宮内村(読み)みやうちむら

日本歴史地名大系 「宮内村」の解説

宮内村
みやうちむら

[現在地名]南陽市宮内

米沢盆地北部の渓口集落で、熊野神社の門前集落として発生した。同神社の銅製鰐口に、明応七年(一四九八)八月一日銘で「出羽国長井 熊野山 北条庄宮内」とある。「伊達世臣家譜」によると、応永年間(一三九四―一四二八)遠藤盛房が羽州南方奉行人となって当地に住した。永享一〇年(一四三八)、関東公方足利持氏が幕府に反抗した時、遠藤氏は持氏に味方して敗れ、以来伊達氏に属し采地六〇〇町を与えられた。以後伊達成宗・尚宗の執事となった盛実が、延徳二年(一四九〇)内親うちおや(現宮城県白石市)に移るまで、盛房・盛兼・盛俊・盛実の四代が当地を支配した。遠藤氏が去ったあとに懸田俊宗が入り、宮沢みやざわ(宮内館)にいた大津氏は一時その被官になったらしい(伊達正統世次考)

一四世紀の八〇年代、伊達宗遠が置賜おきたまを占領すると、宮内の宮沢に大津氏の祖先を封じたという。大津氏は熊野大権現に奉仕したと伝え、熊野宮一山古今日記(大津文書)には「嘉吉三年熊野堂炎上(中略)御太刀一振、獅子一頭ヤウヤク大津美作守コレヲ出シ奉ル」とみえる。大津氏については、永正六年(一五〇九)八月一一日伊達尚宗が越後出兵を命じた回文に「宮沢大津殿」とある(「国分胤重軍勢催促廻文写」奥羽編年史料所収文書)。大津源三は下長井庄堀金ほりがね(現東置賜郡川西町)などの田地と家屋を買収し、天文三年(一五三四)四月一〇日伊達稙宗に保証されている(「伊達稙宗安堵状案」伊達家文書)。天文八年八月一五日熊野神社に奉納された鐘(現在亡失)に「大津土佐仲次」と刻まれていたことが銘文の写にみえる(宮内町の文化財)


宮内村
みやうちむら

[現在地名]廿日市町宮内・串戸くしど一―五丁目

野貝原のがいばら山・折敷畑おしきばた山・烏帽子えぼし山の山間から流れ出る御手洗みたらい川の流域に開けた村。南東は地御前じごぜん村、北西は玖島くじま(現佐伯町)。三方を山や丘陵に囲まれ、東方のみ瀬戸内海に面して小平野が開ける。沿岸部を山陽道が通り、その街道沿いで湊もある串戸から石見津和野路が分岐する。御手洗川の流域には古代条里制の遺構が残り早くから開けた地と思われる。中世には厳島神社領宮内庄に属した。村内の藤掛尾ふじかけおは永正五年(一五〇八)桜尾さくらお城に拠った友田興藤と厳島神主職の継承をめぐって争った小方加賀守の居城があった地。明石あかし・折敷畑は天文二三年(一五五四)に毛利元就が陶晴賢の軍と戦った古戦場である。村名は永禄一一年(一五六八)七月二六日付の毛利元就同輝元連署判物(「閥閲録」所収桂久右衛門家文書)にみえ、当村四一町八反の地が毛利氏の重臣桂元澄の五男広繁に給地として与えられている。


宮内村
みやうちむら

[現在地名]新市町宮内

上安井かみやすい村・下安井村の西に位置し、神谷かや川の右岸域を占め、通称真光寺谷しんこうじだに連下れんげ・宮内の三地区に分れる。品治ほんじ郡に属した。「備後郡村誌」に「山五合田畑五合村ニ御座候、但四歩水損所、六歩旱損所」とある。

「西備名区」に「宮内郷、元は蓮花(連下)村、日隅村(中略)、本免村、天王村、江熊市(中略)等、宮内、新市(に)かけて一郷なりしを、安井谷によつて日隅を合せ二邨となり、本免、天王、江熊の半に古市を合せて新市とし、蓮花を宮内に合せらる」とあり、「福山志料」に「吉備津ノ宮ノ内ナレハカク名ツケシヨシ、慶長三年伊勢太夫配札帳ニハ宮内郷ト云今ノ町名、谷小路・砂入小路・中市・塔畑・蔵下・有木町・蔵本小路・新町・三王小路・館・神池小路等也」とみえる。以上から宮内という地名は吉備津きびつ宮の鎮座と関係して発生、中世には広域をさした宮内郷が分割されて宮内村が成立したらしいことがうかがえる。


宮内村
みやうちむら

[現在地名]口和町宮内

西城さいじよう川の支流はぎ川の上流にあたる宮内川および黒谷くろだに川流域を占める。東を笠尾かさお(一〇一九メートル)釜峰かまみね(七八八メートル)、西を八国見やくにみ(八四五メートル)鳥袋とりぶくろ(七七一メートル)に挟まれる南北に長い谷をなす地で、北は奥門田おくもんで(現高野町)、東は古頃こごろ(現比和町)、南は向泉むこういずみ村と湯木ゆき村。奥門田村との境にある金尾かなお峠は登りは二〇町、下りは一二町であった(芸藩通志)。八国見山は円錐形の整った姿をしており、「芸藩通志」に「備芸雲石、及び四国路を見る故にかく名づく」とあるように、恵蘇えそ郡南部はもとより、三上みかみ郡各所からも見ることができる。和銅年間(七〇八―七一五)以前より八国見山に多加意加美たかおかみ神社が鎮座していたといわれ、宮内という地名もそれによったと伝える(芸藩通志)


宮内村
みやうちむら

[現在地名]長岡市宮内二―八丁目・宮栄みやさかえ二―三丁目・かなめ町一―三丁目・西宮内にしみやうち一―二丁目・沢田さわだ一―三丁目・笹崎ささざき一―三丁目・あけぼの一―二丁目・東宮内ひがしみやうち町・三和さんわ一丁目・平島へいじま一―三丁目・今井いまい一丁目・同三丁目・左近さこん一―三丁目・宮内町

三国街道(現国道一七号)に沿って開けた集落。街道を南に上れば新町曲方あらまちまがりかた村・摂田屋せつたや村、北に下れば当村枝郷の宮原みやばら村。東は上条じようじよう村、西は当村枝郷の玄蕃げんば村・平島新田などに通ずる往来道がある。村名は当地に鎮座する一王子いちおうじ権現社(現高彦根神社)とかかわり、同社の門前に発達した集落であろう。天正村名考(温古之栞)に「宮の内四十八軒」と伝えるのが当村という。


宮内村
みやうちむら

[現在地名]庄原市宮内町

穿入蛇行する西城さいじよう川の南方、三上みかみ郡のほぼ中央に位置する。北と西は山で、東と西に緩やかな丘陵地が開ける。永末ながすえ村の野田のだ池に発する宮内川が村の中央部を北流し、竜王りゆうおう山北麓に切立つかやノ谷を通り西城川に注ぐ。西は庄原村、北東はたか村と接する。村域西部には竜王山古墳群(三基)陰地おんじ古墳群(六基)などがあり、高村・小用およう村へかけての丘陵地にも多数の古墳が分布する。大同年間(八〇六―八一〇)尾張国から永江権頭正房なる者がこの地に来住、備中から吉備津きびつ神社(現岡山市)を勧請したと伝える。古代の三上郡では重要な位置を占めた地と思われ、中世には永江ながえ庄の中心に位置し、「芸藩通志」は永江氏によって荘名を生じたとする。


宮内村
みやうちむら

[現在地名]三原市八幡やはた町宮内

美生みのう村の西にあり、村域の大半は山地で、南は竜王りゆうおう(六六五・一メートル)に連なる高山がそびえる。南西から北東へ流れる八幡川が形成する開析谷と、東流する八幡川支流域に耕地が展開。御調みつぎ郡に属した。

谷の西側に御調みつき八幡宮が鎮座するが、同社の縁起に北に官道ありと記され、当村の北部を古代山陽道が通じていたことが知られる。平安時代には石清水いわしみず八幡宮領の御調別宮みつきべつく(八幡庄)となった。中世には御調八幡宮の北東対岸のかつ山に渋川満頼が城を構え、同氏は天文(一五三二―五五)頃まで在城したと伝える。大永六年(一五二六)に渋川義陸が写し置いたものを天文一一年に伊香陸貞が書写した備後国御調郡八幡宮社領書立写(御調八幡宮文書)に宮内とあり、他に正徳しようとくなどの名を記す。


宮内村
みやうちむら

[現在地名]岡山市吉備津きびつ

吉備の中山の北西麓、川入かわいり村の北に位置する。すぐ東は備前国であり、北端を山陽道が通る。村名は吉備津神社の門前集落にちなむ。天正一〇年(一五八二)三月の羽柴秀吉禁制(写、吉備津神社文書)が備中国宮内に下されている。慶長六年(一六〇一)には、幕府が都宇つう郡宮内村のうちの高一六〇石を吉備津神社領として寄進(「加藤正次外連署奉書」同文書)、この一六〇石には慶安元年(一六四八)八月二四日付で徳川家光の朱印状(同文書)が下され、以後幕末に至った。寛永備中国絵図には都宇郡として村名がみえ、高一千二四六石、庭瀬藩戸川氏領。正保郷帳以後、賀陽郡になっている。朱印地である吉備津社領以外の支配は元禄元年(一六八八)に幕府領で高一千五九二石余(「領知目録」上坂文書)。石高の増加は板倉いたくら村分が当村へまわされたためと思われる。同一二年には庭瀬藩板倉氏領(「領知目録」吉備郡史)。以後幕末まで同藩領。


宮内村
みやうちむら

[現在地名]川内市宮内町大王町だいおうちよう花木町はなのきちよう若葉町わかばちよう御陵下町ごりようしたちよう上川内町かみせんだいちよう

薩摩郡隈之城くまのじよう宮里みやざと村の北、川内川右岸にある。高城たき水引みずひき郷に属し、東は同郷大小路おおしようじ村、西は同郷五代ごだい村、北は同郡高城郷ふもと村。村名は八幡新田宮(現新田神社)があることに由来する。応永三年(一三九六)二月一三日の阿蘇谷久治寄進状(新田神社文書)に「高城郡内宮内五大院薗一所」とみえ、久治相伝の所領である同所が毎月観音経八巻読誦のために八幡新田宮へ寄進された。文安三年(一四四六)一二月一三日には「宮内五代」のうち三町・五ヵ所などが前遠江守康令から執印三郎に譲渡されている(「前遠江守康令譲状」同文書)


宮内村
みやうちむら

[現在地名]大和村宮内

都賀行つがゆき村の南西、南流する宮内川上流域の谷間の村。元和五年(一六一九)の古田領郷帳に村名がみえ、高一七六石余、年貢高は田方一五八石余・畑方一七石余。正保四年(一六四七)の古田領郷帳では高三四一石余、免六ツ二朱。元禄一〇年(一六九七)石見銀山領村々覚によれば田方三〇五石余・畑方三六石余、年貢高は米一五七石余・銀二八七匁余、小物成は藪役一三匁余、家数は本家四八・門屋一一、人数二一九。


宮内村
みやうちむら

[現在地名]熊本市島崎しまさき一―二丁目・段山本だにやまほん町・横手よこて一丁目・同四丁目

石神いしがみ(一六三メートル)の東側に位置し、南流する井芹いせり川の両岸に沿う。東は城下町、北は牧崎まきざき村、西は島崎村に接する。宮内村の東は藤崎ふじさき台につながり、かつての藤崎宮の境内郷的所領、宮内庄の一部であったと思われる。宮内庄の名は文明八年(一四七六)と推定される六月二日の菊池重朝書状(藤崎八幡宮文書)にみえる。宮内庄は藤崎宮の所領のうち、飽田あきた郡内分の呼称と思われ、当然近世の宮内村より広域の地域をさしたと思われる。

慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では田方二五町九反余・畠方一〇町七反余、分米四〇一石三斗余とある。


宮内村
みやうちむら

[現在地名]姫路市網干区宮内あぼしくみやうち

坂上さかのうえ村の東に位置し、南流する大津茂おおつも川右岸に立地する。村内を宮内川が東流し、南東の大江島おおえしま村で大津茂川に合流する。揖東いつとう郡に属する。中世には福井ふくい庄に含まれ、同庄鎮守魚吹うすき八幡神社がある。長享元年(一四八七)と推定される福井庄村名注文(吉川家文書)に福井庄二八ヵ村の一として宮内村とみえる。天正一五年(一五八七)九月二四日、木下家定は豊臣秀吉から宮内村三三五石余などを宛行われている(「豊臣秀吉知行方目録」木下家文書)。慶長六年(一六〇一)一一月三日、毛利孫左衛門は池田輝政から当村内の二六五石など都合五〇〇石を与えられている(「池田輝政家臣地方知行状」鳥取県立博物館蔵)


宮内村
みやうちむら

[現在地名]中原区宮内

多摩川中流域右岸の自然堤防沿いにあり、東は多摩川および荏原えばら等々力とどろき(現東京都世田谷区)の飛地、西と南は上小田中かみこだなか村、北は荏原郡下野毛しものげ(現世田谷区)の飛地(現高津区)に接する。西境を北見方きたみかた(現高津区)から小杉こすぎ村へ流れるりよう用水を利用。さんさい耕地こうち古川耕地ふるかわこうち川田耕地かわだこうち前耕地まえこうち堤外耕地ていがいこうちの小字がある。


宮内村
みやうちむら

[現在地名]出石町宮内

坪井つぼい村の南、出石川の右岸に位置し、集落は権現ごんげん山の西麓、此隅山このすみやま南麓の谷間に発達。中央に但馬国一宮出石神社、東方の谷奥には同社神宮寺であった総持そうじ寺がある。中世には山名氏の居城此隅山城が築かれ、当地はその膝下として賑わった。地内には涅槃寺ねはんじ神宮寺じんぐうじ宗鏡寺すきようじ願成寺がんじようじなどの字が残るが、これらは山名氏が此隅山城を居城としていた頃にあった同名の寺院の跡と考えられる。なお古くは宇馬橋うまはし村と称していたという(校補但馬考)


宮内村
みやうちむら

[現在地名]窪川町宮内

仕出原しではら村の北、四万十しまんと川の右岸にあり、村の東部に南北に長い沖積地がある。「仁井田郷談」(「南路志」所収)によれば、仕出原村とともに古くは仁井田にいだ庄のうちの蹉分。天正一七年(一五八九)の仁井田之郷地検帳の「宮内村」「柳之川之谷」「払川之村」「カミノハシツフテウチ」が村域に比定され、総地積四四町余、ヤシキ七六筆。大部分が金剛福こんごうふく(現土佐清水市)領である足摺あしずり(蹉分)で、一部に窪川分・西原分が散在していた。


宮内村
みやうちむら

[現在地名]中之島村宮内

信濃川右岸の沖積微高地にあり、集落は権太夫ごんだゆう新田東の字腰巻こしまきを中心とする集落、長呂ながろ村の北字江側えがわの集落、島田しまだ村北の通称宮内下みやうちしも村に散在する。宮内下村では島田村・長呂村と錯綜する。直江兼続が三条城の甘糟長重に検地を指示した文禄四年(一五九五)六月一一日の黒印状(上松文書)に、出雲田いずもだ庄のうちとして村名がみえる。「温古之栞」によると、天文年中(一五三二―五五)森内記の居城があったという。その後長尾景昌の居城となり、地名により姓を宮内と改め、その子景基が慶長(一五九六―一六一五)の初めまで在城したという。


宮内村
みやうちむら

[現在地名]佐田町宮内

東は多根たね村・松笠まつかさ(現掛合町)、南は原田はらだ村、西は反辺たんべ村。須佐すさ川と原田川が形成する三角形の盆地で、その北側に主集落がある。集落は山中やまなか塚脇つかわき尾崎おさき塩原しおばら伊儀いぎ曾我里そがりで構成される。村名は宮中みやなか村と称した時期がある。また須佐村ともいわれた。正保国絵図に村名がみえる。慶安元年(一六四八)の宮内村御検地帳では田方八町三反余・分米一一八石余、畑方二町余・分米一一石余、屋敷数は役屋敷五・御免屋敷一一とある。


宮内村
みやうちむら

[現在地名]寒河江市宮内

白岩しらいわ村の西、寒河江川の北岸に位置し、六十里越街道が通る。西は熊野ゆうの(現西村山郡西川町)。中世には当地から熊野にかけてを熱塩あつしお郷といった。最上氏改易後、高一二八石余の幕府領宮内村と高一四六石余の左沢藩領宮中みやなか村に分立したが(最上盛衰実録分・最上記)、明治九年(一八七六)の宮内村由緒及び村勢報告書控(設楽文書)に「当村古来より一村立ニ有之、分離等無之候得共、同村之内、高百四拾六石五斗五升酒井大学守領分宮中村与唱ひ候而已、民家無之、当村江接スル田畑ニ而従来定免ニテ同郡左沢役場江年々上納仕来候」とあるように、宮中村は実体のない田畑をさしたものであった。


宮内村
みやうちむら

[現在地名]児玉町宮内

飯倉いいぐら村の北西に位置し、西は金鑽かなさな村・渡瀬わたらせ(現神川町)、北は新里にいさと(現同上)。暦応三年(一三四〇)正月二四日および同年八月二二日の二通の安保光泰譲状(安保文書)には、惣領の泰規に譲与した所領として「児玉郡枝松名内宮内郷」などとみえ、宮内郷は枝松えだまつ名のなかに含まれていた。貞治二年(一三六三)一二月二二日、鎌倉公方足利基氏が賀美かみ安保あぼ(現神川町)の本領とともに宮内郷を安保泰規に還補しているが(「足利基氏御判御教書」同文書)、これは泰規が康安元年(一三六一)から貞治元年の畠山国清の乱に加担したため、両郷がいったん鎌倉府に没収されていたことによるのであろう。


宮内村
みやうちむら

[現在地名]新発田市東宮内ひがしみやうち

中妻なかづま村の東北、加治かじ(要害山、一六五・六メートル)の麓にある。加治山は櫛形くしがた山脈南端に位置し、坂井さかい川・加治川の流れを眼下に、展望の開けた要地で、佐々木加地氏の山城があった。山頂に主郭、周囲の尾根に曲輪や堀の遺構が残る。近世ははじめ村上藩領で、正保国絵図では七三〇石余。万治二年(一六五九)の検地帳(新発田市史資料)によると蔵光組に属し、田五町三反余で七四石一斗余、畑四町九反余で三〇石六斗余、ほかに宝岩ほうがん寺屋敷四畝など。上田・上畑がかなりある。のち幕府領を経て享保九年(一七二四)黒川藩領となるが、明和六年(一七六九)再び幕府領。同年の指出帳(新発田市史資料)によると家数一八(うち寺一)、人数一一九、川船二、馬二、犬一。


宮内村
みやうちむら

[現在地名]保内町宮内

宮内川の中流域にある農村。宮中村とも書く墅截)。北は両家りようけ村、南は川之石かわのいし浦に接する。宇和島藩領。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「宮内村 茅山有、小川有」とある。

「大成郡録」に記された太閤検地の村高は六〇五石九升七合、耕地面積の比率は田五二パーセント、畑四八パーセントであったが、寛文検地では村高が一・五倍となり、耕地面積が田三二パーセント、畑六八パーセントと変化しており畑の開発が進んだことがわかる。


宮内村
みやうちむら

[現在地名]新発田市西宮内にしみやうち

北蓑口きたみのぐち村の西北にあり、西南は太田おおた川を挟んで西蓑口村。村内に天喜二年(一〇五四)創立と伝える八幡宮(旧村社)があるが、一帯はその社領地で、宮ノ内と称したという。往古は社家が多く、八幡宮坊所の真言宗六ヵ寺があったという(宮内村々誌)

慶長三年(一五九八)新発田藩領となり、当時の御領内高付帳(新発田市史資料)に高三五五石九斗余、同一〇年の給知方村々高目録(同資料)には毛付一六一石五斗余・荒二〇四石六斗余とある。


宮内村
みやうちむら

[現在地名]静岡市安東あんどう一―三丁目・長谷町はせちよう大岩本町おおいわほんちよう

駿府城下の北に位置し、西は鳥居とりい宿。かつては駿府浅間社(静岡浅間神社)の周辺すべてをさし、浅間社領のため宮内と称したという(駿河記)。慶長年間(一五九六―一六一五)駿府築城のとき瓦工の茂左衛門・長十郎が遠州浜松からよばれたが、元文二年(一七三七)から造営瓦は入札となり、寛延二年(一七四九)その宅地は高入新田となった(修訂駿河国新風土記)


宮内村
みやうちむら

[現在地名]松崎町宮内

松崎村の東、那賀なか川下流域の両岸に位置する。松崎村より分村したと伝える(掛川誌稿)。賀茂郡に属する。初め幕府領、天明二年(一七八二)から同五年相模小田原藩領、文政八年(一八二五)旗本大久保領となり幕末に至る(「韮山町史」など)元禄郷帳によると高二三五石余。「掛川誌稿」によると戸数四〇・人数一九〇。新島しんしまの百姓は貞享四年(一六八七)に漁船五艘・小早船三艘を所持し、船役金三分・京銭四五〇文、釣十分一金一両三分を上納していたが、その後困窮して天当船一艘のみとなり、それを漁船に造り替えたという(明和七年「新島百姓所持の天当船につき書付」関家文書)。宝永八年(一七一一)当村と伏倉しくら村は桜田さくらだ村との間で山崎やまさき山についての紛争があった(「証文」関家文書)


宮内村
みやうちむら

[現在地名]東伯町宮場みやば

八段田はつたんだ村の南西に位置する。拝領高は八七石余。竹運上銀五四匁を課されていた(藩史)。幕末の六郡郷村生高竈付によれば生高一〇七石、竈数四。元治二年(一八六五)の八橋郡村々余業取調帳(河本家文書)では家数四で、うち余業二(豆腐屋一など)。「在方諸事控」安永三年(一七七四)八月二九日条によれば、当村・馬場ばば村・矢下やじた村の三ヵ村は東高尾ひがしたかお(現大栄町)分領で肥草を刈っており、草手米五斗を山元である同村へ納めていた。明治一〇年(一八七七)馬場村と合併し宮場村となった。


宮内村
みやうちむら

[現在地名]新宮町宮内

下野しもの村の西、揖保川中流域右岸に位置し、揖東いつとう郡に属した。慶長国絵図に村名がみえる。江戸時代の領主の変遷は新宮村と同じ。元和三年(一六一七)の揖東郡郷帳(池田家文書)では高二九五石余。正保郷帳では田方一七九石余・畑方六六石余。寛文一〇年(一六七〇)の旗本池田氏知行郷帳留(池田家文書)には増高二九五石余、高二四六石余と記される。天保郷帳には「香山宮内村」と記され、高二九五石余。諸事仕来控帳(斉明寺家文書)によると、寛政五年(一七九三)の家数三六・人数一三八、牛二一。公儀測量方道筋改指出帳写(同文書)によると、文化一〇年(一八一三)の家数三五・人数一四二、牛二五。


宮内村
みやうちむら

[現在地名]砥部町宮内

砥部川下流に近い平地の村。北は麻生あそう村、南は千足せんぞく村、西は川井かわい村、東は現松山市に接する。

寛永一二年(一六三五)に松山藩領から大洲藩領となったいわゆる「御替地おかえち」に属し、江戸時代を通じ大洲藩領で、浮穴うけな郡砥部郷一九村の一である。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の浮穴郡の項に「宮内村 川有」、高三六〇石九斗一升五合、うち田二九七石七斗二合、畠六三石二斗一升三合と記す。元文五年(一七四〇)の「大洲秘録」に「土産 米・大豆・柿・むしろ、土地よろし、民家豊饒也」とある。

宮内村の田中喜三右衛門は加藤嘉明の時代に砥部郷大庄屋を命ぜられて世襲、六代喜三右衛門の時、替地となったが、引き続き大庄屋として大洲藩主から五人扶持と城之内じようのうち新田のほか山林四ヵ所を与えられた。


宮内村
みやうちむら

[現在地名]東郷町宮内

藤津ふじつ村の北西、東郷池の北東岸で、御冠みかんむり(一八六・三メートル)の西麓に位置する。同山麓には倭文しとり神社が鎮座し、村名も同社にちなむとされる。御冠山には天正九年(一五八一)一〇月鳥取城を落し、羽衣石うえし城主南条氏の救援のため伯耆国に進入した羽柴秀吉が拠ったという。同月二七日秀吉は御冠山に着陣し、吉川経家の弔い合戦の決意を固めた吉川元春の本隊と対陣したが、秀吉は無駄な犠牲を出すことを避け、羽衣石城に糧食・弾薬を補給し蜂須賀正勝を残して、翌二八日に当地を引払って因幡へ戻ったという(「陰徳太平記」など)


宮内村
くないむら

[現在地名]荒尾市宮内

はかま岳の南西山麓、うら川上流域に立地し、北東は袴岳を境に原万田はらまんだ村・下井手しもいで村、南東は荒尾村、北と西は宮内出目くないでめ村に接する。野原八幡宮祭事簿(野原八幡宮文書)の建治三年(一二七七)の項に「国方大行事、同丸、宮内三郎別当」とみえる。「国誌」は「八龍大明神社」の項に「里老ノ説、当郡野原八幡宮始ハ当所ニ勧請、因テ地名ヲ宮内村ト号ス」と記す。

近世は荒尾手永に属する。宝暦一三年(一七六三)の下ケ名寄帳によると惣畝数三九町六反八畝余、下ケ名は三〇みえ、釈迦・宮後・谷川・八反田・沖田・池上・東尾は明治の「郡村誌」にみえないものであり、山下・井手道・山中はまだ上と下に分れていない。


宮内村
みやうちむら

[現在地名]奈義町宮内

那岐なぎ山南麓に立地。是宗こりむね村の東にあたり、南は沢東さわひがし村・沢西村。正保郷帳に村名がみえ、田二六三石余・畑五五石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高六〇石余・開高一一石余、村位は中。美作国郡村高并戸数里程事(武家聞伝記)によれば、延宝(一六七三―八一)頃と考えられる戸数五三(うち小崎五・竹下五・森一・長そい九・岡八など)、延宝四年からは津山藩主の弟森長俊領。森氏断絶後の領主の変遷は荒内西あらうちにし村などと同様とみられるが、天明四年(一七八四)には播磨三日月藩の預地(二宮文書)。幕末期には備中倉敷代官支配と津山藩領に分れ、のち但馬生野代官支配(郷中条目)


宮内村
みやうちむら

[現在地名]太田町三本扇さんぼんおうぎ 宮内

川口かわぐち川扇状地の平地にあり、川を挟んで北は横堀よこぼり(現仙北町)、西は羽見内はみない村に接する。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に一五四石とある。享保一四年(一七二九)の黒印高帳(秋田県庁蔵)に本田当高一三五石余、本田並当高六石余、新田当高一三石余とある。同期の「六郡郡邑記」に「宮野内村 野の字除る」とあり、家数は二軒、支郷はなか村五軒、三本柳さんぼんやなぎ村四軒の小村。


宮内村
みやうちむら

[現在地名]板柳町三千石さんぜんごく

東は三千石村、南西は種田たねだ村に連なる。

貞享元年(一六八四)の郷村帳に、寛文四年(一六六四)以後の新田として五六五・九石とある。貞享四年の検地帳に田方二五町八畝一三歩、畑方四町七反四畝一八歩、田畑屋敷合せて二九町八反三畝一歩、村高二九一・九九三石、百姓三五人と記す。元禄三年(一六九〇)には赤田組に属し、村位は上である(平山日記)。同一五年三千石村と二ヵ村の再検地が行われ、一九七・九六五石、家数二〇とある(板柳町郷土史)。文政二年(一八一九)の卯年書上之表(同書)によると、村位は上で三千石村の寄郷になっており、田方一一町七反七畝二八歩、畑方八町三反七畝一四歩、人数四四、戸数八、うち百姓二、高無六、「右村並三千石、種田三ケ村ニ田畑並戸数別ニ有之候得共、古来ヨリ一村同様右準ジ候故、庄屋一人、五人組二人」とある。


宮内村
みやうちむら

[現在地名]北条市宮内

河野こうの川の下流北岸に位置し、高縄たかなわ山のはるか西山麓に集落がある。東は善応寺ぜんおうじ村、南は常保免じようほうめん村、西は別府べつぷ村、北は中西外なかにしそと村・八反地はつたんじ村に接する。

慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)風早かざはや郡の項に「宮内村 林少有」とみえ、村高は一三一石八斗六升八合、うち田方一一四石六斗三升五合、畑方一七石二斗三升三合とある。江戸時代を通じて同じ村高。

馬場ばば(馬場ノ内)にある高縄たかなわ神社は保延二年(一一三六)高縄山上から移建されたという。


宮内村
みやうちむら

[現在地名]大山町宮内

坊領ぼうりよう村の西、孝霊こうれい山北東麓にある。村名は、宮(高杉神社)の区域内にあることにちなむという(大山町誌)。拝領高は二五六石余、本免は四ツ二分。野崎氏の給地があった(給人所付帳)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」では高一九六石余、竈数三〇余、天保九年(一八三八)の御巡見様御通行万端袖控(橋井家文書)では家数四〇。幕末の六郡郷村生高竈付では生高三一〇石余、竈数三五。天保三年の山林は二五町余、藪役二匁二分余を課されていた(藩史)。元禄(一六八八―一七〇四)初年と宝永二年(一七〇五)に大山領坊領村との間に孝霊山草山争論が起こり(「鳥取藩・大山領懸合一件」中津尾家文書)、文化一四年(一八一七)にも当村など二一ヵ村と坊領村の間で孝霊山草刈場をめぐる争いがあり、八橋やばせ郡大庄屋武信氏の仲介で内済となった(文化一四年「覚書」三浦家文書)


宮内村
みやうちむら

[現在地名]本荘市子吉こよし 宮内

子吉川中流の平野部西岸に位置し、子吉川を挟んで東は荒町あらまち村・三条さんじよう村で、西は埋田うめた村、南は玉の池たまのいけ村と接する。子吉川対岸に渡る私渡があった。近世は本荘藩で、鮎川あゆかわ郷に属した。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に二三九石とある。元禄一一年(一六九八)の出羽国由理郡之内村高帳には高二三九石六斗三升二合とあり、天保五年(一八三四)の出羽国由利郡之内郷村高帳(秋田県庁蔵)によれば二五八石とあり、寛永一六年(一六三九)の一八石五斗の新田を記している。


宮内村
みやうちむら

[現在地名]阿南市長生町ながいけちよう

三倉みぐら村の北に位置し、北は西方にしがた村。慶長二年(一五九七)の分限帳に武藤与左衛門知行分として那西なさい郡宮内二二八石余とみえる。慶長期のものと推定される国絵図にも宮内とあるが、寛永(一六二四―四四)前期のものと推定される国絵図には「くない村」と記される。正保国絵図では高二二八石余。寛文四年(一六六四)郷村高辻帳では田方二一一石余・畠方一六石余、芝山がある。天明六年(一七八六)の村々浦里男女人改帳(守野家文書)では男八七・女九七・僧四・山伏四。文化一〇年(一八一三)の高都帳では高二八五石余。「阿波志」では土田は水陸田二一町七反余、高二八五石は一〇分の七が采地。


宮内村
みやうちむら

[現在地名]佐倉市宮内

飯塚いいづか村の南東、弥富やとみ川左岸に位置。天正一八年(一五九〇)に北条氏勝(岩富藩)領となり、翌一九年の下総国白井庄宮内村御縄打水帳(成田山仏教図書館蔵)がある。慶長一九年(一六一四)の東金御成街道覚帳では高一六〇石、普請間数一町三〇間。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高一六三石余、佐倉藩領で幕末まで同じ。寛延二年(一七四九)の佐倉藩領村高覚でも同高で、夫役永四八五文・山銭鐚一貫五〇〇文。


宮内村
みやうちむら

[現在地名]尾島町阿久津あくつ 宮内

亀岡かめおか村字軽浜かるはまの西より大館おおたち村東部に至る低台地に位置し、南は阿久津村水入みずいり、北は大館村字鍛冶屋かじや馬場ばばの耕地。寛文郷帳に村名がみえ、幕府領で畑方のみ。江戸後期の御改革組合村高帳では旗本小笠原領。明和二年(一七六五)の徳川家康百五十回忌の際、日光例幣使街道木崎きざき宿(現新田町)の加助郷村となり、勤高一二〇石(「日光御法会宿助郷人馬割付」小川文書)


宮内村
みやうちむら

[現在地名]浜岡町宮内

現浜岡町の南東端、比木ひき川中流の右岸に位置し、北は下比木村、西は佐倉さくら村。元禄郷帳にメウヂ、「遠淡海地志」にはメウチの訓が付されているが、明治一八年(一八八五)の内務省地理局編纂「地名索引」ではミヤウチ。正保郷帳に村名がみえ、田方二六七石余・畑方七五石余、「日損」の注記がある。同郷帳および「寛文朱印留」では横須賀藩領。元禄郷帳では高三六二石余、同郷帳の国立史料館本によると旗本米津領。


宮内村
みやうちむら

[現在地名]新井市宮内

青田南葉あおたなんば山の東山麓、矢代やしろ川支流のうち川の西岸にあり、雪森ゆきもり村・神宮寺じんぐうじ村と接する。村内の字屋敷連やしきづきに式内社の斐太ひだ神社が鎮座することから村名が生れたと思われる。正保国絵図に高一八三石余とある。天和三年郷帳に高一六四石二斗余、うち山高六斗三升とあり、ほかに宮内新田高一一石七斗余が記される。


宮内村
みやうちむら

[現在地名]会津若松市大戸町雨屋おおとまちあまや

阿賀川東岸にあり、北は下雨屋しもあまや村、南は上雨屋村。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高七九石余。南青木組に属し、文化一五年(一八一八)の村日記では高七三石余。化政期の家数一三(新編会津風土記)。明治四年(一八七一)の家数一三(社一)・人数七九(人員録)


宮内村
みやうちむら

[現在地名]和田山町宮内

円山まるやま川支流の石和いさわ川の下流域、法道寺ほうどうじ村の北にある。養父やぶ郡に属し、「延喜式」神名帳に記す養父郡三〇座の一つ「盈岡神社」は当地の同名社に比定される。正保(一六四四―四八)頃の国絵図に村名がみえ、高一七二石余。寛文八年(一六六八)豊岡藩領となり、以後は宮田みやだ村と同じ変遷であったと推定される。


宮内村
みやうちむら

[現在地名]古川市宮内

古川と松山まつやま(現志田郡松山町)を結ぶ街道沿いにある。北は大幡おおはた村、南と東は師山もろやま村、西は境野宮さかいのみや村と接する。正保郷帳に田三一貫四一八文・畑八貫二三二文とあり、ほかに同所新田一三貫二二八文がある。「安永風土記」によれば、田四七貫一三文・畑八貫七八七文で、蔵入は六貫二〇一文、給所は四九貫五九九文、人頭二九人(うち沽却禿三)、家数二九(うち借屋三)、男八四・女五七、馬一二とあり、本山派の明宝めいほう院は元禄一一年(一六九八)の開院で、仙台良覚院の支配、本尊は不動明王であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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