今治城下
いまばりじようか
蒼社川の北岸に築かれた今治城を中心とする城下町。前面に来島海峡、背後に今治平野を控える交通・軍事上の要衝にあたる。慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦功により板島八万石から伊予半国二〇万石を領することになった藤堂高虎は、交通不便な国分城を廃し、当時小田の長浜あるいは今張の浦とよばれていた海浜を城地と定め、同七年六月に築城の工を起こし同九年九月にほぼ完成した。城郭の位置は蔵敷村内の海浜で、同村の一部と今治村の一部に家中屋敷を配した。慶長一三年城主高虎は伊勢に移り、今治城は養子高吉の知行となったが、寛永一二年(一六三五)に松平定房(松山藩主松平定行の弟)が今治藩三万石の領主として入城、以降明治二年(一八六九)まで一〇代二三五年間松平氏が支配した。
〔城下町の形成〕
今治町の町割は、今治築城工事が開始された翌年の慶長八年二月から始められた。城郭の北方、浅川との間の今治村の地、ほぼ四町四方が町域として選ばれ、その広さは城郭に比べて四分の一の面積である。城郭と町分は金星川によって区画されている。初めに町の中央部にあたる三の丸北門辰ノ口に本町を置き、海岸方向へ風早町・中浜町・片原町、内陸部へ米屋町・室屋町と六町を配し、各町は一―四丁に分けられ、各丁の長さ六〇間、奥行三〇間の短冊形とした。また、米屋町四丁目に鍛冶屋町、風早町四丁目に塩屋町を置いた。なお、室屋町と塩屋町については、延享三年(一七四六)今治村庄屋南六郎右衛門の口上書に、その由来が記されている。すなわち、慶長年中の築城および町割に際し、今治村古来の村高七四〇石余のうち、四三〇石余を家中屋敷などに召し上げられたため、その代償として麹商売の独占権を与えられ、居住の百姓町を室屋町と命名された。また、今治村の百姓が水主役を負担する代償として塩商売を許され、居住地を塩屋町と命名されたとある。
道幅は中心の本町が二間半と広く、他の町は一間余で、道路の両側には大島石の長石が敷かれ、家屋側の切石との間に排水路が作られていた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の今治城下の言及
【今治[市]】より
…[本州四国連絡橋]今治~尾道ルート(西瀬戸自動車道)の建設が98年度末に開通予定で進められている。【穐岡 謙治】
[今治城下]
伊予国の城下町,瀬戸内海交通上の要地。1600年(慶長5)[藤堂高虎](20万石)が領主となり,02年から今張城を築城した。…
※「今治城下」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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