デジタル大辞泉
「山陽道」の意味・読み・例文・類語
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さんよう‐どうサンヤウダウ【山陽道】
- [ 一 ] 古代の行政区画の五畿七道の一つ。播磨・備前・備中・美作(みまさか)・備後・安芸・周防(すおう)・長門の八か国をいう。畿内の西方、中国地方の瀬戸内海側の一帯。かげともの道。せんようどう。
- [初出の実例]「遣二正六位下藤原朝臣房前于東海道〈略〉正八位上穂積朝臣老于山陽道一」(出典:続日本紀‐大宝三年(703)正月甲子)
- [ 二 ] 京から筑紫の大宰府に至る古代の幹線道路。
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山陽道
さんようどう
律令制下に都を中心として放射状に設定された官道の一つ。のちにも畿内と山陽地方を結ぶ幹線道として機能した。
〔古代〕
大和、のちには山城から摂津・播磨・備前・備中・備後・安芸・周防・長門の諸国を結び、西海道(九州)の大宰府へと続いていた。律令制下では唯一の大路。発掘調査によると、最も広い例では幅一〇―二〇メートルの大道であった。「日本書紀」崇神天皇一〇年九月九日条のいわゆる四道将軍の派遣記事には、吉備津彦を西道に遣わしたことがみえ、「古事記」孝霊天皇段には、大吉備津日子・若建吉備津日子が針間の氷河の前に忌瓮を据えて、針間を道の口として吉備国を平定したとある。また「新撰姓氏録」の和気朝臣の条には、神功皇后が九州から大和へ帰る折、反乱を企てた忍熊王らが明石堺に兵を備えたのに対し、弟彦王を針間・吉備の境に遣わして関を造って防がせたとし、これを和気関というとある。こうした記事は伝説ではあるが、大和王権の山陽道への進出上、播磨・吉備の境界が重要な意味をもっていたことを示す。「日本書紀」崇峻天皇五年一一月五日条には、大和から筑紫に駅使を遣わしたとある。このとき駅の制があったとは思われないが、大化前代にはのちの山陽道のルートとほぼ同様のコースを通じて使者の往来があったらしい。同書天武天皇一四年(六八五)九月一五日条の巡察使派遣の記事には、佐味朝臣少麻呂を山陽使者としたと記されており、山陽には「かげとものみち」の古訓が残されている。この頃には山陽道が地域区分としてまとまり、交通路としても整ってきたと思われる。
大宝律令施行直後の大宝三年(七〇三)一月の巡察使派遣時には、穂積朝臣老が山陽道の使者に任命された(「続日本紀」同年正月二日条)。山陽道の初見である。令制では大・中・小路のうち駅ごとに駅馬二〇匹を置く大路に位置づけられ(厩牧令義解)、天平元年(七二九)四月三日には山陽道諸国の駅家を改修するため、駅起稲五万束が充てられている(続日本紀)。山陽道は外国使節を送迎する道でもあり、駅家はとくに意を用いて整備されていたらしく、「日本後紀」大同元年(八〇六)五月一四日条によると、蕃客に備えて備後から長門までの駅館を瓦葺・粉壁にしていたが、今後、長門以外の駅館は農閑期に修理するよう命じている。摂津・播磨両国の駅家も同様の構造であり、しかもこれ以降も恒常的に維持管理が行われたことがうかがえよう。
駅家・駅馬の実数は、大同二年の時点で摂津国五駅、駅ごとに馬三五匹、播磨国は九駅で、駅ごとの馬数は二五匹であったと推定される。
山陽道
さんようどう
古代には都京と筑紫大宰府(現福岡県太宰府市)を結ぶ官道として、国家にとって最も重要な道であった。中世には官道としての性格は失ったが、陸上交通路としての重要性に変りはなく、一部道筋を変えながらも近世に継承される。
〔古代〕
大宰府道・筑紫大道ともよばれた。大同元年(八〇六)五月一四日の勅(日本後紀)によると、備後・安芸・長門などの駅館は外国使節に備えて瓦葺粉壁の建物であったことが知られる。「延喜式」兵部省では全国の七官道のうち唯一の大路とされ、県内の駅家としては、備前国坂長・珂磨・高月・津高、備中国津
(つさか・つさき)・河辺・小田・後月の八駅が記され、駅馬は津高駅のみが一四疋でほかは二〇疋であった。
播磨国を西進して船坂峠(現兵庫県赤穂郡上郡町と備前市の境)を越えて備前国に入った山陽道は、坂長駅(現備前市三石に比定)を経て金剛川の河谷を西に向かい、吉井川を和気渡で渡って珂磨駅(現赤磐郡熊山町松木に比定)に至る。同駅は延暦七年(七八八)に当時の和気郡域の吉井川西岸地域を分離して磐梨郡を建てた際、それまであった藤野駅を廃止して新設されたもので(「続日本紀」同年六月七日条)、松木地域には古瓦の出土もみられる。廃止された藤野駅の所在地については、現和気町のJR山陽本線和気駅南方、あるいは平城宮式瓦の出土した同町吉田字飼葉が推定されている。珂磨駅からは日古木峠(現赤磐郡山陽町)、下市(現同町)を経て高月駅(現同町馬屋に比定)に至り、旭川を牟佐(現岡山市)付近で渡って津高駅(現岡山市富原に比定)に達する。牟佐渡から津高駅に至る道筋については、半田山山塊の南麓の「備前国福りうじ縄手」(「平家物語」巻八妹尾最期)とよばれる古道を通るとする説と、同山塊の北麓を通るとする説があるが、古代の官道が最短距離の直線を原則としている点からすると、原山陽道の復原に関するかぎり後者の可能性が高い。
備中国に入ると津
駅(現倉敷市矢部に比定)から国分尼寺・国分寺(現総社市)の寺域の南辺を通って持坂(現倉敷市)を経て、高梁川を渡り河辺駅(現吉備郡真備町川辺付近に比定)に達する。さらに小田川の北岸を西進して小田駅に至り、後月駅を経て備後国に入る。備中国西端の道筋については、稲木川をさかのぼり、駅往還とよばれる備後国東端にある道に連なるという説と、その北側の現国道三一三号に近い線を想定する説がある。後月駅に関する比定も、現井原市寺戸付近とする説と、同市字後月谷に想定する説がある。
山陽道
さんようどう
古代の令制による官道は、それぞれ設置する駅馬の数により大路・中路・小路の別があったが、大路は山陽道と門司―大宰府(現福岡県)を結ぶ官道のみで、中路は東海道・東山道の二つ、他は小路であった。このことからみても、畿内と九州を連絡する山陽道の役割の大きさがうかがえる。「延喜式」(兵部省)によると、周防・長門両国に設けられた山陽道の駅は一三あるが、このうち周防国には石国・野口(玖珂郡)、周防(熊毛郡)、生屋・平野(都濃郡)、勝間(佐波郡)、八千・賀宝(吉敷郡)の八駅、長門国には阿潭・厚狭・埴生(厚狭郡)、宅賀・臨門(豊浦郡)の五駅があって、各駅はいずれも駅馬二〇匹を備えていた。もっとも、大同二年(八〇七)一〇月二五日付の太政官符(類聚三代格)によると、周防国は一〇駅で五〇匹、長門国は五駅で二五匹をそれぞれ減ずるとあるから、これより以前は駅別二五匹が置かれていたのであろう。また周防国一〇駅と記されていることから、「延喜式」のできた延長五年(九二七)までに二駅が停廃されたことになる。「日本紀略」寛平元年(八八九)六月六日条に「停
周防国大前駅家
」とあるから、その一つは佐波川河口の大前駅と思われるが、残りの一つは不明である。なお大前駅は佐波郡勝間駅と吉敷郡八千駅の間にあり、二駅間の距離が近かったために廃止されたものと考えられている。
山陽道
さんようどう
古代における中央の都京と西海道の大宰府(現福岡県太宰府市)を連絡した駅路。七道の一つで、諸道のうちただ一つの大路として古代国家がもっとも重視した官道である。大宰府道・筑紫大道ともよばれた。「続日本紀」によると和銅四年(七一一)正月二日に、山背(山城)国相楽郡岡田駅・同綴喜郡山本駅・河内国交野郡楠葉駅・摂津国島上郡大原駅・同島下郡殖村駅などが設置されている。平城遷都の翌年のことであり、遷都に伴って駅路が改変されたことを示す。この駅家のうち、山本駅は現京都府綴喜郡田辺町三山木山本に比定され、楠葉駅は枚方市の楠葉に相当するのは確かである。大原駅と殖村駅とは遺存地名がなく、また考古学的調査も行われていないので不詳であるが、前者は三島郡島本町の桜井、高槻市の梶原・萩庄付近、同市の芥川などに、後者は茨木市の宿久庄、同市の郡山、同市の耳原などが想定されている。平城京から歌姫越で北進して木津川左岸を通り、山本駅北部において北北西に進む山陰道と分れ、男山丘陵を越えて楠葉駅に至って淀川を渡り、北摂山地東南麓から千里丘陵北東端に向かって山地南麓を西南西方向に直進する山陽道が新設されたのである。
この和銅四年新設の山陽道は、平城京から千里丘陵北部までの路線しか示していないが、それ以前に奈良盆地南部の飛鳥京・藤原京から難波京を経由する山陽道が設けられていたと考えられる。
山陽道
さんようどう
山陽道は古代の行政区画である五畿七道の一つで、播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門の八ヵ国をさすが、一般にはこれら諸国を連ねて通じた駅路の意味で用いられることが多い。近世には西国街道・中国路などともよばれた。
令制では都と九州大宰府を結ぶ官道として重要視され、唯一の「大路」として駅馬二〇疋が置かれた。「延喜式」(兵部省)によると、備後・安芸に設けられた山陽道の駅は一六ある。東から神辺平野の安那駅(現深安郡神辺町)、芦田川をさかのぼって国府付近の品治駅(現福山市駅家町)、さらにさかのぼり、次いで支流沿いに者度駅(現御調郡御調町)に至り、ここから八幡(現三原市)の山間に入った道は峠を越して沼田川の支流域に出る。安芸国に入り真良(現三原市)・梨葉(現豊田郡本郷町)の両駅を経て、南方(現本郷町)の別の支流尾原川に沿い都宇駅(現竹原市)で海に近づいてから田万里川をさかのぼり、西条平野に入って「鹿附」駅(「宇鹿」駅)・木綿駅を経て、瀬野川の流域を下りつつ大山(以上現東広島市)・荒山(現広島市安芸区)の二駅を過ぎ、安芸駅(現安芸郡府中町)で再び海岸に出て、さらに戸坂(現広島市東区)の峠を通って太田川を渡り、再転して支流安川をさかのぼって山間に入る。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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山陽道 (さんようどう)
古代の地方行政区画の七道(五畿七道)の一つ。《西宮記》では〈ソトモノミチ〉〈カケトモノミチ〉と読んでいるが,前者は山陰道の読みの錯入。中国山地の南斜面に位置し瀬戸内海に面する地域であったため,古くから内海交通の活発とあいまち大和朝廷にとって重要な地域となり,それは律令国家の行政下でも変りなかった。《延喜式》では播磨,美作,備前,備中,備後,安芸,周防,長門の8国が属するが,このうち美作は713年(和銅6)に備前より分立した。また備前,備中,備後,美作の4国は,古くは吉備と呼ばれ大和朝廷に対し一大勢力圏を形成していた。山陽道の成立時期は不明だが,685年(天武14)に佐味少麻呂が山陽使者として派遣されたことが知られるので,天武朝末年に成立したとみられる。なお駅制の大路(たいろ)は,平城京より山陽道の海岸沿いの各国を通り大宰府に至る道を指し,陸上交通路としての価値はきわめて大であった。
執筆者:亀田 隆之
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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山陽道
さんようどう
古代、律令(りつりょう)期における国の上部の地域単位である五畿(ごき)七道の一つ、およびそこに設定された官道の名称。中国地方の南側にあたり、734年(天平6)に安芸(あき)、周防(すおう)の国境が定められて、播磨(はりま)、美作(みまさか)、備前(びぜん)(『延喜式(えんぎしき)』では以上近国)、備中(びっちゅう)、備後(びんご)(以上中国)、安芸、周防、長門(ながと)(以上遠国)が確定した。美作以外の瀬戸内海側を京と大宰府(だざいふ)を結ぶ古代の最重要路山陽道が貫通し、原則として駅馬20~30疋(ぴき)が常備されていた。駅数は『延喜式』では合計54駅であった。同書「主税上」には山陽道諸国のすべてに海路の船賃を記載しており、陸路のみならず瀬戸内海を通じて淀(よど)川沿いの與等津(よどのつ)とも密接に結び付いていたことが知られる。近世には、山陽道は道路名としては西国街道あるいは西国路と称された。
[金田章裕]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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山陽道
さんようどう
(1)古代の七道の一つ。現在の近畿地方から中国地方の瀬戸内海側にそった地域で,播磨・美作・備前・備中・備後・安芸・周防・長門の各国が所属する行政区分。(2)これらの諸国を結ぶ交通路も山陽道と称し,「影面(かげとも)の道」ともよばれた。畿内から各国府を順に結ぶ陸路を基本に官道が整備され,ことに唐や新羅(しらぎ)からの外交使節の入京路にあたるため,瓦葺・白壁の駅館が建てられた。駅路としては大路で,各駅に20頭の駅馬がおかれる原則であり,「延喜式」では支路を含めて総計56駅に954頭の駅馬をおく規定であった。地方官として731年(天平3)に山陽道鎮撫使(ちんぶし),746年に山陽・西海両道鎮撫使を設置した。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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山陽道
さんようどう
律令制における五畿七道の一つ。播磨,美作,備前,備中,備後,安芸,周防,長門の8ヵ国を総称する地方名であった。また,西国路,中国路,中国街道ともいわれ,本州西部,瀬戸内海沿岸を通っていた街道。上古には吉備道ともいわれた。大坂から,明石,岡山,尾道,広島,小郡 (おごおり) など五十余の宿駅を経て下関にいたる。江戸時代には京坂への物資輸送,参勤交代のための主要街道であった。現在はその大部分が国道2号線になっている。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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山陽道
都から中国地方の瀬戸内海側を通り、関門海峡へつながる道です。役人や民衆が通る以外に中国や朝鮮半島からの使いが都へ行くために通る道でした。そのため、瓦ぶきで白壁の駅家[うまや]が造られました。
出典 ほうふWeb歴史館防府市歴史用語集について 情報
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山陽道
さんようどう
律令制における五畿七道の一つ
現在の中国地方の瀬戸内海沿岸をいう。播磨 (はりま) ・美作 (みまさか) ・備前・備中・備後・安芸 (あき) ・周防 (すおう) ・長門の8カ国。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の山陽道の言及
【駅伝制】より
…大化改新後,7世紀後半の律令国家形成期には,駅鈴によって[駅馬]を利用しうる道を北九州との間だけでなく東国へも延ばしはじめたようであるが,8世紀初頭の大宝令では唐を模範とした駅制を全国に拡大することとした。すなわち朝廷は特別会計の駅起稲(えききとう)・駅起田(えききでん)(後の養老令では駅稲・駅田)を各国に設置させ,これを財源として畿内の都から放射状に各国の国府を連絡する東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の7道をそのまま駅路とし,駅路には原則として30里(約16km)ごとに駅を置かせ,駅ごとに常備すべき駅馬は大路の山陽道で20匹,中路の東海・東山両道で10匹,他の4道の小路では5匹ずつとし,駅の周囲には駅長や駅丁を出す[駅戸]を指定して駅馬を飼わせ,[駅家](うまや)には人馬の食料や休憩・宿泊の施設を整え,駅鈴を貸与されて出張する官人や公文書を伝送する駅使が駅家に到着すれば,乗りつぎの駅馬や案内の駅子を提供させることとした。その結果,もっとも速い[飛駅](ひえき∥ひやく)という駅使は,大宰府から4~5日,蝦夷に備えた陸奥の多賀城からでも7~8日で都に到着することができた。…
【中国路】より
…江戸時代,瀬戸内海にそって設けられた街道で,西国路,山陽道,中国街道ともいう。1803年(享和3)の幕府大目付の訊問に対して,〈何国何之駅より何之駅
を中国路と相唱候哉,右体名目差極候ては難及挨拶候〉と答申しているように,その起点・終点も不明確で,起点を京都または大坂,終点を長門の大関・下関,豊前の大里などとする説がある。…
※「山陽道」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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