翻訳|anthropology
人類を対象とする学問で,人類の存在様式を身体,文化,社会などの側面から多面的にとらえ,その全体像を理解することを目的とする。そのために,人類の身体,文化,社会などの構造や機能を解明し,また,他の霊長類や化石人類との比較や人類の集団間の比較によって人類の特徴を研究する。人間を対象とする他の学問との違いは,人類の存在様式の全様相を時間的,空間的な広い視野でとらえようとする姿勢にある。
人類学を意味する英語のanthropologyは,ギリシア語のanthropologosすなわちanthropos(人間)のlogos(語り・学問)に由来するが,この語を最初に使用したとされるアリストテレスは〈人について論じること〉という意味で用いたにすぎない。学術用語としては,16世紀にラテン語のanthropologiumがヒトの解剖学・生理学の意味で用いられ,17世紀には同じ語が人間の特性という意味で神学者によって用いられた。18世紀には,世界の根本秩序を理性で認知できるとする啓蒙思想により分類学的関心が高まり,人間の理解も,それまでの一般化された個体としての人間ではなく,諸集団の差異と共通性が問題とされるようになった。18世紀後半に現われたethnologyは,諸民族の比較研究であり,文化と身体を不可分としつつも,主に文化の差異を問題にした。一方,anthropologyは,ヨーロッパの大陸部では,個体としての人間の身体を研究するanthropologiumから転じて人類の諸集団の身体的差異の研究を指すようになった。これに対して,英語圏では,人類の身体的側面に関する自然人類学physical anthropologyと文化的側面に関する文化人類学cultural anthropology(イギリスでは社会人類学social anthropology)の両分野を含むものとしてanthropologyが用いられる。日本における人類学という語の用法は,時代によって変化してきた。最初はイギリス流に広義に用いられたが,やがてドイツやオーストリアの影響で,生物学的特徴を扱う分野に使用を限定する傾向が生じた。それとともに,文化を扱う分野には民族学という語を用いるようになり,1934年には日本民族学会が創立された。第2次世界大戦後は,アメリカの影響が強まり,文化を扱う分野に対して文化人類学という語が使われることが多くなった。この流れを受けて日本民族学会は,2004年に日本文化人類学会に名称変更した。一方,日本人類学会や国立民族学博物館は以前からの名称を維持している。
古代文明が発達し,異民族との接触や交渉が頻繁に行われた地域では,古くから異民族の体質や文化の特徴に注意が払われていた。ヨーロッパでは,人類学的な関心,すなわち自然界における人間の位置づけや異民族の身体的・文化的特徴に対する関心と客観的考察は,すでにギリシア・ローマ時代のアリストテレスやヘロドトスなどの書物に見られる。しかし,その後,キリスト教が広まるにつれて,人間と動物との差異やキリスト教徒と異教徒との差異を絶対視するその神学的世界観によって,人類学的な関心は影を潜めた。11世紀に始まる十字軍の遠征と13世紀に勃発したモンゴルのヨーロッパ侵攻は,異民族に対する関心を再び喚起したが,それが急速に増大したのは,15世紀末に始まる大航海時代である。新世界をはじめとする世界各地から航海者,征服者,宣教師,商人などによってもたらされた新たな文物は,キリスト教的世界観と衝突し,徐々に科学的な世界観を発展させ,人々の物の見方を大きく変化させた。とくに,聖書に記述がない新世界に人間がいたという事実は,非常に大きな衝撃を与えた。しかしキリスト教的世界観の影響は根強く,聖書に従えば人間ではないという理屈で,新世界の先住民に対する略奪や虐待,殺戮(さつりく)が16世紀前半まで公然と行われた。
16-17世紀における科学革命の結果,W.ハーベーの血液循環論をはじめ,実証的なヒトの生物学的知識が飛躍的に充実した。一方,人間の自然的本性を理解しようとする立場から,世界各地の未開人の生活が盛んに報告された。
18世紀の啓蒙主義時代には,それまでに蓄積された豊富な知識を秩序づけ,合理的に解釈しようとする試みが各分野で行われた。ヒトの生物学的側面に関しては,リンネがヒトを霊長目のなかに分類し,ブルーメンバハらが世界各地の住民について人種分類を行うなど,ヒトの自然史的研究が本格化し,諸民族の文化に関する比較研究もいちだんと深められた。19世紀の前半には,ヒトの身体形質と文化の総合研究をめざすパリ民族学会や,ロンドン民族学会,アメリカ民族学会が相次いで創設された。
一方,18世紀後半以来,過去の生物の形態の変化を示唆する地質学的な事実が明らかになり,進化思想が力を得て行った。さらに,19世紀半ばには旧石器やネアンデルタール人骨の発見によって,人類の起源と進化,文化の発展過程の諸問題が人類学の重要課題となり,19世紀後半,身体形質の研究に重点をおくパリ人類学会やイギリス人類学会が発足した。
日本では,明治時代に来日したモースなどの外国人教師らによって,進化思想や考古学が紹介された。坪井正五郎らによって1884年に結成された〈じんるいがくのとも〉は,86年に東京人類学会,1941年に日本人類学会と改称して現在に至っている。その発足時には,自然人類学,文化人類学,考古学など,人類学に関係するすべての分野を包含していた。1896年,旧石器以外の考古学分野について考古学会(現,日本考古学会)が発足し,また1934年には民族学分野について民族学会(現,日本文化人類学会)が発足してから,自然人類学分野が中心となったが,その後も関連する広い分野の研究者が参加している。日本の人類学には,人間を自然の一部と見る文化的伝統の影響が見られ,とくに第2次大戦後,今西錦司や伊谷純一郎らによって始められた霊長類の研究は,ヒトと他の霊長類を連続的に捉える視点から多くの新しい知見をもたらし,世界の霊長類学をリードしている。
人類学を大別すると,人類の身体的特徴を対象とする自然人類学または形質人類学physical anthropology(生物学的人類学biological anthropology)と,文化を対象とする文化人類学cultural anthropology(民族学ethnology)の二つの分野があり,さらに生態人類学や医療人類学,先史人類学,言語人類学,経済人類学など,多数の専門分野に分かれる。また,解剖学,生理学,遺伝学,動物進化学,言語学,社会学,地理学,歴史学,哲学など多くの学問分野と関係をもつ。とくに関係が深い人類遺伝学,霊長類学,考古学などを人類学の中に含める場合があり,他の学問分野との境界はあいまいである。なお,文化人類学,民族学,社会人類学はほぼ同じ分野を指しており,その違いは分野というよりも,アメリカ,ヨーロッパ大陸,イギリスの学問的伝統と強調点の違いと見ることができる。
20世紀半ば以降の科学技術の進歩により,情報量が加速度的に増加し,それに伴う研究の急速な進展によって,自然人類学,文化人類学ともに分野内での細分化が進行し,また,自然人類学者と文化人類学者の間に認識の亀裂が生じている。このような現状にあって,進化や人種など,多分野に関係するテーマについての分野間の対話により,人間の全体像の理解のための試みが行われている。
→自然人類学 →文化人類学
執筆者:多賀谷 昭+池田 次郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
人類学はギリシア語の「人間」をさすanthroposと「学」logosからなり、文字どおり「人間の学」を意味する。しかし、人類学の研究領域についての考え方は欧米の間においても異なる。アメリカでは、人類学を、生物としての人間と文化を担う人間とを切り離さずに、総合的に研究する学問としてとらえ、大学の人類学科は、生物学的人類学(自然人類学、形質人類学ともいわれる)、先史考古学、言語人類学、文化人類学の四つの領域の研究を重視している。これはアメリカ人類学会が1902年に創設されてからの伝統である。現在では人類学の細分化の進展によって、これらの四つの領域が同じように深く、一人の人類学者によって研究されることはないが、アメリカの人類学においては、人間の研究では、「全体的holistic」な研究を進めるために、これらの四つの領域の研究はやはり重視すべきであるという考え方が強い。事実、この領域間の共同研究も行われ、たとえば、旧ハワイ王国の歴史に関する、考古学者カーチと文化人類学者サーリンズによる詳細な共同研究の成果が1992年に刊行されている。
アメリカの文化人類学はさらに社会人類学、経済人類学、生態人類学、心理人類学、認識人類学、象徴人類学などに分かれている。さらに医療人類学や、「開発」に関する問題を研究する開発人類学が生まれている。
ドイツ、オーストリアでは、人類学という語はアメリカの生物学的人類学のみをさし、文化面を扱うものとして民族学がある。後者は民族文化史を扱い、考古学もこれに含まれる。イギリスでは人類学を生物学的人類学、先史考古学、社会人類学に分け、社会人類学を文化人類学の一分野とみなさず、独立の学問と考え、文化人類学という名称は使わない傾向にある。社会構造の分析を重視するイギリスの社会人類学と文化の研究を重んずるアメリカとの間に1950年代に論争があったが、いまではその違いはあまりない。ただイギリスの社会人類学は、アメリカと異なり、言語学も含まない。研究方法としては、イギリスの社会人類学はアメリカと異なり、フランスのデュルケームやモースに由来する社会学的方法が重視されてきているのに対して、アメリカでは、心理学的方法が尊重されることが少なくない。
フランスでは、従来は民族学という語が使われていたが、最近では社会人類学という名称も使われている。フランスで最高の研究・教育機関であるコレージュ・ド・フランスで社会人類学の講座が創設されたのは1958年で、この最初の教授がレビ(レヴィ)・ストロースである。
現在、人類学という語が文化人類学や社会人類学をさす場合がアメリカやイギリス、そしてわが国においても少なくない。
[吉田禎吾]
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ヨーロッパでは,人類学は生物学的存在としての人類(化石人類,人種,人体の機能など)を研究する学問(自然人類学)を意味しているが,アメリカではもっと大きい概念であり,自然人類学と,文化的存在としての人類を研究する文化人類学の双方を含み,文化人類学は民族学のみならず考古学や言語学の一部を含む。文化人類学(民族学)はいわゆる伝統文化の比較研究から出発した学問で,19世紀半ばに独立の学問となったが,その成立のゆえに研究の対象の多くはいわゆる近代化の影響が比較的少ない諸民族の文化で,研究者のフィールドワークが大きな役割を果たしてきた。また,文字史料が多く職能分化の進んだ欧米や一部のアジアの地域における文化や人間の研究を拡大し,またときには批判する働きをしてきた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…ギリシア語のanthrōpos(人間)とlogos(言葉,理論,学)とに由来する16世紀のラテン語anthropologium,anthropologiaにさかのぼる用語で,〈人間の学〉を意味する。訳語の歴史は複雑で,1870年(明治3)西周(にしあまね)による〈人身学〉〈人学〉〈人道〉〈人性学〉の試みのあと,81年の《哲学字彙(じい)》は人と人類を訳し分け,anthropologyを〈人類学〉と訳し,84年の東京人類学会創立以来,明治・大正期には,もっぱら獣類・畜類と区別された人類の自然的特質の経験科学すなわち〈自然人類学〉の意味で使用され,人類の文化的特質に関する〈文化人類学〉としての使用は昭和期のことである。…
…人類学を大きく分けたときの一分野である。ギリシア語の人間anthrōposと学問logosを語源とする人類学は,文字どおり人間の科学である。…
…法律学を基礎的分野に含めない理由は,法律学の中心をなす法解釈学が経験科学とは性質を異にする技術学だと考えられることによる。経験科学として考えられた法律学は法社会学や法人類学となって,社会学,人類学に帰着する。人類学は自然科学と社会科学にまたがる学問であるが,それの社会科学部門である社会人類学および文化人類学は,その理論的な部分を社会学と共有する。…
…ギリシア語のanthrōpos(人間)とlogos(言葉,理論,学)とに由来する16世紀のラテン語anthropologium,anthropologiaにさかのぼる用語で,〈人間の学〉を意味する。訳語の歴史は複雑で,1870年(明治3)西周(にしあまね)による〈人身学〉〈人学〉〈人道〉〈人性学〉の試みのあと,81年の《哲学字彙(じい)》は人と人類を訳し分け,anthropologyを〈人類学〉と訳し,84年の東京人類学会創立以来,明治・大正期には,もっぱら獣類・畜類と区別された人類の自然的特質の経験科学すなわち〈自然人類学〉の意味で使用され,人類の文化的特質に関する〈文化人類学〉としての使用は昭和期のことである。これに対し〈人間学〉は,1871‐73年西周によりコントのsociologieの訳に当てられたが(人間は人間(じんかん)として人の世,世間を指すから),これは一般化せず,92年には倫理学を人間学と呼びうるという主張が生じ,97年に〈人間知〉〈世間知〉の意味で初めて著書の題名となった。…
…文化人類学は,自然(形質)人類学physical anthropologyと並んで人類学の一分科をなし,人類の集団的変異と類似を,とくに文化面について記述し,説明もしくは解釈することを基本的課題とする学問である。ここでは人類学の発達を,その誕生時にまでたどって整理・詳述する。…
※「人類学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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