改訂新版 世界大百科事典 「公家法」の意味・わかりやすい解説
公家法 (くげほう)
中世社会においては,支配権力の分立傾向がいちじるしかった。これに対応して,旧律令国家の系譜をひく王朝権力全体においては公家法,王朝権力を構成する個々の荘園領主権力とくに寺社領荘園においては本所法(ほんじよほう),新たに勃興した武家権力においては武家法が,それぞれの支配を支える法規範・法秩序として存在した。
公家法は,大陸からの継受法たる律令の変質・再編と旧来の在地固有法の変質・吸収,この両者の融合によって形成された。すなわち,公家法の形成は,法の側面における“国風化”の産物ともいえる。日本の律令は大宝律令,養老律令の編纂によって完成したが,その実際の運用にあたっては固有法の影響が少なくなかった。8世紀中葉から9世紀中葉にかけて,《令集解(りようのしゆうげ)》に収録・集大成された諸書や《令義解(りようのぎげ)》など,律令の注釈書が数多くあらわされた。また,8世紀末から10世紀初期にかけて,律令の修正・施行細則たる格式が相ついで公布された。これらの注釈書編纂や格式公布を通じて,律令は徐々に変容をとげていった。また,9世紀初頭に設置された検非違使庁においては,おもに刑事・警察の面で,独自の慣行法たる庁例が形成された。
このような前提のもとに,公家法の成立にとって重要な画期となったのは院政期であった。すでに11世紀を通じて,社会経済的な面における中世的体制が確立しつつあったが,このような社会的現実に対応し,中世的社会体制に照応した法体系となったのが,12世紀に成った法書《法曹(ほつそう)至要抄》であった。同書は全177条から成り,その法規は刑事,民事(所有権・相続・婚姻・奴婢・売買貸借等),諸種の禁制等にわたるが,これらの法規は,当時の裁判の中で規範的機能を有した。さらに,12世紀後半に相ついで公布された公家新制は,内容上朝儀振興,過差(かさ)禁制,荘園整理などに主眼があり,官僚制の再編,土地領有権の政策的確定などの機能を有した。中世初期の公家法は,この公家新制と《法曹至要抄》との有機的連関としてとらえられる。個々の荘園領主の本所法はもとより,武家権力の最初の成文法たる《御成敗式目》も,かかる公家法の強い影響のもとに形成された。この意味で,中世初期の公家法は,本所法・武家法等の共通の母体となった。しかし,承久の乱を契機として公武の力関係が変化すると,公家法の位置にも変化が生じた。すなわち,これ以後も公家法は一面で国家法的性格をもち続けたが,現実にはその機能は王朝権力の政治的支配の範囲内に限られ,形式化し衰微していった。このような中で,鎌倉末期には,整備・確立を遂げた幕府訴訟制度の影響をうけて,公家の訴訟制度が改革・整備されるという逆流現象も生じた。室町期に入ると,公家文化全般と同様に,公家法もまた有職(ゆうそく)故実の家学と化してしまい,現実的影響力を失っていった。
→新制 →律令格式
執筆者:棚橋 光男
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報