日本大百科全書(ニッポニカ) 「中央アジア美術」の意味・わかりやすい解説
中央アジア美術
ちゅうおうあじあびじゅつ
中国人によって、かつては西域(せいいき)とよばれていたアジア大陸中央部の美術。地理的にパミール高原によって東西に2分され、東トルキスタン(現、中国新疆(しんきょう)ウイグル自治区)、西トルキスタン(キルギス、タジキスタン、ウズベキスタン、トルクメニスタン、カザフスタンの5か国)とよばれたが、ここでもこの区分に従って考察する。
これらの地域は、中国、インド、イランという大文明圏に囲まれた、内陸性の気候を強く示す乾燥地帯であり、オアシス都市を結ぶ天山北路と南路(いわゆるシルク・ロード)が通商路や文化伝播(でんぱ)の道となったために、オアシス都市にもこれらの諸文化が混合した独特な文化が栄えていた。しかし長い年月の間に、これらの都市の城、寺院、墳墓は廃墟(はいきょ)と化していたが、19世紀末にこの地域に対する地理的、考古学的関心が高まり、種々の調査や発掘が行われるようになった。とくに当初関心を集めたのは東トルキスタンの地域で、20世紀初頭までにロシアのプルジェバリスキー、クレメンツ、ベレゾフスキー兄弟、オルデンブルグ、スウェーデンのヘディン、イギリスのスタイン、ドイツのグリュンウェーデル、ル・コック、フランスのペリオ、日本の大谷(おおたに)探検隊などが競って調査を行い、収集品を各国に持ち帰った。それらは現在、サンクト・ペテルブルグのエルミタージュ美術館、ストックホルムの国立民族学博物館、ロンドンの大英博物館、ニュー・デリーのインド国立博物館、ベルリン国立インド美術館、パリのギメ国立東洋美術館、東京国立博物館、韓国の国立中央博物館などに収蔵されている。東トルキスタンの調査はこれら外国人によって先鞭(せんべん)をつけられたが、1927年から35年にかけてヘディンが組織した西北科学考査団には黄文弼(こうぶんひつ)ら中国の研究者も参加し、第二次世界大戦後に中華人民共和国が成立してからは、新疆ウイグル自治区博物館や新疆ウイグル自治区文物管理委員会などが中心となって、この地域の発掘調査を継続しており、最近はその調査、研究の成果が相次いで公表されている。また西トルキスタンの地域では、1930年ごろからソ連のグリャズノフ、ヤクボフスキー、マッソン、トルストフらによって組織的な考古学的調査が行われるようになった。発掘品はエルミタージュ美術館や現地の博物館などに収められている。
新しい調査報告書が多く刊行されるとともに、最近は、かつてヨーロッパや日本の探検隊がもち帰った作品についても再度着目されるようになり、詳細なデータや細密な写真を付した報告書やカタログが多く出版されるようになった。また20世紀の初めに刊行された報告書類の復刻も相次いでいる。さらに、この地域の遺跡の保存についての研究が盛んになり、中国、日本、アメリカ、ドイツなどによる共同研究、国際討論会が活発に行われている。
[中野照男]
建築
西トルキスタンでは、初期パルティアの王城址(し)ニサ、ホラズム王国の都城址コイ・クリルガン・カラ、初期クシャン朝時代の都城址ハルチャヤン、3世紀初期にホラズムの主都となった都城址トプラク・カラ、ソグド人の都城址ピャンジケントなどが発掘されている。それぞれ周囲に防壁や塔を巡らし、その中に宮殿や神殿、霊廟(れいびょう)、住居を配していた。西トルキスタンの仏教遺跡は、目下、カラ・テペ、ファヤズ・テペ、アイルタム、ダルベルジン・テペ、アジナ・テペ、カライ・カフィルニガンなどにみいだされている。このうちカラ・テペには、西トルキスタン唯一の石窟(せっくつ)寺院址があり、他の多くは地上に建てられたストゥーパ、僧院、住居などからなっている。
東トルキスタンには、タクリマカン砂漠の南縁に城址や地上に建てられた寺院址が多く、北縁には石窟寺院が多い。地上に建てられた寺院は、日干しれんがや木材などによって構築されている。たとえばミーランの寺院址では、円塔形のストゥーパの周りに回廊があり、さらにその周りを方形の外壁が取り囲む構造である。ラワク寺院址は、四面斗出(としゅつ)形の基壇をもつストゥーパを方形の周壁が囲む構造である。石窟寺院は、基本的にはインドの石窟寺院にみられるチャイティヤ窟とビハーラ窟の形式を踏襲している。しかし、チャイティヤ窟と違って窟内に仏塔はなく、そのかわりに奥壁に方形の柱体(中心柱)を掘り残し、その周りに回廊を巡らす方柱窟(中心柱窟)にかわっている。方柱には仏像を安置する龕(がん)がつくられ、仏塔崇拝から仏像崇拝へと変わっていることがわかる。タクリマカン砂漠北縁には、地上の寺院の遺構も少なくない。とくにヤール・ホト(交河故城)、カラ・ホージョ(高昌故城)には、大塔の四方にそれぞれ25基ずつの奉献塔を配した構造のものなど、複雑な構造をもったものが多い。
[中野照男]
絵画
絵画遺品のうち、もっとも数多く残るものは壁画である。壁画は、岩壁や煉瓦壁を平らに仕上げたのち、植物繊維や動物繊維を混ぜた土を塗り、さらにその上にしっくいをかけて、この上に描かれている。西トルキスタンでは、仏教的な題材を描いた壁画は、2~4世紀のものがカラ・テペ、ファヤズ・テペ、ダルベルジン・テペの寺院址から、7~8世紀のものがアジナ・テペ、カライ・カフィルニガンなどの寺院址から発見されている。また世俗的な内容や他の宗教的な内容をもった壁画がピャンジケント、バラフシャ、アフラシアブなどの宮殿址、神殿址にみいだされているが、これらはみな7~8世紀のものと考えられている。
東トルキスタンで発見された壁画の大部分は仏教絵画で、キジルやベゼクリクのように石窟寺院の壁面を飾っていたもの、あるいはミーランのようにストゥーパを取り巻く通廊の腰板などを飾っていたものである。3世紀ごろの制作と考えられるミーランの壁画の題材は、仏伝図や本生図、供養天人などであるが、その様式的な特徴は、ファヤズ・テペなど西トルキスタンのクシャン期の壁画と似ている。ホータン近辺のファルハード・ベーク・ヤイラキやバラワステからは、6世紀ごろと考えられる毘盧遮那(びるしゃな)仏や訶梨帝母(かりていも)などのほか、密教的な図像も発見されている。
石窟寺院壁画の題材も仏伝図や本生図(ほんじょうず)、供養者像などである。東トルキスタン最大の石窟寺院址であるクチャ地域キジル石窟とクムトラ石窟を例にとれば、それらの壁画の様式は大きく三つに分けることができる。第一はガンダーラ美術と関連の深い様式、第二はインド、イランの美術と関連の深い様式、第三は中国的な様式である。第一の様式は500年ごろと推定され、適度に肥痩(ひそう)のある柔らかな線でのびやかな古典的な容貌(ようぼう)が描かれ、彩色は暖色系を主とした落ち着いた配色である。第二の様式はこの地域にもっとも多くみられるもので、600~650年ごろと推定され、肥痩の少ない硬い線で、表情に乏しい顔貌や、型を使ったと思われる類型的な姿態が繰り返し描かれる。彩色もラピスラズリの青、明るい緑色などを多用し、明暗、濃淡を強く対比させた配色である。強い隈(くま)やハイライトなどは中央アジア絵画一般の特徴ではあるが、この第二様式のものにその典型をみることができる。容貌や姿態、持ち物の表現にインドやイランの要素が多くみいだされ、様式的には7~8世紀の西トルキスタンの壁画と関係が深い。第三の様式は8~9世紀のクムトラ石窟壁画にみられ、「観経変相図(かんぎょうへんそうず)」「薬師(やくし)浄土図」など大乗教的な画題が中国絵画の様式で描かれている。トゥルファン地域のベセクリク石窟は様式的には中国絵画に近いが、ウイグル的な要素が顕著になり、8~9世紀ごろのものと推定されている。同時期のカラ・ホージョの地上の寺院址からは、マニ教や景教を題材とした壁画が発見されている。
壁画に比べると、板絵、絹絵、麻布(まふ)絵、紙絵は数が少ない。板絵は、7世紀ごろと推定されるものがホータンのダーンダーン・オイリクからみいだされており、土地の伝説などを題材としている。クチャ地域でも仏陀像を描いた板絵がみつかっており、これらは奉献用に用いられたと考えられる。絹絵は、8~9世紀ごろのものがカラ・ホージョ、トユクなどから、麻布絵、紙絵は同時期のカラ・ホージョから発見されており、マニ教徒を描いたものやマニ教の絵入り経典などが多い。アスターナの古墓からも、「伏羲女媧(ふくぎじょか)図」など宗教的題材のものと、「樹下人物図」など世俗的内容のものの両方が発見されている。
[中野照男]
彫塑
もっとも多く残っている彫塑作品は塑像で、これに比して木彫、石彫、鋳造の像はきわめて少ない。これは、この地域の自然環境を反映し、入手しやすい素材によって彫塑がつくられたためと考えられる。塑像は、木の枝や蘆(あし)などに縄を巻き付けて芯(しん)とし、これに動物繊維などを混ぜた土を盛り上げ、面部や腕などの細部はそれぞれ型でつくって張り付けたり、木釘(きくぎ)で留めたりする。この上にきめの細かい粘土をかぶせるか、あるいはさらにその上にしっくいを塗って、彩色を施している。西トルキスタンでは、ダルベルジン・テペやファヤズ・テペなどの寺院址から仏教的題材の塑像が多数発見されている。とくにアジナ・テペでは、長さ14メートルの塑造涅槃(ねはん)像もみいだされている。非仏教的な題材の塑像としては、1世紀ごろのハルチャヤン遺跡からヘラクレス像や王侯像の頭部などが出土している。東トルキスタンでは、ミーランやラワクから等身を超える巨大な塑造の仏像が発見されている。タクリマカン砂漠北縁の遺跡からも塑像は多数みいだされているが、トゥムシュクでは高浮彫りの塑像を寄せてパネルをつくり、仏教説話を表していた。
塑像は、石窟寺院においては、(1)奥壁などの龕(がん)に安置された礼拝像、(2)仏教説話を表す場面の登場人物として奥壁や天井に張り付けられた小像、(3)回廊奥壁に安置された涅槃像、(4)側壁の張り出し縁に据えられた供養天人像、(5)側壁などに並座または並立する仏像、などとして使用されている。したがって、その大きさはさまざまである。クムトラ石窟には、塑像の芯であった大きな石胎が奥壁に残っていた例もある。小さなテラコッタ像は、ホータン近辺のヨットカンから発見されており、これは陶製の壺(つぼ)などを飾っていたらしい。
この地域の木彫像はおおむね小さいものが多い。また彫刻を施された建築用、調度用の部材も多数みいだされている。
石彫像は、西トルキスタンのニサの遺跡から大理石像、アイルタムから石灰岩を刻んだ建築装飾の断片などが発見されている。木彫像は数が少ないうえ小像であることが多いが、精巧なものがローラン(楼蘭)、トゥムシュク、キジル、ショルチュク、カラ・ホージョ、トユクなどからみいだされている。鋳造の像としては、大谷探検隊がホータンから将来した金銅仏頭がもっとも精巧なもので、ほかに小さなブロンズ像が東西トルキスタンの各地から発見されている。
[中野照男]
工芸
陶器、木製品、漆器、染織品などがある。陶器は、ホータンの近辺から陶製の壺や甕(かめ)などが発見されており、これには先述のテラコッタ小像が貼(は)り付けられていた。木製品としては、ローランから彫刻を施した建築材がみつかっており、またトゥムシュクやクチャ(スバシ)から木製の舎利容器が多数みいだされている。あたかも帽子箱のように、円筒形の身と円錐(えんすい)形の蓋(ふた)をもち、大谷探検隊が将来し、現在東京国立博物館に保管されているこの形の舎利容器はもっとも精巧なものである。奏楽童子、仮面をつけた舞人、楽人などの絵で装飾されている。木製や陶製の同じ形をしたものがトゥムシュクから、また同形の漆器がミーランからみいだされている。
もっとも多く発見されているものは染織品であり、ローランの古墓からは、ヘルメス像を表した綴織(つづれおり)がみいだされた。近年、中国の調査によって、ニヤ、ローラン、とりわけアスターナの墳墓から、後漢(ごかん)から唐に至る時代の錦(にしき)、綾(あや)、綺(き)、紗(しゃ)、纐纈(こうけち)、毛織物が多数発見され、このなかには連珠文(れんじゅもん)錦も数多く含まれている。一方、西トルキスタンのソグド地方からは、ササン朝工芸の影響を強く受けた銀器など、金工品が多数発見されている。
[中野照男]
『L・I・アルバウム、B・ブレンチェス著、大林太良監訳『黄金の番人』(1983・泰流社)』▽『V・マッソン著、加藤九祚訳『埋もれたシルクロード』(岩波新書)』▽『新疆ウイグル自治区文物管理委員会他編『中国石窟 キジル石窟』全3巻(1983~1985・平凡社)』▽『新疆ウイグル自治区文物管理委員会他編『中国石窟 クムトラ石窟』(1985・平凡社)』▽『ロデリック・ウィットフィールド編『西域美術 大英博物館スタイン・コレクション3 染織・彫塑・壁画』(1984・講談社)』▽『ジャック・ジエス編集『西域美術 ギメ美術館ペリオ・コレクションⅡ』(1995・講談社)』▽『長澤和俊著『桜蘭王国史の研究』(1996・雄山閣出版)』