日本歴史地名大系 「二軒屋町」の解説 二軒屋町にけんやまち 徳島県:徳島市徳島城下二軒屋町[現在地名]徳島市二軒屋町一―三丁目・西二軒屋町(にしにけんやちよう)一―二丁目徳島城下の南端に位置し、南北に通る土佐街道沿いに成立した新興の町人地。北は勢見(せいみ)山・金比羅(こんぴら)(金刀比羅)社を限り、南は北浜(きたはま)浦、西は勢見山、東は富田(とみだ)浦と接する。町名の由来は、古くは人家が二軒しかなかったからという(阿波志)。寛永八―一三年(一六三一―三六)の忠英様御代御山下画図、元禄四年(一六九一)の御山下絵図にはみえないが、文献上の初出は貞享四年(一六八七)で、紙屋(かみや)町からの訴えで、佐古(さこ)・富田・助任(すけとう)の各郷町とともに「二軒屋」の郷町においても紙の売買が禁止された。しかし宝永四年(一七〇七)紙商売は、佐古郷町・下助任(しもすけとう)郷町と当町において従来より営業していた一五軒の者については許可された(元居書抜)。初めは郷町で、元禄六年には佐古・助任・福島(ふくしま)の各郷町とともに町方支配に編入された。当時の当町の範囲は勢見から下八万(しもはちまん)川石橋まで四町ほど、ただし山路は風呂谷(ふろだに)までで、家数は六一軒(うち一一軒は庵)と佐古郷町に次いで多かった。同一〇年には国奉行支配に復した(同書)。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by