世久見浦(読み)せくみうら

日本歴史地名大系 「世久見浦」の解説

世久見浦
せくみうら

[現在地名]三方町世久見

常神つねかみ半島の西岸西にし浦とよび、六浦があるが、その最南端に位置し、諸浦間は舟で結ばれた。平安時代に向笠むかさからの移住者で開かれたと伝え、中世以来漁業を行うほか、南の枝村食見しきみ耕地を有して農業も営んだ。食見は漁業権をもたず、林業や桐実栽培・製塩を行った。寛文年間(一六六一―七三)の世久見浦庄屋市郎左衛門指上申一札写(渡辺家文書)に「当浦者、いにし能登浦と申儀、則当浦之まへニ烏辺島と申島御座候、其わきニわかめくりと申岩御座候、其所へほこら一社なかれ来り御座候迄、(中略)其より此浦へくわんしやう仕、於于今、当浦ニ御座候、則能登之国石動大明神之御神体にて御座候と申、其より能登浦と申由承伝申候、其以後何時分か世久見浦と申来候」と記し、古くは能登のと浦といった。戦国期以降の史料には世久見と出る。

寛治元年(一〇八七)二月九日付能登浦四至差定状(渡辺家文書)は「能登浦領内之事」として四至を「東ハ坂古子タウケヨリ経塚定 南ハヨコ峯定 西ハ長峯ヲ下ニ水引谷定 (北ハ)カレイ引ヲ定也」と記す。文永二年(一二六五)の若狭国惣田数帳写には「能登浦「国領」(朱書)三町四反除承元利田五反七十五歩定」とみえ、「即浦壱町三反不二百四十歩 三方郷二町壱反」と内訳を記す。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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