五代村(読み)ごだいむら

日本歴史地名大系 「五代村」の解説

五代村
ごだいむら

[現在地名]川内市五代町・上川内町かみせんだいちよう

水引みずひき宮内みやうち村の西にあり、西は同郷小倉こくら村、北は高城たきふもと村。南は川内川を隔てて薩摩郡隈之城くまのじよう宮里みやざと村。田海とうみ村・城上じようかみ村の山に源を発して南流し、当村北境に入り西へ流れる高城川は麦之浦むぎのうら川を合せたのち南流して川内川に入る。村名は新田神社別当寺であった五大ごだい院にちなむとみられる。文安三年(一四四六)一二月一三日の前遠江守康令譲状(新田神社文書)によれば、執印康令からその子執印三郎に「宮内五代」のうち三町五ヵ所などを譲与するとされている。

近世初期には水引村とよばれ、慶長(一五九六―一六一五)初年頃までは宮内村も含んでいたようである。


五代村
ごだいむら

[現在地名]岩木町五代

百沢ひやくざわ道の津軽平野への出口、大浦おおうら城跡の南西〇・五キロにあり、東は賀田よした村・一町田いつちようだ村、北は道を隔てて門前もんぜん村、西は築館つきだて村、南は兼平かねひら村に接する。

寛永一七年(一六四〇)の津軽百助宛の津軽信義黒印知行宛行状(国立史料館蔵)に「一五代村之内」とあり、村内に津軽百助の知行地があった。正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳に鼻和はなわ郡のうちとして村名がみえ、村高は二二八・六三石、うち田方二一二・三石である。貞享四年(一六八七)検地帳によれば、村高は三二九・八八七石、うち田方二四二・二〇二石、畑方八七・六八五石で、上々田・上田・中田が田方の七五・八パーセントを占める。


五代村
ごだいむら

[現在地名]前橋市五代町

北は小坂子こざかし村、北西鳥取とつとり村、西は端気はけ村、南と東は上泉かみいずみ村。西部を藤沢ふじさわ川が南流する。寛文郷帳に田方二八七石一斗余・畑方五四石四斗余とあり、「但松山雑木山芝野在」と注記される。天明二年(一七八二)の前橋藩領村々明細(井田文書)によれば田二〇町五反余・畑三〇町九反余、家数七〇、男一六五・女一一七、馬三二。天保七年(一八三六)の前橋藩領内の質屋一覧では村内に質屋一がいる(関家御用日記「下川淵村誌」所収)。明治一〇年(一八七七)頃の田反別二八町五反余・畑反別四〇町二反余、民業は「男農桑ヲ業トスル者七十戸、医術ヲ本業トスル者一戸、女養蚕製糸ヲ業トスル者男女二百三十人」で、牡馬二七、物産として蛹八三貫、生糸二〇貫があり、地味は「其色凡赤黒砂ニシテ其質悪シ、水利不便ナリ、時々旱ニ苦ム、桑麦等ニ適ス」と記される(郡村誌)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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