中原章賢

山川 日本史小辞典 改訂新版 「中原章賢」の解説

中原章賢
なかはらのりかた

生没年不詳。鎌倉末~南北朝期の明法(みょうぼう)家。章継の子。出家して是円房道昭と称す。建武政府雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)に登用されたが,その瓦解後は足利尊氏に従った。公家法にも武家法にも通暁し,「御成敗式目」に注釈を加えた「是円抄」を著したが,現在散逸。1336年(建武3・延元元)尊氏の諮問に答えるかたちで弟の真恵とともに「建武式目」を提出。なお是円房道昭の俗名を二階堂道昭,法名とあわせて二階堂是円とする説があったが,誤りである。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「中原章賢」の解説

中原章賢 なかはらの-のりかた

?-? 鎌倉-南北朝時代官吏
明法(みょうぼう)家で公家(くげ)法と武家法に通じ,「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」の注釈書「是円抄」をあらわす。建武(けんむ)新政府の雑訴(ざっそ)決断所結番交名(けつばんきょうみょう)に名があり,建武政府解体後の建武3=延元元年(1336)弟真恵とともに足利尊氏の諮問にこたえ「建武式目」を提出した。法名は是円房道昭。名は「あきかた」ともよむ。

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旺文社日本史事典 三訂版 「中原章賢」の解説

中原章賢
なかはらのりかた

生没年不詳
鎌倉末期・南北朝時代の武将
出家して是円房道昭と称した。明法家。建武政権の雑訴決断所職員に用いられ,また足利尊氏の諮問に対し,1336年弟の真恵とともに建武式目17条を答申した。

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