スタイン(読み)すたいん(英語表記)Sir Mark Aurel Stein

日本大百科全書(ニッポニカ) 「スタイン」の意味・わかりやすい解説

スタイン(Gertrude Stein)
すたいん
Gertrude Stein
(1874―1946)

アメリカの女流小説家、詩人。東部のペンシルベニア州の出身。ラドクリフ大学でウィリアム・ジェームズの心理学に興味をもち、一時ジョンズ・ホプキンズ大学で医学を志したが、断念して海外に渡り、1903年以降フランスに定住した。ピカソマチスなどの新しい絵画の収集者となり、文学サロンをパリで開いて、ヘミングウェイパウンドジョイスなど若い作家たちが出入りした。ヘミングウェイの小説『日はまた昇る』に掲げられた「あなた方は失われた世代(ロスト・ジェネレーション)です」ということばは、彼女の台詞(せりふ)である。自らも『三人の女』(1909)や『アメリカ人の形成』(1925)などの前衛的な小説を書き、アンダーソンやヘミングウェイに影響を与えた。その手法はキュビスムの絵画や当時の新しい映画の方法に似ている。また、ことばの意味よりも音を重んじた詩集『やわらかいボタン』(1914)を出した。論理も文法も大胆に無視したその詩風は、同じようにフランスのダダイズムの風潮に感化を受けたE・E・カミングズよりも一段と破壊的である。死後、第二次世界大戦後のダダイズム復興の波に乗って、T・S・エリオットをはじめとする多くの作家たちによる、彼女に捧(ささ)げる『友情の花束』(1953)が出された。自伝としては他人の眼(め)を借りて書いた『アリス・B・トクラスの自伝』(1933)があり、ほかに『選集』(1946)や、八巻本の『未収録作品集』(1951~1958)がある。

[新倉俊一]

『金関寿夫訳『アリス・B・トクラスの自伝』(1971・筑摩書房)』


スタイン(Sir Mark Aurel Stein)
すたいん
Sir Mark Aurel Stein
(1862―1943)

イギリスの考古学者、探検家。ハンガリーの首都ブダペストに生まれ、1904年にイギリスに帰化した。ドイツの大学で学んだのち、イギリスに渡り、オックスフォード大学およびロンドン大学で考古学、東洋学を学んだ。修学後、ロンドン大学のローリンソンの推薦で、インドに渡り、ラホールの東洋学校の校長となった。1900~01年に第1回の新疆(しんきょう)省探検を試み、玄奘(げんじょう)がインドからの帰路とした西域(せいいき)南道に沿って歩き、ホータン、ニヤの諸遺跡を調査した。06~08年に第2回の探検を行い、ロプノール湖畔からミーランの調査を試み、その後、敦煌(とんこう)に入り、多くの仏画、仏典、古文書を入手した。13~16年には第3回の探検に出かけ、モンゴル西部、パミール高原アフガニスタンに至る諸遺跡と古代交通路の調査を行っている。以上の探検の結果は、『古代ホータン』Ancient Khotan(1907)、『セリンディア』Serindia(1921)、『インナモースト・エイシア』Innermost Asia(1928)などとして、すばやく報告書が公刊され、これらの報告書は、探検家としてのみならず考古学者、東洋学者としてのスタインの業績を輝かしいものとしている。

 1930年に日本を訪問し、その後、西南アジアの諸調査を行い、イランイラクシリアヨルダンを歩き、多くの業績を残した。43年アフガニスタン調査のためにカシミールからペシャワルを経てアフガニスタンのカブールに入り、ここで病死した。

[飯島武次]

『J・ミルスキー著、杉山二郎・伊吹寛子・瀧梢訳『スタイン伝――考古学探検家』全2冊(1984・六興出版)』


スタイン(William Howard Stein)
すたいん
William Howard Stein
(1911―1980)

アメリカの生化学者。ニューヨーク市に生まれる。ハーバード大学を1933年に卒業、翌年コロンビア大学に転入。1938年学位を受ける。その後ロックフェラー医学研究所(現、ロックフェラー大学)に入り、研究所が大学になると、その大学の教授についた。権威ある専門誌『生化学』Journal of Biological Chemistryの編集にも携わった。

 一貫してタンパク質の研究を続け、ロックフェラー医学研究所の同僚であるS・ムーアとともに自動アミノ酸分析機を考案し、リボヌクレアーゼのアミノ酸配列順序を完全に解明した。この成果に対して、1972年にムーアおよびアミノ酸配列と立体構造の関係について研究したアンフィンゼンとともにノーベル化学賞を受賞した。

[編集部]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スタイン」の意味・わかりやすい解説

スタイン
Stein, Gertrude

[生]1874.2.3. アメリカ合衆国,ペンシルバニア,アリゲニー
[没]1946.7.27. フランス,ヌイイシュルセーヌ
アメリカ合衆国の詩人,小説家。ラドクリフ大学でウィリアム・ジェームズについて心理学を学び,卒業後ジョンズ・ホプキンズ大学医学部に入学。1903年ロンドンに渡り,のちパリに移って,「国籍離脱者」として生涯の大半をフランスで過ごした。ジェームズやアンリ・L.ベルグソンの影響を受けて,小説や詩における大胆な言語上の実験を試み,また新しい芸術運動の庇護者となり,アンリ・エミール・ブノア・マチス,パブロ・ルイス・イ・ピカソ,アンドレ・ジッドをはじめ多くの若い作家や画家と親交を結んだ。「失われた世代」の名づけ親でもあり,シャーウッド・アンダーソンやアーネスト・ヘミングウェーとの交友を通して,第1次世界大戦後のアメリカ文学に大きな影響を与えた。主著に短編集『三人の女』Three Lives(1909),詩集『やさしい釦』Tender Buttons(1914),自身の家系の記録『アメリカ人の形成』The Making of Americans(1925),秘書の名をかりた自伝『アリス・B.トクラスの自伝──わたしがパリで会った天才たち』The Autobiography of Alice B.Toklas(1933)があり,評論,講演録,オペラ台本なども残した。

スタイン
Stein, Sir Mark Aurel

[生]1862.11.26. ブダペスト
[没]1943.10.26. カブール
ハンガリー生れのイギリスの考古学者,東洋学者,探検家。3回にわたって中央アジア探検を行なった。第1次は 1900~01年でホータン付近で調査,第2次は 06~08年でさらに東に進み中国の新疆省各地を探検,トンホワン (敦煌)などにも足跡を印し,千仏洞を発見した。第3次は 13~16年で特に中国の甘粛省方面の探検に従事した。探検は地理学だけでなく,史学,考古学,芸術など多方面にわたり多くの古文書の収集や遺物の発見を行い,古代における東西文化の交流や交通路の究明に大きな功績を残した。その後第4次の探検を志したが中国の官憲の迫害により志を達せず没した。『セリンディア』 Serindia (1921) など,中央アジア古代史について多くの著書がある。

スタイン
Stein, William Howard

[生]1911.6.25. ニューヨーク
[没]1980.2.2. ニューヨーク
アメリカの生化学者。 1938年コロンビア医科大学で学位取得後,ロックフェラー医学研究所 (現在ロックフェラー大学) に入所。蛋白質の分子構造の研究に従事し,蛋白質から得られるアミノ酸類,ペプチド類の構造分析法を発展させるとともに,その方法を用いてリボ核酸の分解酵素であるリボヌクレアーゼの構造決定に多大の成果を収めた。 1972年 C.B.アンフィンセン,S.ムーアとともにノーベル化学賞受賞。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報