久松村
ひさまつむら
[現在地名]平塚市纏
東は友牛村、西は公所村、北は長持村、南は松延村に接する。北東境に金目川の堤防が破損した際下流域に水が流れ込むことを防ぐための控堤がある。小田原衆所領役帳には矢部修理亮「四拾貫文 久松村」とある。近世は初め幕府直轄領、元禄一〇年(一六九七)幕府直轄領と旗本石原・田中領の三給。文化八年(一八一一)には旗本石原・田中・白須領の三給。大磯宿(現中郡大磯町)の定助郷を勤め、元禄七年の助郷高一八一石(「大磯宿助郷村高覚」県史九)。宝永三年(一七〇六)九月の金目川改修広川村石原領一部潰れにつき久松村幕領内へ替地覚書(平塚市史三)によれば、同年に行われた金目川川筋掘替工事に伴い広川村石原領の一部が土手敷になり耕地が減少したため、その代替地として当村の幕府領三反八畝余・高四石七斗七升余が石原領となる。
久松村
ひさまつむら
[現在地名]豊前市久松
沓川村の東、恒富村の北に位置する。江戸時代の領主の変遷は今市村に同じ。元和八年人畜改帳に村名がみえ給人分、家数一九・人数三八(うち百姓五・名子八)、牛六・馬四。延享三年(一七四六)の御案内覚帳(稲葉文書)では高二〇四石余、免三ツ九分一厘、竈数一九、家数三〇・人数九九、牛六・馬三、加茂大明神がある。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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