中浜町(読み)なかはままち

日本歴史地名大系 「中浜町」の解説

中浜町
なかはままち

[現在地名]下関市大字豊浦町

忌宮いみのみや神社の南東に位置し、南北に通る山陽道を挟む両側町。北は土居どいうち町、南はみなみノ町と接する。

天正二年(一五七四)八月一四日付の長門国一二両社祭礼之事(長門二宮忌宮神社文書)に「中浜町」とみえる。正保元年(一六四四)一二月八日付の長門国一二両社祭礼之事長府市場之事(同文書)

<資料は省略されています>

とあり、細物座が形成され、呉服類の商売が行われていたことを示している。

江戸時代初期の様子を伝える長府古図(毛利家蔵)によれば、山陽道に面する町屋の西裏には社人・家臣屋敷があり、その裏通北端で忌宮神社の南正面鳥居に突き当り、長府から長門一宮へ行く一ノ宮道筋と交差している。


中浜町
なかばまちよう

[現在地名]今治市中浜町一―四丁目

慶長八年(一六〇三)藤堂高虎の町割によってつくられた町で、今治八町の一つ。風早かざはや町の東側、海岸寄りに並び、各丁六〇間、奥行一五間で四丁目まであった。中浜町四丁目から風早町四丁目にかけては松源しようげん院とその脇寺の敷地となっていた。元禄一二年(一六九九)の中浜町寸間改帳によると二丁目を中心に紺屋大工が並んでいる。面積一町九反六畝二歩、うち六反三畝六歩は御年貢地、二反一畝一歩は百姓屋敷御年貢地、二畝二歩大工役、二畝一〇歩船大工役、九反七畝二〇歩町役、二畝一歩中夷子社敷免許地である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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