伊岐力村(読み)いきりきむら

日本歴史地名大系 「伊岐力村」の解説

伊岐力村
いきりきむら

[現在地名]多良見町野川内郷のがわうちごう舟津郷ふなつごう山川内郷やまがわうちごう

大草おおくさ村の北西にあり、北部は海に臨む。西部にこと岳があり、東部を伊木力いきりき川が流れる。中世は伊木力などとみえ、嘉暦四年(一三二九)七月三日の東福寺領肥前国彼杵庄文書目録(正慶乱離志裏文書)に伊木力三郎入道了覚が記され、同三年に同庄雑掌より訴えられている。貞和四年(一三四八)六月一〇日の一色道猷書下(深堀文書)に伊木力兵衛二郎がみえ、深堀時通の子時広への萱木かやき(現三和町)の下地引渡しが命じられている(同年六月一〇日「一色道猷書下」同文書)。正平一八年(一三六三)八月日の彼杵庄南方一揆連判状写(福田文書)に「伊木力六郎」左衛門尉義通をはじめ、同所の藤原通勝・同幸昌・同通重・同通久がみえており、その一族と考えられる。現舟津郷のじよう山の一帯たちじようひらなどがあり、伊木力氏が用いた城と推定され、中通なかどおり城跡とよばれるが、近世においても城主や築造年代が伝承されていなかった(大村郷村記)

伊木力船津は大村藩主の長崎見回りなどに際して上陸地として利用された海上交通の要所で、まつ峠を通って長崎に赴く道筋を伊木力往還と称した。江戸時代、天保郷帳などでは当村名が二筆に分けて記されるが、これは領主別の区分であり、大村藩領分は壱岐力村とし、また肥前佐賀藩領分は伊岐力村とすることが多いという。元和三年(一六一七)大村で布教していたペドロ・アスンプシオン神父が喜々津ききつで捕らえられたあと、伊木力に赴いて布教したアロンソ・デ・ナバレテとフェルナンド・デ・アラヤの二神父らも長与ながよ(現長与町)で捕縛されたという(オルファネール「日本キリシタン教会史」)。同八年のドミニコ会宛の大村ロザリオ組中キリシタン連判書付に「いきりき村」の「本山善介まんしよ」が署名している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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