基本情報
正式名称=キルギス共和国Kyrgyz Respublikasy/Kyrgyz Republic
面積=19万9951km2
人口(2010)=519万人
首都=ビシケクBishke(旧称フルンゼ)(日本との時差=-4時間)
主要言語=キルギス語,ロシア語(ともに公用語)
通貨=ソムSom
中央アジア東部の共和国で,独立国家共同体(CIS)構成国の一つ。1993年5月の憲法改正で国名正称はキルギス共和国とされたが,キルギスタンと通称される。旧ソ連邦の構成国であったキルギス・ソビエト社会主義共和国が1991年独立し,改称したもの。この地域はキルギジアとも呼ばれ,その東部は中国の新疆ウイグル自治区と国境を接する。
自然,住民
国土の3分の2以上は,天山山脈とパミール高原の3000m以上の高地からなる。森林は国土のわずか3%にすぎず,残りは砂漠とステップの植物,あるいは高山・亜高山植物がわずかに生育する地域である。夏は乾燥し暖かく,冬は谷や山麓では比較的雨量もあり気温も高い。人口はチュー,タラス,イシク・クル,フェルガナの谷と低地に集中し,その民族別の構成(1989)は,キルギス人52.4%,ロシア人21.5%,ウズベク人12.9%,ウクライナ人2.5%などであり,中央アジア5ヵ国のなかではカザフスタンに次いで中心民族の比率が低い。
歴史
キルギスタンがロシアの一部となったのは19世紀の50~70年代のことである(それ以前の歴史は〈キルギス族〉〈中央アジア〉の項を参照)。すなわち,1863年にはキルギス人の大部分が住む北キルギスタンが,76年ホーカンド・ハーン国が廃された後まもなく南キルギスタンがロシアに含まれることになった。帝政ロシアは91年に遊牧地の国家的所有を宣言し,その最良の部分をロシア人移住民に分配した。第1次世界大戦下の1916年7月,原住諸民族を戦時後方作業へ徴集する勅令を契機として発生した中央アジア大反乱は,キルギスタンの多くの地区を巻き込んだ。
17年の二月革命後はキジル・キアなどいくつかの都市に労働者と兵士のソビエトが形成された。10月の段階では,北部ではチュー盆地の灌漑作業に従事する労働者が集中していたピシペク(現,ビシケク)が,南部ではキジル・キア,スリュクタ,コク・ヤンガクといった炭鉱地帯が革命的高揚の中心となった。スリュクタでは11月11日(新暦24日),キジル・キアでは11月末にソビエト政権が成立。さらに12月タラス盆地,18年1月オシ郡,2月ピシペク郡,4月ナリン,5~6月プルジェワリスク郡と続き,18年半ばには全土がソビエト政権の支配するところとなり,5月に成立したトルキスタン自治共和国の一部となった。
ソビエト政権は,移住民富農の土地の貧農への分配,炭鉱国有化,国民経済会議の創設などを行ったが,他方バイ(地主)やイスラムの指導者は18年春から夏に南部でバスマチ運動と呼ばれる農民の反ソビエト運動を組織し,破壊活動を行った。しかし,20年11月ナリンの大暴動のころを最後にバスマチ運動もほぼ鎮圧される。21-22年には反植民地主義的土地・水利改革が遂行され,約6000人の無土地・小土地農民が21万7000haの土地を受け取った。バスマチ運動が続いていた南部では27-28年,バイをなくすための土地・水利改革が激しい闘争を伴いつつ遂行され,そのなかで多妻制・カリム(婚約金)廃止など婦人の地位の向上を目ざす諸施策,遊牧民定住化などが実行に移された。これらの政策は30年代前半の農業の集団化期に引き継がれるが,遊牧民定住化は家畜の大量処分を引き起こし,28-34年に牛は41%に,ヤギ・羊は22.7%に減少した。工業化も開始され,28-40年に140の工業企業が操業を始め,40年の工業総生産は,13年の9.9倍となった。金属加工,石油,非鉄金属,製糖,食肉缶詰など新しい部門も生まれ,工業・農業国に変わった。キルギス人の工場労働者も養成され,39年にはキルギスタンの全労働者の17.9%に達した。
キルギスタンは,1924年の中央アジアにおける民族的境界画定によってロシア共和国のカラ・キルギス自治州となったが,25年キルギス自治州と改称した。そして26年2月には自治共和国になり,36年12月にはさらに共和国に昇格し,ソ連邦構成共和国となった。30年代後半には大粛清の嵐がキルギスタンをも襲い,第一書記アンモソフM.Ammosov,第二書記ベロツキーM.Belotskiiをはじめ多くの党員が犠牲となった。
産業
第2次大戦中,キルギスタンはタングステン,水銀,アンチモンの供給で軍事産業の一翼を担い,またソ連邦西部から多くの企業が疎開した。戦後は本格的な工業化が行われ,工作機械,農業機械,電気器具などの機械製作工業のほか,綿花精製,織物などの軽工業,食品工業も発展した。電力は豊富な水力資源を利用した水力発電が4分の1を占め,アラメディン,ウチクルガン,トクトグルなどの発電所が著名である。40年の発電量は5000万kWhにすぎなかったが,89年には151億kWhへと飛躍的に増大した。
農業生産も発展しているが,その特徴は播種面積のうち,多年生牧草とサイロ用トウモロコシからなる飼料作物の比率が大きいことで,畜産の比重の高さを示している。その他穀物,綿花,ビート,タバコなどの工業作物,ジャガイモ,野菜などが重要である。1991年の生産量は穀物137万4000t(1913年43万6000t),綿花6万2000t(同上2万8000t)などで,野菜,ブドウなどの生産の増大もめざましい。畜産では1991年に牛が119万頭,ヤギ・羊952万5000頭,豚35万8000頭である。
革命前,識字率は1~2%で,キルギス人は自分の文字さえもっていなかったが,現在はロシア文字を基礎とした文字を使用している(1926年まではアラビア文字,1940年まではラテン文字を使用)。そして旧ソ連の他の共和国と同じく10年制の普通中等義務教育への移行が終わった。ビシケクの国立大学をはじめ,10余の高等教育機関があり,その学生数は5万8000,中等専門学校48,学生数4万2700である(1991)。1913年にはわずか15人であった医者は,91年には1万6400人,住民1万人当り36.8人,ベッド数は同じく122床となった。
独立後の動き
モスクワにおける1991年の8月クーデタ事件直後の8月31日にキルギス共和国最高会議が独立宣言を採択した。アカエフ大統領はクーデタ事件の際は,ただちに反対の意思表示を行った。93年5月新憲法が採択された。人口や経済規模が小さく,ソ連解体による分業体制崩壊のため,国民経済は破局的打撃を受けた。93年通貨単位ソムSomを導入し,94年4月カザフスタン,ウズベキスタンと関税の相互撤廃など共通経済圏創出に関する条約に調印,7月には中央アジア協力開発銀行設立に合意するなど,隣国との経済協力を強めている。94年10月にはまたCIS加盟12ヵ国首脳会議が政府間経済委員会を設置し,EU型の経済統合を進める方針が決められた。日本も市場経済化のモデルとして援助や借款を供与している。
執筆者:木村 英亮