、双系社会であるかも深く関係している。非親族成員が同居する場合もしばしばみられるし、一家族が複数の住居に分かれて住むこともある。東南アジア、メラネシア、北アメリカなどでみられるロングハウスという住居形態では、一つの長大な家屋の中に多数の家族が居住する。一つの住居にさまざまな親族成員や非親族成員が居住している場合には、住居内の空間がどのように分割されているか、どの部分が共有され、どの部分がだれに専有されているかを考えなければならない。しばしば、住居内が大きく核家族ごとの空間に分割されていることがある。また、男女の分離が明確な社会では、住居内が男性の空間と女性の空間に分割されていることもある。これがさらに進んで、男性は男性の家に、女性は女性の家に住むという場合も多く、一夫多妻婚がみられる社会では、夫は男性の家に、妻は各自の女の家に住むという場合もある。また、男性は共同で一つの男性の家に、女性は、より小さな女性の家に住むという例もみられる。年齢集団の組織が発達した社会では、たとえば若者宿や娘宿のように、一つの年齢集団が一つの住居を共有するという場合もある。これらさまざまな例が示すように、住居を一つ一つ孤立したものとして扱うだけでは十分でない場合も多い。アフリカのコンパウンドのように、一敷地内にある複数の家屋が有機的に結び付いている場合があるし、1村落1ロングハウスというような例もあり、家族、親族集団、村落、地縁集団など、人間集団と居住空間の関係を考えなければ、さまざまな住居の形態を理解することはできないのである。
[栗田博之]
住居は、また宗教や儀礼と結び付いている場合が多い。住居が儀礼の場となったり、住居内に祭壇などが置かれたりする例は、世界各地にみられる。また、住居の位置が宗教的な意味から決定されることも多い。東西南北、海と山、上流と下流など、住居の向きを方位によって定めるということも、バリ島をはじめとして、世界各地で行われている。また、住居内の空間の分割が、聖と俗、清浄と穢(けが)れ、右と左、上と下などのシンボリズムと結び付いている例も多い。このほか、東インドネシアの一部で、住居が母胎と同一視されるように、住居が身体のイメージで語られたり、住居が小宇宙と考えられたりするなど、住居が世界観や宇宙論と結び付くという現象も広くみられる。
なお、西洋、日本の住宅の歴史、現代の住宅建築に関する諸事項については、「住宅」の項目を参照されたい。
[栗田博之]
『石毛直道著『住居空間の人類学』(1972・鹿島研究所出版会)』▽『泉靖一編『住まいの原型Ⅰ』(1971・鹿島研究所出版会)』▽『吉阪隆正他著『住まいの原型Ⅱ』(1973・鹿島研究所出版会)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…住居は人間の生存と生活の基盤であり,生命の安全と健康と人間の尊厳を守り,家庭生活の器として市民をはぐくみ,まちと文化をつくる最も基本的な人間環境であり,社会の基礎単位である。住居は都市の構成要素であるから,低質住宅の集積は不良都市形成の原因となる。…
※「住居」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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