久見村(読み)ひさみむら

日本歴史地名大系 「久見村」の解説

久見村
ひさみむら

[現在地名]湯原町久見

鉄山かねやま川の合流点で西に迂回する旭川の左岸内側に位置し、東はやしろ村、西は同川を隔てて三家みつえ村・土居どい村。仁治三年(一二四二)一二月一七日の公用皆済状(福田神社文書)によれば、当村が納めた年貢のうちの一石福田ふくだ神社(現八束村)の祭料で、代銭七〇〇文のうち三〇〇文は同社の行の祭引であった。

正保郷帳によれば田高七五石余・畑高二九石余。


久見村
くみむら

[現在地名]五箇村久見

しろ村の北方に位置し、北から西にかけて海に面する。「隠州視聴合紀」では酌村とある。慶長一二年(一六〇七)の越智郡検地帳に久見村とみえ、牧上畑の石盛は四斗代(島根県史)正保国絵図に村名がみえる。貞享五年(一六八八)の「増補隠州記」によれば、田一〇四石余・八町三反余、畑三〇石余・一六町二反余、ほかに新田畑一三石余。小物成は竈役面判銀(以下断りのない限り同銀)一二匁・漁請役二〇匁・山手塩一〇〇俵役七〇匁・和布六束役一匁二分・小鯛一〇〇枚役四匁・鯣七二連役一八匁・核苧三三〇目役九分・牛皮一枚役丁銀二匁五分・串鮑三連役は米六斗六升余、漆一合役は米八升余で代納。


久見村
ひさみむら

[現在地名]東郷町久見

中興寺ちゆうこうじ村の南に位置し、東郷川下流の緩傾斜面付近を占める。拝領高三六四石余。小泉氏、倉吉組士高木氏など三氏の給地があった(給人所付帳)。宝暦三年(一七五三)頃の河村郡村々明細帳(近藤家文書)によると朱高三九七石余、高三九九石余、うち畑高二四石余。免五ツ一分。定加損・悪田加損米一一石。棟数三軒・役高六〇人。男五五・女四七、比丘尼一。産土神は梵天帝釈であった。幕末の六郡郷村生高竈付では生高三九七石余、竈数二一。宝暦二年に草山入会争論があり、「滝ノ上之道より小清水谷并藤ケ谷中道を限り、上ノ方鉢伏山之峠迄」が、白石しらいし村・野方のかた村および当村・中興寺村松崎まつざき町の入会地とされた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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