伊能嘉矩(読み)イノウ カノリ

20世紀日本人名事典 「伊能嘉矩」の解説

伊能 嘉矩
イノウ カノリ

明治・大正期の人類学者,台湾研究家



生年
慶応3年5月9日(1867年)

没年
大正14(1925)年9月30日

出生地
陸奥遠野(岩手県)

別名
幼名=容之助

学歴〔年〕
岩手師範(現・岩手大学)中退

経歴
明治18年二松学舎に入り、19歳で「日本維新外史」を執筆。19年岩手師範に入学、3年で寄宿舎騒動の主謀者として追放された。上京して東京毎日新聞社入社、次いで東京教育社に転じ、26年坪井正五郎について人類学を研究。28年台湾に渡航、総督府民法局に勤め、台湾の政治、経済、民俗、言語などを研究。なかでも住民の種族的分類は学界で評価され、坪井・東京人類学会会長から表彰された。在台10年、のち官を辞して著述専念著書に「台湾蕃政志」「台湾文化志」(全3巻)「台湾に於ける西班牙人」「領台十年史」「伊能嘉矩の台湾踏査日記」「遠野史叢」「遠野方言集」などがある。

出典 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」(2004年刊)20世紀日本人名事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「伊能嘉矩」の意味・わかりやすい解説

伊能嘉矩 (いのうかのり)
生没年:1867-1925(慶応3-大正14)

台湾研究の先駆者。岩手県遠野の人。字は梅陰,号は蕉鹿夢。岩手師範中退。坪井正五郎に人類学を学ぶ。1895年11月日本の台湾占領直後に渡台,1905年末まで在留。10年間にわたって台湾に関する地理,歴史,〈蕃地〉事情の調査研究に従事主著に《台湾文化志》(1928),《領台十年史》《大日本地名辞書(台湾之部)》などがある。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

朝日日本歴史人物事典 「伊能嘉矩」の解説

伊能嘉矩

没年:大正14.9.30(1925)
生年:慶応3.5.9(1867.6.11)
明治大正期の台湾研究の先駆者。明治18(1885)年岩手県遠野町より上京,二松学舎に学ぶ。19年岩手師範に給費薦挙生として入学,22年教官に反抗し退学。再上京し,新聞編集に従事。26年東京人類学会に入会し,坪井正五郎に就き人類学を修めた。28年11月陸軍省雇員として台湾に渡り,台湾総督府雇員を命ぜられ「人類学的知識を教育に応用する為」台湾の歴史,地理,民俗を調査。39年1月帰国後も台湾と郷土の歴史などを研究。佐々木喜善導き,柳田国男とも親しく交わった。代表著書『台湾文化志』(1928)は台湾史学研究の一級史料と評価される。<参考文献>森口雄稔編著『伊能嘉矩の台湾踏査日記』(1992,台北)

(森口雄稔)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「伊能嘉矩」の解説

伊能嘉矩 いのう-かのり

1867-1925 明治-大正時代の歴史学者,人類学者。
慶応3年5月9日生まれ。坪井正五郎に師事。明治28年台湾総督府雇員となり,地誌,民俗などを調査。その研究は没後「台湾文化志」などにまとめられ,台湾研究の資料となった。大正14年9月30日死去。59歳。陸奥(むつ)遠野(岩手県)出身。岩手師範中退。字(あざな)は梅陰。号は蕉鹿夢。著作に「遠野方言誌」など。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

367日誕生日大事典 「伊能嘉矩」の解説

伊能 嘉矩 (いのう かのり)

生年月日:1867年5月9日
明治時代;大正時代の歴史学者;民族学者
1925年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

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