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山城国一揆 やましろのくにいっき

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

山城国一揆
やましろのくにいっき

文明 17 (1485) 年に南山城に起った国人一揆応仁の乱 (67~77) で,畠山義就,政長の対立抗争は山城南部を戦場としたため,文明 17年 12月山城の 15~60歳の国人が集会を開き,これに農民も参加して一味同心し,両軍の国外撤退,寺社領の還付,新関 (しんせき) の撤廃,年貢の半済を決議し,三十六人衆による自治支配を打立てた。

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デジタル大辞泉の解説

やましろ‐の‐くにいっき【山城国一揆】

文明17年(1485)山城南部で国人(こくじん)地侍(じざむらい)らが中心となって起こした一揆。抗争を続ける畠山政長義就の両軍を撤退させ、以後8年間、守護による支配を排除し、自治を行った。

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百科事典マイペディアの解説

山城国一揆【やましろのくにいっき】

戦国時代,山城国南部の地侍(じざむらい)を中心に国衆・農民が起こした一揆。1485年12月,応仁・文明の乱後,なお畠山政長畠山義就(よしなり)の両軍がこの地方で合戦を続けたため,国衆や農民が集会を開いて両軍の山城からの撤退,寺社本所領の返付,新関停止を要求。
→関連項目宇治月行事後法興院記山城国

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世界大百科事典 第2版の解説

やましろのくにいっき【山城国一揆】

1485年(文明17)12月,綴喜,相楽,久世の南山城3郡におきた国一揆。山城国では,応仁・文明の乱後も畠山政長・義就の両派の対立が続き,各地で合戦が繰り返されていた。ことに同年10月以来,宇治川を挟んで両軍の対陣が60日にも及んだ。そのような状況下,12月11日に上は60歳から下は15,16歳の国人たちが集会し,一国中の土民が群集する中で,両畠山軍への撤退要求が決められた。しかも,退陣しない場合には国衆(くにしゆう)として攻撃を加えるという毅然たる態度で交渉を行い,両軍を退陣させることに成功した。

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大辞林 第三版の解説

やましろのくにいっき【山城国一揆】

1485年12月、山城国南部の国人・農民たちが連合して起こした一揆。応仁の乱以来、衝突を繰り返す守護畠山政長と畠山義就の軍勢を退去させ、守護不在のまま、8年間、自治的支配を続けたが、内訌ないこうの結果、93年解体した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

山城国一揆
やましろのくにいっき

1485年(文明17)12月、南山城で地侍(じざむらい)・名主(みょうしゅ)を中心に一般農民が加わって起こされた一揆。京都の合戦に始まった応仁文明(おうにんぶんめい)の乱は各地に広がり、当時河内(かわち)や南山城では畠山政長(はたけやままさなが)・同義就(よしなり)両軍による戦乱が続いていた。ことに同年10月以来、両軍は南山城で対陣したまま戦況は膠着(こうちゃく)状態に入ってしまい、そのため農民からは繰り返し人夫・兵粮米(ひょうろうまい)が徴発され、田畑は荒らされ民家は焼き払われた。このような状態に苦しめられた南山城の地侍や一般の農民たちは共同し、両畠山軍に南山城から撤退するように申し入れた。この申し入れは、『大乗院(だいじょういん)寺社雑事記(ぞうじき)』12月11日条によると、上は60歳から下は15歳に及ぶ国人(こくじん)が集会し、一国中の土民(どみん)が群集して決められたという。この集会では、ほかに寺社本所領は直務として大和(やまと)以下他国の代官を入れないこと、新関をいっさいたてないことなどを掟法(おきて)として定めた。さらに翌年2月には宇治平等院(うじびょうどういん)で再度の集会を開いて掟法の充実を図り、月行事を定めて自ら国を支配する体制を整えた。この組織は当時「惣国(そうごく)」とよばれ、その運営の費用は国中に半済(はんぜい)を実施することによって確保しようとした。しかし、この一揆の中心となった地侍たちは、それぞれ畠山義就に通じる古市(ふるいち)方の者と、畠山政長にくみした細川氏の被官に分かれており、この内部矛盾が激化し、1493年(明応2)伊勢(いせ)氏の山城国守護就任を認めることによって一揆は崩壊した。[黒川直則]
『鈴木良一著『中世の農民問題』(1971・校倉書房) ▽稲垣泰彦著『日本中世社会史論』(1981・東京大学出版会) ▽峰岸純夫編『土一揆』(『シンポジウム日本歴史9』1974・学生社) ▽稲垣泰彦・戸田芳実編『土一揆と内乱』(『日本民衆の歴史2』1975・三省堂)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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世界大百科事典内の山城国一揆の言及

【国一揆】より

…南北朝・室町時代に在地領主層が中央・地方における動乱への対応,および領主権確保を目的とし,契状を取り結ぶなどして地域的に連合した形態をいう。(1)一定の政治的意図をもって上から組織されたもの(九州探題今川了俊が南朝側勢力討伐のためにその軍事力として編成した面をもつ1377年(天授3∥永和3)の南九州国人一揆など),(2)新任の守護に軍事的に対抗したもの(1400年(応永7)信濃国人が守護小笠原氏と戦ったもの,後述の安芸国人一揆など),(3)山城国一揆のように,畠山氏両軍を追放して国人層による国内支配をおこなった事例,などがある。いずれも外部からの政治的契機によって形成されており,その意図が果たされたり,守護大名の領国支配が進展すれば解体する。…

【半済】より

…この半済給付権は,事実上守護の握るところであり,守護の領国支配にも大きな影響を与えたのである。注目すべきことは,かの山城国一揆が綴喜,相楽の山城国2郡に半済を実施したことである。これは国一揆が,一面では守護権を継承したことを物語っている。…

【山城国】より

…こののち,畠山氏が補任されることが多くなるとともに,畠山氏も山城国の在地武士を積極的に被官化する意図を示し,これが応仁・文明の乱(1467‐77)の一原因となった。応仁・文明の乱後も,畠山氏の山城国への影響が大きかったが,1485年(文明17)に山城国一揆が成立すると上(南)山城3郡(相楽,綴喜,久世)では93年(明応2)までの8年間,惣国の組織が自検断を行う国持体制が続いた。山城国一揆の崩壊後は,細川氏の山城国支配がしだいに定着していった。…

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