日本歴史地名大系 「宮内村」の解説
宮内村
みやうちむら
- 山形県:南陽市
- 宮内村
米沢盆地北部の渓口集落で、熊野神社の門前集落として発生した。同神社の銅製鰐口に、明応七年(一四九八)八月一日銘で「出羽国長井 熊野山 北条庄宮内」とある。「伊達世臣家譜」によると、応永年間(一三九四―一四二八)遠藤盛房が羽州南方奉行人となって当地に住した。永享一〇年(一四三八)、関東公方足利持氏が幕府に反抗した時、遠藤氏は持氏に味方して敗れ、以来伊達氏に属し采地六〇〇町を与えられた。以後伊達成宗・尚宗の執事となった盛実が、延徳二年(一四九〇)
一四世紀の八〇年代、伊達宗遠が
宮内村
みやうちむら
宮内村
みやうちむら
「西備名区」に「宮内郷、元は
宮内村
みやうちむら
宮内村
みやうちむら
- 新潟県:長岡市
- 宮内村
三国街道(現国道一七号)に沿って開けた集落。街道を南に上れば
宮内村
みやうちむら
- 広島県:庄原市
- 宮内村
穿入蛇行する
宮内村
みやうちむら
- 広島県:三原市
- 宮内村
谷の西側に
宮内村
みやうちむら
吉備の中山の北西麓、
宮内村
みやうちむら
- 鹿児島県:川内市
- 宮内村
薩摩郡
宮内村
みやうちむら
宮内村
みやうちむら
- 熊本県:熊本市
- 宮内村
慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では田方二五町九反余・畠方一〇町七反余、分米四〇一石三斗余とある。
宮内村
みやうちむら
宮内村
みやうちむら
宮内村
みやうちむら
宮内村
みやうちむら
宮内村
みやうちむら
宮内村
みやうちむら
宮内村
みやうちむら
- 山形県:寒河江市
- 宮内村
宮内村
みやうちむら
宮内村
みやうちむら
- 新潟県:新発田市
- 宮内村
宮内村
みやうちむら
宮内村
みやうちむら
- 新潟県:新発田市
- 宮内村
慶長三年(一五九八)新発田藩領となり、当時の御領内高付帳(新発田市史資料)に高三五五石九斗余、同一〇年の給知方村々高目録(同資料)には毛付一六一石五斗余・荒二〇四石六斗余とある。
宮内村
みやうちむら
宮内村
みやうちむら
松崎村の東、
宮内村
みやうちむら
宮内村
みやうちむら
宮内村
みやうちむら
砥部川下流に近い平地の村。北は
寛永一二年(一六三五)に松山藩領から大洲藩領となったいわゆる「
宮内村の田中喜三右衛門は加藤嘉明の時代に砥部郷大庄屋を命ぜられて世襲、六代喜三右衛門の時、替地となったが、引き続き大庄屋として大洲藩主から五人扶持と
宮内村
みやうちむら
宮内村
くないむら
- 熊本県:荒尾市
- 宮内村
近世は荒尾手永に属する。宝暦一三年(一七六三)の下ケ名寄帳によると惣畝数三九町六反八畝余、下ケ名は三〇みえ、釈迦・宮後・谷川・八反田・沖田・池上・東尾は明治の「郡村誌」にみえないものであり、山下・井手道・山中はまだ上と下に分れていない。
宮内村
みやうちむら
宮内村
みやうちむら
宮内村
みやうちむら
東は三千石村、南西は
貞享元年(一六八四)の郷村帳に、寛文四年(一六六四)以後の新田として五六五・九石とある。貞享四年の検地帳に田方二五町八畝一三歩、畑方四町七反四畝一八歩、田畑屋敷合せて二九町八反三畝一歩、村高二九一・九九三石、百姓三五人と記す。元禄三年(一六九〇)には赤田組に属し、村位は上である(平山日記)。同一五年三千石村と二ヵ村の再検地が行われ、一九七・九六五石、家数二〇とある(板柳町郷土史)。文政二年(一八一九)の卯年書上之表(同書)によると、村位は上で三千石村の寄郷になっており、田方一一町七反七畝二八歩、畑方八町三反七畝一四歩、人数四四、戸数八、うち百姓二、高無六、「右村並三千石、種田三ケ村ニ田畑並戸数別ニ有之候得共、古来ヨリ一村同様右準ジ候故、庄屋一人、五人組二人」とある。
宮内村
みやうちむら
- 愛媛県:北条市
- 宮内村
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の
字
宮内村
みやうちむら
宮内村
みやうちむら
- 秋田県:本荘市
- 宮内村
子吉川中流の平野部西岸に位置し、子吉川を挟んで東は
正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に二三九石とある。元禄一一年(一六九八)の出羽国由理郡之内村高帳には高二三九石六斗三升二合とあり、天保五年(一八三四)の出羽国由利郡之内郷村高帳(秋田県庁蔵)によれば二五八石とあり、寛永一六年(一六三九)の一八石五斗の新田を記している。
宮内村
みやうちむら
宮内村
みやうちむら
- 千葉県:佐倉市
- 宮内村
宮内村
みやうちむら
宮内村
みやうちむら
宮内村
みやうちむら
- 新潟県:新井市
- 宮内村
宮内村
みやうちむら
宮内村
みやうちむら
宮内村
みやうちむら
- 宮城県:古川市
- 宮内村
古川と
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報