目次 自然 住民,社会 歴史 古王国の時代 再統一と独立の保持 ハイレ・セラシエの帝政 エチオピア革命 政治 経済 美術 音楽 基本情報 正式名称 =エチオピア連邦民主共和国Federal Democratic Republic of Ethiopia 面積 =110万4300km2 人口 (2010)=8295万人 首都 =アジス・アベバAddis Ababa(日本との時差=-6時間) 主要言語 =アムハラ語,オロモ語,英語 通貨 =ビルBirr
アフリカ大陸北東部に位置するアフリカ最古の独立国。1974年の革命で帝政が倒れたのち社会主義が宣言され,臨時軍事政権のもとにあったが,87年民政移管をはたした。91年メンギストゥ政権が打倒され,エチオピア人民革命民主戦線による政権が発足,94年の憲法で連邦制に移行した。古くはアビシニアAbyssiniaと呼ばれたこともあったが,これは俗称である。 執筆者:小田 英郎
自然 エチオピアの風土を最も特徴づけているものは,その高原である。日本語の感覚で高原というと,山の上の方にある,少し開けたなだらかな土地であるが,エチオピア高原というのは,ほとんどまっ平らな広大な平原が高い所に広がったものである。これは,水平に堆積した地層が静かに隆起した山地の上に,流動的な溶岩が流れかぶさって,平たんな溶岩面をつくったためである。その隆起は静かではあったが,最高点は4620mにも及んだために,一方では,激しくナイル川の支流などの河川によって切り刻まれ,その平たんな高原面は無数の峡谷によって分断されている。すなわち,エチオピア高原とは,大小さまざまな大きさのテーブル状の土地の集合ということができる。この峡谷の急崖が外敵の侵入を防ぎ,エチオピアが3000年の独立の歴史を保つことができた根本的な要因となっている。
航空機で首都アジス・アベバに着陸する前には,そのきわめて平たんな土地が印象深く目に入る。そしてまたその土地が,それまで通過してきた褐色の砂漠とは対照的に,一面の緑でおおわれていることも,劣らぬ強い印象を与える。この植生の違いは,標高の違いによっている。同じ緯度のサハラ南部やソマリアでは,半砂漠ないし砂漠が広がっているが,エチオピア高原では,その高度のために雨の降ることがずっと多く,そのため,高原の上はもともと一面に森林によって完全におおわれていた。その雨をもたらす主因である湿った赤道西風は,エチオピアの南からしだいに北上し,また南下する。このためエチオピアの南部では雨季が長く,北部では短い。南部では熱帯雨林が形成されているが,北部ではもともと針葉樹林であったものが,いまではほとんど完全に伐採されて畑地になっている。風向が西であるため,西斜面は雨が多いが,東斜面は乾燥している。エチオピアの中央部には,南北に走るアフリカ大地溝帯 があるが,この底も風下になるので空気は乾燥している。しかし,周囲の山地から川の流入があるので,いくつかの湖ができており,また地下水の水位も高いので,アカシアなどの林もできている。湖のほとりには,高原から濃い酸素を求めて保養に来る人々のためのホテルなどができており,週末にはにぎわうが,それ以外の経済活動は活発でない。エチオピアの湖や川のなかには,ビルハルツ住血吸虫 という危険な微生物がいることが多いので,水につかる場合には注意が必要である。 執筆者:鈴木 秀夫
住民,社会 エチオピアはしばしば民族の博物館と呼ばれる。紀元前数世紀にさかのぼる長い歴史のあいだにアラビア半島からの数度の移住の波に洗われ,今日のエチオピアの住民は,言語,宗教,政治組織,生活様式などで,きわめて多様性に富んでいる。一般に80の部族が,方言を含めて100以上もの言語を話すといわれている。そのなかで最も有力なセム語系のアムハラ族と,近縁のティグレ族が人口の30%を占め,おもに中央高原と北部高原に居住している。亜熱帯の南部地域に居住するオロモ族(ガラ族)はクシ語系に属し,人口では最大で,アムハラをやや上回っている。南西部のシダモ族(9%),南東部の乾燥地帯に居住するソマリ族(6%)もクシ語系に属する。スーダンとの国境地帯に住むニグロ系の諸部族は,アムハラ族からシャーンケラー (6%)と総称されている。またナイロート系の部族も散在している。そのほか,エチオピアにはアラブ,ユダヤ人,アルメニア人,ギリシア人,インド人などが,商業などに従事している。
アムハラ族はエチオピアの支配層でもあって,誇り高い人々である。彼らはアクスム王国 の子孫であり,故ハイレ・セラシエ皇帝はソロモン王とシバの女王の子孫と主張した。彼らは選ばれた民として4世紀にはキリスト教を受容した。アムハラの社会は貴族,高官,聖職者,農民,奴隷(シャーンケラー)などの階級が厳しく分かれている。貴族,僧侶,軍人たちは大土地所有者であり,小作農民とのあいだの封建的関係が複雑に入り組んでいる。農民は小麦,大麦,トウモロコシ,テフ(エチオピア固有のイネ科の穀物)などを栽培し,インジェラという発酵パンを主食とした。ティグレ族とアムハラ族の区別はむずかしいが,ティグレ族はエチオピア北部とエリトリアにかけて,孤立した山塊に居住して,アムハラ族の支配に抵抗した。またアクスム王国の故地に居住するため,文化的な正統性を誇っており,キリスト教を純粋に保っているとの自負をもつ。
オロモ族はエチオピア高原の南端から南方にかけて居住する牧畜民で,単一部族としてはエチオピアで最も大きい人口をかかえる。先住民のネグロイド諸族を征服して,王国を形成した。近隣のソマリ族やシダモ族などとの戦争が激しく,オロモ族の一部は高原に上がって農耕生活を送っている。ほぼ10%はキリスト教徒であるが,40%はイスラムを信じている。南東部のオガデン地方のソマリ族は,〈アフリカの角 〉地方に広く分布するラクダ遊牧民の一部である。イスラム教徒であるソマリ族は,エチオピア政府に反目していたが,隣国のソマリア共和国の独立をきっかけに,反政府運動を活発におこし,エチオピア,ソマリア両国の軍事衝突を招いた。一方,北東部のエリトリア地方でも,アムハラ族の支配に反発していたイスラム教徒が分離独立運動をおこし,隣国のスーダンとの難民問題とのからみで,大規模な戦闘がくりひろげられた。ハイレ・セラシエ皇帝の廃位以降のエチオピア政府の急進的な革命政策は,部族対立や旧勢力の抵抗などの難問をかかえているが,この間にかつてのアムハラ族の支配は弱体化し,代わって最大部族のオロモ族の地位が上昇している。
エチオピアの公用語はアムハラ語 で,人口の約40%に使用されている。英語が中等教育以上で第2語として教えられ,またイタリア語やアラビア語もよく通じる。宗教は単性論に立つキリスト教のエチオピア教会 が国教である。イスラム教徒もキリスト教徒と同じく人口の40%を占めるが,シャーフィイー派 やマーリク派,ハナフィー派などの信徒が北部,東部,南部に多く,東部のハラールがその中心の町である。そのほか,ユダヤ教の特殊な形式がファラシャにより守られている。ファラシャは,モーセのエジプト脱出に従わなかったユダヤ人の子孫ともいわれていて,〈モーセ五書〉をエチオピアの古いゲエズ語 で朗読する。 →エチオピア諸語 執筆者:赤阪 賢
歴史 古王国の時代 国としてのエチオピアの起源は歴史的というよりもむしろ伝説的で,ソロモン王とシバの女王のあいだに生まれたメネリク1世(前1000年ころ)によって創設されたといわれている。歴史的にその存在が確認できる最も古い国は,1世紀になって歴史に登場したアクスム王国である。アクスム王国はエチオピア北部,現在のティグレ州アクスムを中心に栄え,4世紀にはいってエザナ王の時代に最盛期を迎えた。王自身キリスト教に改宗したばかりでなく,これを国教として受けいれ,またオベリスクを建てるなど,文化的に見るべきものを残したほか,近隣地方を征服してその版図を拡大した。7世紀にはいって,紅海を隔てたアラビア半島がイスラム教徒の支配下に組みこまれると,エチオピアはそれまでつづいたアラブ圏との接触を断たれ,孤立化したものの,逆に中央部への進出がこの時期に本格化しはじめた。9世紀にはいるとアクスム王国の衰退がはじまり,12世紀には権力は南方のザグウェ王朝の手に移ったが,13世紀後半にはイェクノ・アムラクによって再びソロモン王朝の手に権力が回復された。
これ以後19世紀半ばにいたるまでのあいだ,エチオピアの歴史にはいくつもの起伏がみられた。たとえば14世紀前半のアムダ・セヨンの治世には,征服によって版図はさらに拡大した。ヨーロッパ人によってエチオピアがプレスター・ジョン(アジア,アフリカ地域に実在すると信じられたキリスト教王)の国に擬せられたのも,この時代およびその前後であった(〈プレスター・ジョン伝説 〉参照)。16世紀にはいるとイスラム教徒の勢力が台頭してエチオピアを脅かし,長い戦乱の時代に突入した。この間エチオピアはポルトガルの支援をえてイスラム勢力を撃破したものの,戦乱のために王権は衰え,地方勢力割拠の状態へ移行するのを止めることはできなかった。またこの間,オロモ(ガラ)族がソロモン王朝の中心的地域ともいうべきショア地方の南部,東部の大部分を含む広範な地域に侵入を開始し,17世紀末までに当時のエチオピア帝国の領土の3分の1以上をその手におさめた。オロモ族は農耕民としてそれらの土地に定着したが,その勢力を背景に政治に介入しはじめ,ソロモン王朝側もオロモ族の貴族と結ぶことによってその王統を保たざるをえなくなった。そして17世紀半ばに,ファシラダス王のもとで一時的に隆盛を示したのを最後に王権は再び衰え,アムハラ貴族とオロモ貴族の勢力争いのなかで国王は傀儡(かいらい)化していった。〈親王の時代〉と呼ばれた1769年から1855年までの時期は,国王の権力が最も衰微した時代で,エチオピアは事実上いくつかの小王国に分裂することを余儀なくされた。
再統一と独立の保持 この分裂状態に終止符をうち,国内の再統一を実現したのはテオドロス2世 (在位1855-68)である。彼は本名をカッサといい,ソロモン王朝とは血縁関係になかったが,北西部の山岳地帯から勢力を興して他の豪族を制圧し,討伐のために向けられた皇帝の兵をも撃破して,ついにみずから皇帝の位についた。さらに彼は南部のショア地方を従え,ガラ族をも圧して,かつてのエチオピア帝国の領土をことごとく勢力下におさめた。テオドロス2世はエチオピアの再統一を維持するために中央集権的支配体制を確立し,また国を強化するために近代化に力をいれた。彼の治世は,国の再統一と近代化の基礎を準備したという面で,エチオピア史上画期的なものである。しかしその反面,中央集権化に対する地方豪族の反発や,重税に対する民衆の不満は強く,しだいに民心が離反していく傾向もみられた。テオドロス2世はのちにイギリスと事をかまえ,1868年のマグダラの戦で敗れて自殺した。その後2人の王の治世をへて,89年にショアの王メネリク2世 が帝位についたが,彼の時代は,ヨーロッパ列強の進出をくいとめると同時に,西部および南部を征服し,エチオピア帝国の基礎を築いた点で,テオドロス2世の時代に劣らず重要である。エリトリアを除く現在のエチオピアの領土はメネリク2世の時代に確定されたのであるが,そのために彼は,東アフリカに進出しつつあったヨーロッパ列強によく対抗し,イタリア,イギリス,フランスの勢力争いを巧みに利用して,エチオピアの独立を守り抜いた。エチオピアの保護領化を狙うイタリアを96年のアドワの戦(第1次イタリア・エチオピア戦争 )で破り,その野望を粉砕したことは,その努力を象徴するできごとである。こうしてエチオピアは,ヨーロッパ植民地主義列強による〈アフリカ分割〉の時代に生き残った,例外的な国になりえたのである。
ハイレ・セラシエの帝政 1913年にメネリク2世が没したのち,イヤス5世(リジ・イヤス)の短い治世をへて,16年にメネリク2世の皇女ザウディトゥが帝位につき,その遠縁にあたるラス・タファリ・マコンネン(のちのハイレ・セラシエ 1世)が摂政兼皇太子として実権をにぎった。当時のエチオピア社会の伝統主義的な性格に照らしてみれば,タファリは異論なく進歩派であった。彼は内政面では保守派の壁に阻まれて思うように改革を推進できなかったが,外交面ではたとえば23年に国際連盟加入を果たすなどしてエチオピアの国際的地位を向上させ,先進諸国との交流を拡大するのに貢献した。30年にザウディトゥ女帝が没すると,タファリは即位してハイレ・セラシエ1世となった。ハイレ・セラシエとは〈三位一体の力〉という意味である。彼は即位するとただちにより本格的な近代化政策に着手した。31年に初の憲法を制定したのはそうした努力の結実で,これによってエチオピアは形式的には立憲君主国となった。しかし実質的には〈ユダ族の覇王獅子,神の選びし者〉と憲法に明記された皇帝に,絶対権が付与されており,絶対君主政とほとんど変わるところがなかった。また同年二院制の議会も創設されたが,議員はすべて勅選議員であり,議案も皇帝によって提出され,採決もなしに通過するシステムになっていた。政府も首相以下閣僚全員が皇帝によって人選され,任命された。彼の近代化政策は見かけほどではなかったのである。
35年10月ファシズム・イタリアのエチオピア侵略(第2次イタリア・エチオピア戦争)が開始された。エチオピアは防戦に努める一方で国際連盟に提訴したが,連盟はなんの手もうたず,翌36年5月には首都アジス・アベバも陥落し,ついにエチオピアはイタリアに併合された。ハイレ・セラシエ1世はイギリス亡命を余儀なくされた。しかし第2次世界大戦がはじまると,やがて独立回復の好機が訪れる。すなわちイギリス軍の支援を受けたハイレ・セラシエ1世の軍は,スーダンをへてゴッジャム地方へ進撃を開始し,ついに41年5月アジス・アベバを奪回,5年ぶりに独立を回復した。戦後のエチオピアにとって最初の大きなできごとは,52年,旧イタリアでイギリスの暫定統治下にあったエリトリアと,国連決議に基づいて〈連邦〉を結成したことである。しかし10年後の62年,エチオピアは住民の意思によるとしてエリトリアを一州として併合してしまった。以後エリトリア解放戦線(ELF),エリトリア人民解放戦線(EPLF)などの解放勢力が,エリトリアの独立をめざして,中央政府軍とのあいだに激しい戦いをくりひろげることになった。
エチオピア革命 内政面では,1955年に新憲法を公布し普通選挙制を導入するなど,制度面でいくぶんか民主化の方向へ動いたものの,立法,司法,行政の3面における皇帝の絶対権は基本的には変わらなかった。また議会政治に不可欠であるはずの政党も,あい変わらず存在を認められなかった。アフリカにも〈独立の時代〉が訪れようとしている50年代後半になっても,エチオピアは制度的に旧弊のままであり,皇帝を頂点とし貴族,豪族,僧侶などからなる少数の半封建的特権階級の支配体制が温存され,国民の大多数を構成する農民,労働者は苦難にあえいでいた。60年12月にメンギストゥ・ネウェイ,ギルマメ・ネウェイの兄弟が起こした皇帝の親衛隊によるクーデタは失敗に終わったが,エチオピア社会の矛盾をあらためて露呈した。だが内政面の不安定とは対照的に,エチオピアは外交面ではアフリカ圏内でもきわだった存在であり,ハイレ・セラシエ1世は強い指導性を発揮した。彼は63年5月にアフリカ諸国首脳会議を主催して,アフリカ統一機構(OAU)という世界最大の地域的国際機構を創設するのに貢献し,本部をアジス・アベバに誘致した。しかし,国際社会における威信の増大は国内的矛盾の減少につながるはずはなかった。そしてついに,74年1月以降断続的に起こった軍隊の反乱をきっかけに,軍部内の革新派(軍事調整委員会=デルグ)を中心とし,労働者,農民,知識人層を戦列のなかに加えた〈エチオピア革命〉が起こった。同年9月ハイレ・セラシエ1世は廃位され,社会主義を唱える革命軍事政権(臨時軍事行政評議会)が成立した。
政治 革命軍事政権は社会主義宣言(1974年12月)を行い,75年には主要産業の国有化,土地改革など思いきった政策に着手した。土地改革は脱封建革命の根幹をなすものであるが,それは単に土地国有化の実施だけではなく,民衆の組織化という政治的側面をも併せもっていた。すなわち農村では,土地の国有化にともない集団農場が主として村落単位でつくられたが,各集団農場には農民組合が組織され,政府は革命行政開発委員会を通じてこれをコントロールするという方式がとられた。都市部でも住民は都市住民組合(ケベレ)へと組織化され,政府のコントロールのもとにおかれた。しかし,マルクス主義的社会主義を標榜する革命軍事政府の指導部内では当初から権力闘争が絶えず,臨時軍事行政評議会議長はアマン・アンドム中将(1974年11月粛清)からテフェリ・ベンティ(1977年2月粛清)へ,そしてメンギストゥ・ハイレ・マリアム(1977年2月就任)へと変わった。また左派であるエチオピア人民革命党(EPRP)や右派であるエチオピア民主同盟(EDU)のテロ攻撃,ゲリラ攻撃も一時さかんであった。また前述のエリトリアの解放勢力や,隣国ソマリアに支援された西ソマリア解放戦線(WSLF)によるオガデン地域解放のための反政府武装闘争も続き,革命軍事政府は苦境におかれた。そうした状況のなかで,政府は79年以来,エチオピア勤労人民党組織委員会(COPWPE)を通じて〈一党体制のもとでの文民政府〉実現へ向けて準備を進め,革命10周年にあたる84年9月にはCOPWPEを発展的に解消してエチオピア労働者党(WPE)を創設した。ついで87年2月の国民投票で共和国憲法が81%の賛成を得て承認されると,同年6月には一院制の国民議会(シェンゴ)の選挙を行い,さらに同年9月の国民議会初会期で,77年2月以来臨時軍事行政評議会議長の任にあったメンギストゥを初代大統領に選出して民政移管を果たし,一党制に基礎を置いた人民民主共和国を正式に発足させた。1994年の新憲法によって,連邦民主共和国となった。
1960年代初めから武力解放闘争を続けてきたエリトリアに対しては,93年に独立を認めた。
経済 エチオピアは世界の最貧国のひとつであり,その経済水準はアフリカ圏においてすら最も低い。いうまでもなく農業国であり,主要産品はコーヒー,綿花,茶,大麦,小麦,トウモロコシ,キビ,豆類,採油用種子などである。このうち輸出品は主としてコーヒーであり,豆類,採油用種子がつづく。皮革製品も若干は輸出される。工業は1960年代以降しだいに発展してきたが,まだ経済全体に占める比重は小さい。セメント,石油製品,綿糸,綿織物などが,主要産品としてあげられる。メレス政権のもとで国営企業の民営化を含む市場経済化が進められているが,長年の国内紛争,干ばつなどの影響も大きく,見通しは必ずしも明るいとはいえない。 執筆者:小田 英郎
美術 エチオピアは前6世紀ごろからしだいに文化社会としての展開を示したが,とくにアラビア半島南部との関係が深く,イェハYehaの神殿やハウルティHaoulti像などはその文化の質の高さを示すものである。後3~6世紀に栄えたアクスム王国時代の遺物は,建築構造を細かく刻みこんだ単一石柱の,いわゆるオベリスク によって代表される。最長のものは長さ33mを超え,素材を遠隔の地から輸送したことと併せて,驚異的な技術を示すモニュメントである。首都アクスムには他に諸種の建造物があり,それらの様式は後世の岩窟聖堂に伝えられた。紅海に臨む北部地域(現,ティグレ州)は,象牙貿易などによって地中海地域との関係が強まり,当然その方面よりの影響が入り込む。そして4世紀以降キリスト教化し(エチオピア教会 ),キリスト教美術が大いに栄えたはずであるが,その後のイスラム教徒の侵入により,大部分は破壊された。今日知られるキリスト教美術の遺産は主として11世紀以降のもので,特に注目されるのは岩窟聖堂である。その代表的なものはアジス・アベバ北方の聖都ラリベラLalibelaに見られる。ここには諸種の形式をもつ数群の聖堂があるが,それらは岩層に方形の溝を深く掘り,その中央部を内部外部とも野外に建造した聖堂と同じ構造に仕上げたもので,そこにアクスム王国様式の伝統やシリアおよびコプト建築(コプト美術 )の影響を見ることができる。内部は壁画で飾られ,ほかに組紐文などの線彫装飾を柱,窓などに多用している。16世紀以降ポルトガルの影響がゴンダルを中心に入り込むが,西洋風のゴンダル城(17世紀)はともかく,聖堂建築は木造の円堂が多くなる。これは民家の構造と関係をもつ。それらを飾る壁画には,明らかに西洋の近代写実主義の影響が見られる。絵画芸術の重要な一分野は写本画である。それらも13世紀以前にさかのぼるものはほとんどないが,東方キリスト教絵画の影響を受け入れながら,きわめて素朴な独特の感覚によって強い表現力を発揮しているものが多い。ほかにブロンズや木の十字架に見られる繊細な装飾感覚も注目される。 執筆者:柳 宗玄
音楽 多様な人種,民族そして文化を擁しているエチオピアの音楽は多彩である。クシ語系に属する諸民族やシャーンケラーと総称される黒人系諸民族の音楽の,東アフリカ一帯の音楽に共通する性格が,エチオピアの音楽文化の重要な側面である。狭義のエチオピア(アビシニア)の音楽を代表するのは,久しくこの国の支配者層を形成してきたティグレとアムハラのいずれもセム系の民族である。約500年にわたりエチオピアを統治したアムハラ族は圧倒的に優勢であり,その音楽も例外ではない。
エチオピア教会の典礼音楽は,6世紀の伝説的な音楽家聖ヤレドの創作になるといわれるが,今日もデブテラと呼ばれる教会の専業音楽家によって伝承されている。
アムハラ族の重要な世俗音楽の伝統の一つがアズマリと呼ばれる吟遊詩人である。マセンコと呼ばれる一弦の胡弓で自ら伴奏し即興の詩を歌う大道芸人の一種だが,庇護を求めて王侯貴族の屋敷に下僕として仕え,主人を称賛する歌,気晴しの歌のほかに,巷の情報や社会批判,宗教的な訓戒などを即興詩に詠み込んで歌う。メロディは5音音階に基づく旋法が支配的である。
ほかに,ベガンナとクラールの2種の弦楽器がある。語り物や恋歌の伴奏に用いられるが,いずれもリラ属で,前者は古代ギリシアのキタラに,後者はリラに酷似している。気鳴楽器としてはワシントと呼ばれる葦の竪笛(ネイ属)とマラカト(竹製トランペット)が重要。また体鳴楽器としてダワル(石の鐘)とツァナツェル(シストルムの一種)が挙げられるが,これらはもっぱらキリスト教典礼に用いられる。 執筆者:柘植 元一