世田米村(読み)せたまいむら

日本歴史地名大系 「世田米村」の解説

世田米村
せたまいむら

[現在地名]住田町世田米

現住田町の南半を占め、東は日頃市ひころいち(現大船渡市)、南は横田よこた(現陸前高田市)、北は盛岡藩領閉伊へい小友おとも(現遠野市)。東流する大股おおまた川が北から流れる有住ありす川を合せて気仙川となり、中心集落の西方清水沢しみずさわ付近で流れを南へ転じる。川沿いにさかり街道が走る。「源平盛衰記」巻一一(育王山送金事)平重盛が奥州知行のとき気仙郡からの産出金一千三〇〇両を大唐に送ろうとしたとあり、この金の産出地の一は世田米の諸金山とも伝えられる。天正一五年(一五八七)と推定される一〇月二六日付葛西晴信書状(宝翰類聚)に「世田米」とみえる。

正保郷帳には世田米宿とあり、田六貫三五文・畑八九貫二五七文、ほかに新田三貫一一四文、雑木山がある。正保国絵図には当村のほか、小又こまたが描かれている。気仙川沿いのもと町・世田米駅せたまいえき一帯は盛街道の宿駅で、町並を形成している。寛永一〇年(一六三三)奥羽を巡った幕府巡見使一行は口沢くちざわ(現江刺市)で昼休みののち世田米に入り一泊、翌日盛(現大船渡市)へ向かった(「石母田安頼書状」伊達家文書)。元禄一一年(一六九八)の「気仙郡古記」では世田米町の軒数六〇、町の長さ三町三八間、市日は三日・一三日・二三日とみえる。同年の「仙台領道程記」によれば、今泉いまいずみ宿(現陸前高田市)からは四里一九町四一間、上有住宿へは二里一三町四五間、西の小股こまたまでは二里二町。宝永二年(一七〇五)人数改によれば人数二千六三六、鉄砲数五七(気仙史料)。「封内風土記」の家数約四一三、大股・小股・川口かわぐち小府金こふがね中沢なかざわ長府金ながふがね田畑たばたの小名を記す。囲蔵三棟があった。町並は数度の火災にあっており、享保五年(一七二〇)四月には一二二戸、元文二年(一七三七)一〇月には一三〇戸、天保三年(一八三二)には宿駅全部、文久二年(一八六二)一月には六五戸が焼失した(世田米町史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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