日本歴史地名大系 「五ヶ庄村」の解説
五ヶ庄村
ごかのしようむら
北は
中央部を南北に縦貫する奈良街道を中心として、その東西に散在する八つの集落を総称して五ヶ庄とよぶが、それぞれの集落もまた
村域は冨家殿・岡屋庄の地にあたる所で、永く摂関家領とされたが近衛家に伝領され、やがて五ヶ庄と称される。五ヶ庄の地名が史料に現れるのは中世後半以後で、長享元年(一四八七)の後法興院雑事要録(陽明文庫蔵)に「冨家殿号五ケ庄」とみえ、近世においても寛文一〇年(一六七〇)正月九日付の近衛家願状(陽明文庫蔵)に、古くは冨家殿と称したが後法興院政家の時から五ヶ庄とよぶようになったとの記述があり、一五世紀後半以降の呼称と考えられる。
南北に長く帯状を呈する宇治川東部平野のうち、最も東西幅の広い所に位置し、北部の字大林にある
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報