改訂新版 世界大百科事典 「中能島派」の意味・わかりやすい解説
中能島派 (なかのしまは)
山田流箏曲の一派。家元としての芸姓は5代を数える。初代中能島(1838-94)は,信州岩村田藩藩医中島昌庵の第3子として江戸に生まれる。幼名園太郎。失明後,小名木(おなぎ)検校松操一に入門,松勢一と名のる。1852年(嘉永5)検校に登官,中能島を姓とし,のちに松声と号する。明治箏曲界の長老として活躍,訓盲啞院(東京盲学校)の教官もつとめた。平曲もよくし,清元お葉,富本豊前太夫などとも交遊,富本との掛合《七福神》や,富本色の強い《伏見》などのほか,《雨夜の月》《松風》《松の寿》など名作を作曲。長男孝太郎(1878-1922)は迂童と称し尺八家となり,門下の村上正雄(?-1892)に2代中能島を継がせ,松雄(しようゆう)と名のらせたが,早く没したため,1892年4月に松声は一世一代の演奏会を開いた。没後,長男の妻中能島喜久(1873-1914)が家元をあずかったが,女性ということで3代を継がず,芸養子の佐野千里(1893-1928)に1914年に3代中能島を継がせて,松仙と名のらせた。3代の遺言により,孝太郎・喜久の次男中能島欣一が4代を継いだ。その夫人で今井慶松の娘の中能島慶子(1912-88)が,夫の死後84年に5代を継いだ。
執筆者:平野 健次
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報