日本歴史地名大系 「久保山村」の解説 久保山村くぼやまむら 佐賀県:神埼郡脊振村久保山村[現在地名]脊振村大字服巻(はらまき)字一谷(いちこく)・伊福(いふく)・古賀尾(こがのお)・犬井谷(いぬいだに)・田中(たなか)蛤(はまぐり)岳の西、背振(せふり)山(一〇五五メートル)の南にあたる山間部に位置する。久保山の名は窪山の意味で、地勢が盆地状をなしていたからその名が出たものである。慶長絵図には「窪山 高三百三十五石四斗七升八合六勺二才」と記されている。福岡藩との国境にあたり、いわゆる足半(あしなか)侍として平時は農耕にいそしむ士族が住んでいた。村内に白蛇(はくじや)神社がある。背振神社はもともと背振山の山頂にあって、冬期は参拝が困難なため、当神社の境内に背振神社の下宮を建立した。 久保山村くぼやまむら 佐賀県:鹿島市久保山村[現在地名]鹿島市古枝(ふるえだ)字久保山現鹿島市の北東部、石木津(いしきづ)川の東に位置する。正保絵図に村名がみえる。藩政時代は鹿島支藩に属する。明治四年(一八七一)古枝村となる。明治九年から昭和一八年(一九四三)まで窯業地として知られた。多良(たら)岳が長く尾を引いて形成する舌状丘陵地の端に位置し、かつて多くの古墳が存在したといわれるが、現在ほとんど破壊隠滅してしまった。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by