五島純玄(読み)ごとう・すみはる

朝日日本歴史人物事典 「五島純玄」の解説

五島純玄

没年文禄3.7.28(1594.9.12)
生年永禄5(1562)
安土桃山時代武将,肥前国五島(長崎県)の領主次郎,修理大夫,大和守,若狭守。法名は子峰源師。宇久純尭の子。天正15(1587)年,九州に下向した豊臣秀吉に謁見し,所領の五島を安堵される。文禄1(1592)年,朝鮮出兵を命じられ,4月12日に名護屋より渡海。このとき宇久姓を五島姓に改めた。朝鮮に出陣中,疱瘡のため病没。その跡は叔父の大浜玄雅が継いだ。

(佐伯弘次)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「五島純玄」の解説

五島純玄 ごとう-すみはる

1562-1594 織豊時代の武将。
永禄(えいろく)5年生まれ。宇久純尭(うく-すみたか)の長男。天正(てんしょう)15年(1587)肥前福江(長崎県)の領主宇久氏をつぎ,豊臣秀吉に1万5530石の所領をみとめられる。文禄(ぶんろく)の役の折,姓をあらため五島家初代となる。朝鮮では先陣をつとめ,転戦中の文禄3年7月28日病死。33歳。通称は次郎。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の五島純玄の言及

【福江藩】より

…肥前国(長崎県)南松浦郡福江に藩庁を置いた外様小藩。藩主は五島氏。1万2530石。五島藩ともいう。松浦党(まつらとう)の成員であった五島列島北端の宇久氏は,南端の福江島進出を契機として海上貿易権を掌中に収め,有力な在地領主を同族化することによって五島列島の統一に成功し,1587年(天正15)豊臣秀吉の九州征伐後,本領を安堵されて近世大名となった。石高は1万5530石。1655年(明暦1)5代藩主盛勝のとき,叔父盛清に3000石(富江領)を分知してから1万2530石となる。…

※「五島純玄」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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