代田村(読み)だいたむら

日本歴史地名大系 「代田村」の解説

代田村
だいたむら

[現在地名]世田谷区代田一―六丁目・大原おおはら一―二丁目・羽根木はねぎ一丁目・若林わかばやし一―二丁目・太子堂たいしどう三丁目・代沢だいざわ一丁目・同三―五丁目・北沢きたざわ一丁目・三宿みしゆく二丁目・池尻いけじり四丁目・松原まつばら五―六丁目

下北沢しもきたざわ村の西にあり、南は若林村。荏原えばら郡に属する。北部を甲州道中が通り、同道中と玉川上水が交わる地に代田橋が架けられている。村の南部には上北沢分水が西から東へ流れ、当村の水田へも引水されていた。天正一八年(一五九〇)の吉良氏没落後、旧家臣の清水・秋元・斎田(二家)・柳下・山田・大場の七氏がこの地に土着・帰農し、開墾したとされる。

代田村
よだむら

[現在地名]河東町代田

南西せせなぎ川が西流し、南東京手きようで村。北西に端村六段田ろくたんだ(代田新村)北東に小名北畑きたばたがある。天正一二年(一五八四)九月一七日の富田能登守寄進状(示現寺文書)に「河沼之庄よ田之内阿弥陀めん田年貢仁駄」などが示現じげん(現会津若松市)の嘯月院へ寄進されている。村北に代田館跡があり、「会津古塁記」に「東西五十三間南北六十八間、荒木ノ舘ト号ス、北田ノ末孫荒木四郎宗胤築ク」と記され、現在も周囲には土塁と堀の跡がある。

代田村
しなんたむら

[現在地名]志賀町代田

遍照へんじよう岳と眉丈びじよう山系の間にある小盆地のほぼ中央に位置する。南は館開たちひらき村、東北は矢田やた村。中世得田とくだ保の内で、初め志良田しらのた村といったが、永徳三年(一三八三)一一月一五日の能登守護吉見氏頼書下(得田文書)に「しなの谷」とあるように「しなのたむら」と変化し、明徳二年(一三九一)八月一一日の得田章長譲状(同文書)から「代田村」と表記され、のちになまって「しなんた」というようになった。天正一六年(一五八八)には一帯刀狩が行われた(→矢田村。元和二年(一六一六)の高三六九石余、苦竹役五〇目、役棟一三(「苦竹運上極」雄谷文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報