伊集院城跡(読み)いじゆういんじようあと

日本歴史地名大系 「伊集院城跡」の解説

伊集院城跡
いじゆういんじようあと

[現在地名]伊集院町大田

神之かみの川中流域左岸、標高一四四メートルのじよう山、別称鉄丸てつがん山に築かれた中世の山城。北側は東から西に神之川が流れ、南側は愛宕山あたごやま台地に続き、東側の伊集院集落と西側の大田おおた低地との間は急な崖となっている。南の台地に続く野首の鞍部を掘切って城としていた。室町期以前は一宇治いちうじ城とよばれることが多かった。一二世紀末に伊集院郡司迎清が築城したと伝える。しかし紀姓伊集院氏の築城については確認できない。当城は鎌倉後期には伊集院地頭の島津久長の代官として入部した伊集院(島津)氏の領するところとなったといわれ、正応元年(一二八八)には神明社(現大田の伊勢神社)城山に祀ったというが(伊集院由緒記)、不詳。暦応三年(一三四〇)四月、南朝方になった伊集院忠国は当城に拠っていたが、同年八月北朝方の薩摩守護島津貞久に包囲されて(同四年閏四月日「禰寝清種軍忠状」禰寝文書)、当城を放棄し、祖父俊忠の築いたとされる伊集院郷ひら(古城)へ逃れ立籠った(町田氏正統系譜)。忠国は同五年に懐良親王谷山たにやま(現鹿児島市)に入るとこれに応じており(興国三年七月二二日「某書状写」阿蘇文書)、貞和四年(一三四八)頃には当城を回復していたと思われる(島津国史)

守護島津氏の元久没後、その弟久豊と忠国の孫頼久が元久の後継を争い、応永一八年(一四一一)から同二四年まで頼久の乱といわれる合戦が続いた。同二〇年冬頼久は久豊が菱刈ひしかり院攻撃に出陣した留守をついて、鹿児島の清水しみず(現鹿児島市)を襲撃している(島津国史)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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