五十土村(読み)いかづちむら

日本歴史地名大系 「五十土村」の解説

五十土村
いかづちむら

[現在地名]若葉区五十土町・大広町おおひろちよう

川井かわい村の南にある。寛永一四年(一六三七)年貢割付状(石原家文書)に村名がみえ、幕府領で高四九石余、年貢米五四俵余・永一貫二文のほか、永一六文は大豆納。同一九年佐倉藩領、万治三年(一六六〇)幕府領、寛文元年(一六六一)佐倉藩領、元禄一二年(一六九九)旗本戸田領となり、幕末に至る。宝暦七年(一七五七)の田四町二反余・畑一町九反余・屋敷一反四畝余(「名寄帳」加藤家文書)


五十土村
いかづちむら

[現在地名]由利町五十土

子吉こよし川中流右岸の段丘上にあり、北に大水口おおみなくち村、西は窪田くぼた村、南は小菅野こすがの村と接する。

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)に滝沢領の一村として村名がある。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に五拾土村三一九石とあり、元禄一一年(一六九八)の出羽国由理郡之内村高帳にも同じ村高が記される。灌漑用水として村の東南に東西二〇間、南北四八間、周囲二町一六間余の馬場野ばばの堤があり、中沢なかざわ堰・面間つらまさわ堰などが利用された。


五十土村
いかづちむら

[現在地名]柏崎市五十土

西は成沢なりさわ村、東は黒川くろかわ(現刈羽郡刈羽村)、北は油田あぶらでん(現刈羽村)三島さんとう郡境に近い僻村。天和二年(一六八二)の除地口上書(猪俣良英氏蔵)によると、上杉景勝の頃赤田あかだ(現刈羽村)城主斎藤下野守の支配下にあり、作柄悪く百姓は退転していたが、当村庄屋又右衛門の先祖が田地を開き百姓を住まわせたとある。このときの褒美として受けた田地屋敷は、天和検地の際に除地としてほしいとある。近世は元和二年(一六一六)から同四年の長峰藩牧野忠成領を除いて高田藩に属して柏崎町と同じ変遷を続けたが、正徳元年(一七一一)に与板藩領、文化一二年(一八一五)幕府領出雲崎いずもざき代官所支配、幕末に上山藩領となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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