仏伊ローマ協定(読み)ふついろーまきょうてい

日本大百科全書(ニッポニカ) 「仏伊ローマ協定」の意味・わかりやすい解説

仏伊ローマ協定
ふついろーまきょうてい

1935年1月7日、イタリアムッソリーニフランス外相(当時。6月から首相兼外相)ラバルとの間に結ばれた協定。その内容は、オーストリアの独立保全、軍縮問題も取り上げていたが、主眼経済協力、領界問題などアフリカにおける仏伊植民地の調整にあった。イタリアは、1930年代初めから、アフリカでの植民地分割の最後の一角エチオピア侵略を企図していたが、その前提として英仏から不介入の保障を取り付けたかった。この協定には、エチオピアについてイタリアの行動の自由を認めた秘密条項があるといわれ、それは侵略への「ゴー・サイン」の意味をもったと考えられる。イタリアに対する宥和(ゆうわ)的姿勢という点では、マクドナルド、ついでボールドウィン両内閣下のイギリスもフランスと同一歩調をとっていた。こうした英仏の妥協的姿勢を見極めたうえで、イタリアは35年10月3日、エチオピアに侵入した。

[柳田陽子]

『斉藤孝著『戦間期国際政治史』(1978・岩波書店)』

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「仏伊ローマ協定」の解説

仏伊ローマ協定(ふついローマきょうてい)
Accord franco-italien signé à Rome

1935年1月7日,フランス外相ラヴァルのローマ訪問によってムッソリーニとの間に一連の協定が成立した。これによって,フランスはサハラおよびソマリランド若干の地域をイタリアに譲り,チュニジアでのフランス系,イタリア系住民の国籍問題をフランスに有利な形で解決し,オーストリアの独立維持,アフリカでの経済協力を約した。なおこの際,ラヴァルはムッソリーニのエチオピア征服に了解を与えている。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

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