六浦(読み)むつら

精選版 日本国語大辞典 「六浦」の意味・読み・例文・類語

むつら【六浦・六連】

  1. [ 一 ] 神奈川県横浜市金沢区一帯の古称。三浦半島東側の基部にあり、鎌倉市東部に隣接する。景勝地として知られた。
  2. [ 二 ] ( 六浦 ) 謡曲。三番目物。各流。作者未詳。都の僧が相模国六浦の称名寺に立ち寄り、寺の庭の一本の楓(かえで)だけが紅葉していないのを見て不思議に思う。折から通りかかった女に訳を尋ねると、女は昔鎌倉中納言為相(ためすけ)卿がこの寺に来た時、この木が山の木々に先だって紅葉しているのを見て一首の和歌をよんだところ、木は喜んで功成り名とげた上は身を退くべきだと信じ、以来紅葉しなくなったと語り、自分が楓の精だと名乗って姿を消す。その夜楓の精が現われて、草木国土悉皆成仏の徳をたたえて舞を舞う。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「六浦」の意味・わかりやすい解説

六浦
むつら

横浜市金沢区(かなざわく)一帯の古称。近世以降に金沢八景と謳(うた)われる景勝地の一画で、中世には武蔵国久良岐(くらき)郡に属し、六浦本郷・富岡郷・釜利谷(かまりや)郷・金沢郷からなる六浦荘が置かれた。1277年(建治3)頃までは仁和寺(にんなじ)勝宝院(しょうほういん)領で、以後、将軍家または得宗家(とくそうけ)が本家となり支配したとみられる。鎌倉の東の境界に相当し、中心部とは六浦道(朝比奈切通(あさひなきりどおし))で連絡した。和賀江島(わかえじま)とならぶ鎌倉の外港、六浦津内海(うちうみ)(現東京湾)沿岸部や旧利根川水系を介した船での往来、諸物資の揚陸地(ようりくち)として機能し、鎌倉幕府や鎌倉の消費を支え、得宗一族金沢氏が建立した称名寺(しょうみょうじ)をめぐる輸送、幕府滅亡後には荘域を支配した鎌倉府・上杉氏・近隣寺社の輸送などにも利用され、南北朝期には問(とい)があった。海に臨む丘陵部にはかつてやぐら墳墓)が点在し、浄願寺ほか、諸宗派寺院が建ち並ぶ中世の霊場であったとみられる。

[綿貫友子]

『石井進著「中世六浦の歴史」(三浦古文化研究会編『三浦古文化40』所収・1986・京浜急行電鉄)』『山田邦明著「南北朝・室町期の六浦」(『六浦文化研究3』所収・1991・六浦文化研究所)』『湯山学著「仁和寺子院勝宝院と武蔵国六浦庄」(『六浦文化研究7』所収・1997・六浦文化研究所)』『西岡芳文著「中世の六浦と上行寺東遺跡」(『神奈川地域史研究26』所収・2008・神奈川地域史研究会)』『『横浜開港150周年記念企画展 中世の港湾都市六浦』(2009・神奈川県立金沢文庫)』

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改訂新版 世界大百科事典 「六浦」の意味・わかりやすい解説

六浦 (むつら)

横浜市金沢区の一部。古くは六連,六面とも記した。現在は〈むつうら〉とよむ。鎌倉時代は北条氏の一門金沢(かねさわ)氏の所領があり,武蔵国久良岐郡六浦荘に属し,六浦郷があった。現在の京浜急行金沢八景駅周辺から鎌倉市との境である朝比奈町付近までを含めた地域と考えられる。江戸時代の天保年間(1830-44)では寺分・社家分・平分の3村を六浦といった。

 鎌倉時代は鎌倉の東の境域外とされ,からめ手の地にあったので重要視された。またここは房総半島との交通の要地にあたり,良港六浦の津があり,鎌倉の外港としての役目を果たした。周囲は風光明美であったので,しばしば将軍家の来遊があった。《沙石集》の著者無住もここから上総へと渡っている。鎌倉幕府が一族の金沢氏を配置しここを守らせたのは当然のことと思われる。なお1241年(仁治2)には執権北条泰時がみずから指揮をして朝比奈切通しを開通させ,鎌倉との交通をいっそう至便なものとした。また鎌倉時代より製塩地として知られ,江戸時代も盛んに生産されて明治時代まで続いた。1722年(享保7)米倉氏1万2000石(金沢藩,のち六浦藩)の陣屋が置かれ,1871年(明治4)7月廃藩置県の公布により六浦藩が六浦県となったが,まもなく神奈川県に編入された。1978年住居表示施行に伴い六浦町,釜利谷町の一部より六浦(1丁目~4丁目)が新設された。
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百科事典マイペディア 「六浦」の意味・わかりやすい解説

六浦【むつら】

神奈川県横浜市(武蔵国南端部)金沢区の地名。古くは六連・六面とも書いて金沢区一帯をさした。現在は〈むつうら〉という。平安末期に六浦荘がおかれ,鎌倉期は和田氏,北条一門の金沢(かねさわ)氏が支配,鎌倉幕府滅亡後は足利氏の所領となる。房総半島との水運の要地である六浦津(港)は中世に栄え,港を見下ろす位置にあった上行寺東遺跡(宅地建設で破壊)の〈やぐら〉と呼ばれた横穴の墳墓などから往時の繁栄や景観がしのばれた。鎌倉期には金沢文庫も創建。江戸時代には,1722年から明治初年まで米倉氏1万2000石(六浦藩)の陣屋が六浦社家分村に置かれた。

六浦【むつうら】

六浦(むつら)

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世界大百科事典(旧版)内の六浦の言及

【六浦】より

…現在は〈むつうら〉とよむ。鎌倉時代は北条氏の一門金沢(かねさわ)氏の所領があり,武蔵国久良岐郡六浦荘に属し,六浦郷があった。現在の京浜急行金沢八景駅周辺から鎌倉市との境である朝比奈町付近までを含めた地域と考えられる。…

【鎌倉[市]】より

…以後,鎌倉幕府が所在する東国の政治的中心として目ざましい発展をとげ,中世を代表する都市の一つとなった。 都市としての鎌倉の範囲は,13世紀前半に四境とよばれた境界外の地点が東は六浦,南は小坪(小壺),西は稲村(あるいは片瀬),北は山ノ内とされているから,ほぼ推察がつく。すなわち鎌倉七口と総称される切通し,それに稲村崎越と小坪道など,東・北・西の三方を囲む丘陵を越える峠道によって区切られる地域が鎌倉なのである。…

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