建武政府の訴訟機関。1333年(元弘3)5月に鎌倉幕府が倒れたのち後醍醐天皇による公武一統の政治が開始されると,増加の一途をたどる所領関係の訴訟(これを公家側では雑訴と称した)を所轄する官衙として,記録所とは別に雑訴決断所が創設された。略して単に決断所ともいう。《梅松論》のいう〈先代引付のたつ所〉とは決断所が鎌倉幕府の引付方と機能的に類似したことを意味する。決断所の編成については《太平記》に3番制と記されているが確証がなく,ふつう《比志島文書》に収める4番制の結番交名(きようみよう)(一部破損)をもって創設期の形態とみなしている。その成立時期は33年9月をさほどさかのぼらないころと考えられ,約70名の職員をそれぞれ担当地域を定めた四つの班に配属させる形式をとっている。翌34年(建武1)8月には8番制総員107名へと拡張され,官衙としての権限が強化されるなど,訴訟機関としての整備・充実をみた。決断所の職員は〈才学優長ノ卿相・雲客・紀伝・明法・外記・官人〉(《太平記》)を寄せ集めたもので,その出身階層についてみれば,公家出身者では大納言以上の上流廷臣から法曹吏僚までをあらかた含み,武家出身者では旧幕府下の多数の奉行人,守護級の武士,足利尊氏の被官などを組み入れた大所帯であった。《二条河原落書》が〈器用堪否沙汰モナク,モルヽ人ナキ決断所〉と酷評したゆえんである。〈郁芳門(大内裏外郭東面の南端の門)ノ左右ノ脇〉(《太平記》)に設置されたので,これを南・北決断所と称した。決断所の所轄事項や訴訟手続については《建武年間記》に規定があり,それによって決断所の展開過程をうかがうことができる。
決断所の判決は牒と下文(下文の残存例は少ない)で出されたが,現在,元弘3年10月8日付牒(《島田文書》)より建武2年12月10日付牒(《松浦山代文書》)に至るまで,2年余の間に発給された約120通の牒・下文を確認することができる。それらの内容は次の四つに分類される。(1)所領関係訴訟の裁許(おもに寺社権門領に対する濫妨行為の停止),(2)地頭御家人層の所領安堵,(3)綸旨の施行,(4)訴訟進行上の手続(召喚,論所点置,事情聴取)。決断所の機能は(1)(2)を基調とし,権限の強化とともに(3)が付加された。また(3)は新政府成立直後に乱発された後醍醐天皇の綸旨を整理する目的をもつと考えられる。《建武年間記》は35年3月ころの成立と思われる4番制20名からなる伝奏結番交名をのせるが,これらの伝奏たちは天皇に奏事を伝えるという任務をとおして,決断所の運営を天皇に引き寄せる役割を果たしたと考えられる。同年7月いわゆる中先代の乱が起こり,足利尊氏はこの乱の鎮定のために鎌倉へ下向したが,ついに11月尊氏が建武政府から離脱するや,決断所の運営は急速に衰退した。南北朝時代にはいると,決断所機構の基盤を担った奉行人たちは多く北朝,室町幕府の体制下に流れこみ,その訴訟制度の担い手となった。
執筆者:森 茂暁
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建武政権に設けられた,所領に関する訴訟を審議し決定を下す機関。所領紛争の訴訟,年貢訴訟,本領安堵などを扱った。1333年(元弘3)9月頃,訴訟の増大に対応して発足。後醍醐天皇の綸旨(りんじ)万能主義の修正である反面,天皇の親政を支える重要な柱となった。当初は地域を分担する4番制で,公卿から実務的な下級貴族,鎌倉幕府の官僚,奉行人までの約70人の構成。1年後に8番制,100人余に拡大され,さまざまな勢力をとりこむ一方,各番の頭人は多く恩賞方の頭人を兼任するなど実務性を高めた。裁許などの決定・命令は,おもに牒(ちょう)の形式で伝えられ,120通余が伝わる。決断所に関する規定は「建武記」に数例みえる。35年(建武2)の足利尊氏の離反とともに,活動は衰退。決断所は鎌倉幕府の引付の機能を継承し,構成員から室町幕府の奉行人となる例があるなど,両幕府の訴訟機関の接点でもあった。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
1333年(元弘3)建武(けんむ)新政府発足後まもなく設置された訴訟機関。同じころ設置された記録所が大事を裁決するのに対して一般訴訟を扱った。鎌倉幕府の引付(ひきつけ)に相当し、旧幕府の職員も採用された。機構は初め3番に分け、のち拡張して8番とし、五畿(ごき)七道の訴訟を分掌した。各番の長を頭人(とうにん)、所員を寄人(よりゅうど)といい、当時の公家(くげ)・武家のおもな人々を網羅していた。役所は大内裏(だいだいり)郁芳(いくほう)門の左右にあって南北決断所と称した。34年(建武1)その権限を明確にし、領家・地頭間の紛争や年貢、本領安堵(あんど)に関することを扱った。同一訴訟を記録所と重複して扱うなどの混乱もあり、35年足利尊氏(あしかがたかうじ)挙兵後は機能を失った。
[阿部 猛]
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[後醍醐朝の記録所]
こうして院政下では文殿,親政下では記録所と機能が分化移行するようになり,1321年(元亨1)後醍醐天皇が親政を開始するや,早速記録所を設置し,訴訟を裁断した。ついで33年(元弘3)鎌倉幕府が滅亡すると,天皇は恩賞方や雑訴決断所を新設し,従来量的にも記録所の職務に大きな部分を占めていた雑訴をこれに移し,記録所は訴訟のうちでも寺社・権門にかかわる大事のみを取り扱い,中央政府のなかに中心的な機関の地位を占めた。そして建武政府の倒壊後,北朝では院政が復活し,文殿が活動する一方,記録所の名称は近世初頭の内裏まで存続したが,その間実質的な機能を急速に失っていった。…
※「雑訴決断所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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