日本歴史地名大系 「押川村」の解説 押川村おしかわむら 和歌山県:那賀郡岩出町押川村[現在地名]岩出町押川葛城(和泉)山脈中の村で、根来(ねごろ)寺北方にあたる。北は和泉国、南は西坂本(にしさかもと)村。「続風土記」は「村中を流るゝ川を鴦川といふ、川の上に鴦淵あり、毎歳大晦日鴛鴦一双来りて此ノ淵に遊ふ、故に鴦淵鴦川の名あり、村名もこれを取りて名つくといふ」と記す。長承元年(一一三二)一二月日付の弘田庄立券文案(根来要書)に記す高野山大伝法(だいでんぼう)院領弘田(ひろた)庄の四至のうちに「北限横峯和泉国南堺」とみえ、当地が弘田庄の北端部に含まれていたことが知られる。 押川村おしがわむら 大分県:大野郡三重町押川村[現在地名]三重町中津留(なかつる)中津留村の東、中津無礼(なかつむれ)川東岸にある。当地にある天文二三年(一五五四)の紀年のある宝篋印塔には宇田枝(うたえだ)名の内の「鴛河村」とみえる。文禄二年(一五九三)以降岡藩領。正保郷帳に押川村とみえ、田方三一石余・畑方二八石余、白谷(しろたに)郷に属し、茅山有と注記される。旧高旧領取調帳では高四四石余。安永七年(一七七八)には中津留組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by