日本歴史地名大系 「中津留村」の解説 中津留村なかづるむら 大分県:大分市旧大分市地区中津留村[現在地名]大分市中津留一―二丁目・南津留(みなみづる)・東津留(ひがしづる)一―二丁目・今津留(いまづる)三丁目・東浜(ひがしはま)一丁目・西浜(にしはま)・津留(つる)・岩田町(いわたまち)一―四丁目・古(こ)ヶ鶴(づる)一―二丁目大分川の津留渡を越えて今津留村から東に続く伊予街道沿いに当村・花津留(はなづる)村と続く。三村は大分川が坊(ぼう)ヶ小路(こうじ)渡の北で裏(うら)川を分岐してできた三角洲上にあり、当村は分岐点を頂点とする南部を中心とする。このような地形的な関係で、東方鶴崎(つるさき)方面から府内に入る場合牧(まき)村・下郡(しもごおり)村を通る肥後街道から坊ヶ小路渡を利用するほうが便利であった。 中津留村なかつるむら 大分県:大野郡三重町中津留村[現在地名]三重町中津留猪毛(ししけ)村の南、中津無礼(なかつむれ)川流域にあり、西に稲積(いなづみ)山がそびえる。対岸は押川(おしがわ)村。文禄二年(一五九三)以降岡藩領。正保郷帳に村名がみえ、田方一五石余・畑方四六石余、白谷(しろたに)郷に属し、茅山有、日損所と注記される。安永七年(一七七八)には中津留組に属し、同組大庄屋六郎太衛門の役宅があった(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。岡藩小制札場の所在地であった(岡藩御覧帳細注)。南東、中津無礼川東岸の字石町(いしまち)は正保郷帳に白谷郷の石町村とみえ、田方一三石余・畑方三三石余、茅山有と注記される。石町村は元禄・天保の両郷帳に記載されるが、旧高旧領取調帳に村名はみえず、幕末までに中津留村に含まれたとみられる。 中津留村なかづるむら 大分県:南海部郡宇目町中津留村[現在地名]宇目町小野市(おのいち) 中津留楢野木(ならのき)・上代(うえのだい)両村の南、田代(たしろ)川西岸に位置。正保郷帳に村名がみえ、田高七六石余・畑高五石余、宇目郷に属した。旧高旧領取調帳では高一〇三石余。寛政八年(一七九六)には小野市組に属し、村位は中、免七ツ三分(「高反別物成品々書抜帳」県立大分図書館蔵)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by