人首村
ひとかべむら
角掛・菅生・栗生沢三ヵ村の東に位置し、北上高地中央の山地・丘陵に立地。南部に阿茶山(五三三・三メートル)・烏堂山(五五二・七メートル)、東部に大森山(八二〇メートル)・物見山がそびえ、これら山麓の沢水が中央部で人首川に合流し西流。流域に盆地状の狭い平地が開けている。村名について坂上田村麻呂に討伐された人首丸の潜居地であったことに由来するとの伝承がある。大谷地遺跡は縄文時代早期のもので、貝殻刺突文・縄文・無文土器とともに絡条体圧痕文的な土器遺物がみられる。「正法年譜住山記」によれば貞治六年(一三六七)江刺郡の人首尾張守舎弟六原の子として生れた笑巌は、人首村常安寺の住持であったが、応永七年(一四〇〇)請われて僧録となり、黒石(現水沢市)正法寺に入寺している。この間の至徳元年(一三八四)人首尾張守は正法寺に田地三千刈を寄進している。なお常安寺については天文一一年(一五四二)同寺住持守恋の出世(本山に一夜住持する)、永禄二年(一五五九)心光の同寺入寺、天正二年(一五七四)秀屋佐の同寺入牌のことなどがみえる。同年四月七日の葛西晴信知行宛行状写(登米千葉文書)によれば、千葉肥前守が軍功により「江刺郡人首邑之内三千苅」を与えられている。
江戸時代仙台藩は、藩境警備のため慶長一一年(一六〇六)沼辺玄蕃重仲を人首城に配置した。当地は交通上でも岩谷堂町からの盛街道が姥石峠を経て気仙郡世田米村(現住田町)へ抜けるが、同街道から人首村で分岐し五輪峠を経て閉伊郡遠野への道も通じ、また伊手村と野手崎村を結ぶ南北の道も通じるなどの要地で宿駅が置かれ、人首城を中心に町場が形成された。寛永一九年(一六四二)の人首村検地帳(県立図書館蔵)によれば田方六五町八反余・代七一貫六五一文、畑方五〇四町余・代一〇四貫三五五文、茶畑四反四畝余・代一貫二四六文、名請人数一九四。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報