亀谷村(読み)かめがいむら

日本歴史地名大系 「亀谷村」の解説

亀谷村
かめがいむら

[現在地名]大山町亀谷

常願寺川支流和田わだ川の右岸、標高約四〇〇メートルの高台の平坦地にあり、安政四年(一八五七)に開通した有峰ありみね村に通じる亀谷新道がある。西に下って小見おみ村があり、和田川対岸に下山和田したやまわだ村がある。天正六年(一五七八)本宮ほんぐう村領内にあしくら作左衛門により銀鉱が発見された。その後鉱区は極楽坂ごくらくざか山を越して亀谷側に移り、当地に鉱山集落が成立した。慶長三年(一五九八)までこの地には百姓村の亀谷村と柿木平かきのきだいら村があり、高八三石、山役銀一三六匁であったが、金山役銀・運上銀が多く出たので、この年村高・役銀を免除し、亀谷かね山として郡奉行の管轄から外したという(「鉱山由来一件」越中鉱山雑誌)


亀谷村
かめだにむら

[現在地名]大栄町亀谷

しま村の西に位置する。尼子経久のものと推定される文明一四年(一四八二)六月二〇日の某寄進状案(光徳寺文書)に「亀谷路」がみえる。当地には古くから上伊勢大神宮(現東伯町の方見神社)の神領があり、亀谷大夫と称する社人が差置かれていたといい、永禄五年(一五六二)には尼子義久が同宮に「亀か谷」のうちの「米弐拾俵地利」を寄進したとされ、かつては神谷とも称したと伝える(池本家文書)。藩政期の拝領高は五九五石余。藪役銀二〇匁を課されており(藩史)、下池の池田氏、大島氏・本部氏の給地があった(給人所付帳)


亀谷村
かめだにむら

[現在地名]総領町亀谷

黒目くろめ村の西、亀谷川が田総たぶさ川に合流する付近を中心に、亀谷川下流域沿いに位置する。中世には田総庄に属し、下地中分以後はその領家方であったと思われる。古くはかめだに亀箇谷かめがだにとも記す。元和五年(一六一九)の備後国知行帳にも「かめか谷村」として高一〇一五・七五八石を記すが、これは北隣の五箇ごか村の地を含むと思われ、元禄一三年(一七〇〇)の備前検地帳では七二九・六七五石が記される。元禄一一年福山藩領から幕府領となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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