井土村
いどむら
[現在地名]熊野市井戸町
木ノ本浦の西に連なる。慶長六年(一六〇一)の検地帳(徳川林政史蔵)に「井土村」と記される。「紀伊続風土記」に「村中に産する蓮根美味にて名産とす」とあるように、井戸川下流付近には沼地が多かったが、現在は埋立てられ宅地に造成されている。同書は村名に「韋豆智」と訓を付す。新宮領で有馬組に属する。近世初期の家数は四二(「新宮藩御勘定方旧記」和歌山県史近世史料編)であったが、後期は一二〇(紀州新宮領分見聞記)。
寛永(一六二四―四四)頃、異国船の来航に備えて浦組制が創設されたが、正徳六年(一七一六)三月の新宮附浦組帳写(熊野市教育委員会蔵)によれば、当村では三一五人が対象となり、事に備えて半数の人員が出動要員として常に待機した。
井土村
いどむら
[現在地名]温泉町井土
竹田村の北にある。東側を岸田川が北流し、北東は金屋村。二方考地理第三八太郷(温泉町教育委員会蔵)によると枝郷に黒坂・福岡・八日市がある。地内には奈良時代とされる井土廃寺があり、郡治の地名も残ることから、古代の二方郡衙は当地に置かれたとする説がある。また古代山陰道の面治駅も八日市に比定する説が有力である。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」には「いと村」「くろさか」「八日市は」(八日市場)の地名がみえ、「いと村」には黒坂けんはん殿・同弥左衛門殿・同大和守殿などが居住し、糀屋があり、また八日市場(八日市)には谷村殿などが住していた。
井土村
いどむら
[現在地名]三朝町西尾
波伯山村の南に位置する。拝領高六五石余。寛永一〇年(一六三三)鳥取藩により当村のうち高七七石余など都合一〇〇石が、三徳山領として寄進された(「池田光仲家臣連署寄進状」三仏寺文書)。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「伯耆誌」には井戸村とみえ、高七〇石余、竈数一四。「波伯山村ヨリ南ノ山九分ニ村有。加茂谷吉尾村ヘ越ス。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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