五千石在(読み)ごせんごくざい

日本歴史地名大系 「五千石在」の解説

五千石在
ごせんごくざい

江戸時代、天田郡の北部由良川の支流まき川左岸(北岸)から丹後境にかけての一五村すなわち上佐々木かみさささき村・中佐々木村・下佐々木村・喜多きた村・上野条かみのじよう村・下野条村・行積いつもり村・長尾ながお村・天座あまざ村・一尾いちお村・瘤木こぶのき村・大呂おおろ村・大内おおち(上大内村)野端のばな村・えびす村を総称してよんだ。「五千石領」ともいい、地名としても使われた。

この地域は中世佐々岐ささき(上山保・下山保)にほぼ一致し、金山氏次いで桐村氏の支配するところであった。天正年間(一五七三―九二)明智光秀・同秀満の所領となり、次いで豊臣秀吉の蔵入地であったが、江戸時代に入り、福知山城主代々の所領となった。しかし延宝五年(一六七七)上総国飯野藩主保科正景が大坂城定番に補せられた時、この地方に五千石余を加増され、それが先記一五村の地であった。

享保一五年(一七三〇)の保科領(摂州・江州・丹波)六郡御高帳(和久昇一家文書)によれば、一五村の高合計五千石余、小物成は一五村合わせて銀一貫九六二匁八分である。この頃の家数は八五一軒(「永代付込帳」佐賀村誌草稿)

享保一七年、西国一帯は凶作に襲われ、五千石在でも貢租上納に困窮したが、定免制のため稲の作柄が悪くても検見が受けられず、減税の願出もできなかった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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