懐良親王(読み)カネナガシンノウ

デジタル大辞泉 「懐良親王」の意味・読み・例文・類語

かねなが‐しんのう〔‐シンワウ〕【懐良親王】

[1329~1383]後醍醐ごだいご天皇の皇子。名は「かねよし」とも。南朝征西大将軍として、四国から九州に渡り、菊池氏らを集めて足利方に対抗。のち、今川了俊に攻められ、筑後ちくごに退いた。征西将軍宮

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精選版 日本国語大辞典 「懐良親王」の意味・読み・例文・類語

かねよし‐しんのう‥シンワウ【懐良親王】

  1. 後醍醐天皇の皇子。「かねなが」とも読む。南朝の征西大将軍として九州に渡り、菊池・阿蘇氏らに支援されて勢力を拡大し、大宰府に拠る。のち、九州探題今川貞世反撃にあい、筑後矢部の奥地に隠れる。鎮西宮。元徳元~弘和三年(一三二九‐八三

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朝日日本歴史人物事典 「懐良親王」の解説

懐良親王

没年:永徳3/弘和3.3.27(1383.4.30)
生年:生年不詳
南北朝期の後醍醐天皇の皇子。懐良は「かねなが」ともよむ。征西将軍宮と称された。建武3/延元1(1336)年後醍醐天皇は足利尊氏の講和を受け入れて比叡山より帰京,建武新政は瓦解したが,このとき,天皇は諸皇子を各地に派遣し再挙を図ろうとした。この際,懐良親王は九州へ派遣されることとなった。親王の九州下向の時期については,同年,暦応1/延元3(1338)年,暦応2/延元4年などの諸説がある。幼少であった親王は五条頼元らと共に下向した。親王らはまず伊予(愛媛県)忽那島に到着し,約3年ほど同地に滞在し,康永1/興国3(1342)年薩摩(鹿児島県)に上陸,肥後国(熊本県)の菊池武光のもとに身を寄せ,九州経営のための本拠とし,すぐさま,筑後征討に着手した。中央の政治がそのまま反映して,九州探題の一色範氏と尊氏に反旗を翻した足利直冬軍と勢力が分立し,南朝方は優勢であった。 延文4/正平14(1359)年武藤(少弐)頼尚の軍と筑後大保原で戦い,筑前より武藤氏の勢力を駆逐し,大宰府へと本拠を移した。幕府は,斯波氏経,渋川義行らを九州探題に任じて対抗させたが,相次いで敗退,征西将軍府優位となり,親王は菊池氏の軍事力を背景に,南北衰退の状況のなか,これから10年余,九州経営を行っていった。しかし,応安4/建徳2(1371)年今川貞世が九州探題として赴任してくるにおよび,勢力を切り崩され翌年には大宰府は陥落,親王らは筑後高良山,菊池へと敗退を余儀なくされた。九州を征圧し,京都回復を目指した親王ではあったが,この期におよび征西将軍職を退いた。その後継として良成親王が下向してきたが,南朝勢力の衰退はおおうべくもなかった。親王が将軍職を退いた時期についても諸説がある。その後,筑後矢部(福岡県八女市)に隠退,この地で没したと伝えられており,50歳余であったという。幼少に京都を出発し,その後一度も京に戻ることのない生涯であった。<参考文献>森茂暁『皇子たちの南北朝』

(小森正明)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「懐良親王」の意味・わかりやすい解説

懐良親王(かねよししんのう)
かねよししんのう
(?―1383)

後醍醐(ごだいご)天皇の皇子。「かねなが」とも読まれる。征西将軍宮。建武(けんむ)新政が挫折(ざせつ)したのち、後醍醐天皇は諸皇子を全国各地に派遣して、南朝勢力の回復を図ることを計画した。懐良親王は征西大将軍として九州に派遣されることになり、1342年(興国3・康永1)5月薩摩(さつま)国(鹿児島県)に上陸、1347年肥後(ひご)国(熊本県)に入り、菊池(きくち)氏の援助を受けて南朝勢力の拡大に努めた。1359年8月の筑後(ちくご)川の戦いで少弐頼尚(しょうによりひさ)の軍を破って優位にたち、1361年大宰府(だざいふ)を占拠して九州の覇権を確立し、九州の南朝勢力の全盛時代を迎えた。これに対抗するため室町幕府は斯波氏経(しばうじつね)、渋川義行(しぶかわよしゆき)を九州探題に任じ下向させたが、いずれも失敗した。しかし1371年今川了俊(りょうしゅん)が九州探題として下向してからは、南朝勢力は振るわなくなり、1372年(文中1・応安5)8月懐良親王も大宰府を放棄して、肥後国菊池に退いた。その後も筑後地方に進出し、北朝勢力と合戦を繰り返したが、しだいに衰退し筑後国矢部地方に逼塞(ひっそく)した。その後、征西将軍職を退き、矢部(やべ)(福岡県八女(やめ)市)で弘和(こうわ)3年50余歳で没した。墓所は筑後・肥後地方各地に残っているが確証はない。

[瀬野精一郎]

『藤田明著『征西将軍宮』(1915・宝文館)』『杉本尚雄著『菊池三代』(1966・吉川弘文館)』『川添昭二著『菊池武光』(1966・人物往来社)』


懐良親王(かねながしんのう)
かねながしんのう

懐良親王

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改訂新版 世界大百科事典 「懐良親王」の意味・わかりやすい解説

懐良親王 (かねよししんのう)
生没年:?-1383(弘和3・永徳3)

南北朝期の親王。後醍醐天皇の皇子。〈かねなが〉とも読む。征西将軍宮。阿蘇宮,鎮西宮などとも呼ぶ。母は御子左為道の娘三位局。南朝勢力の拠点を築くため九州征討の任と全権をおびて五条頼元らの従者と出帆。途中伊予忽那島,薩摩谷山に滞在したが,1348年(正平3・貞和4)肥後の菊池武光のもとに本拠を構えた。この時期中央の政情は九州にも3勢力(南朝,幕府,足利直冬方)の鼎立,錯綜を惹起させたが,菊池・阿蘇氏に支えられた懐良はこれをよくおさめ九州における南朝勢力を培った。さらに61年(正平16・康安1)には九州の政治的中枢たる大宰府を奪取,南朝衰退の全国的状況のなかで10余年にわたる征西府の全盛時代を築いた。この間幕府の力は九州に及ばなかったが,71年(建徳2・応安4)九州探題として下向した今川了俊がたくみに南朝勢力を切り崩し,72年に大宰府を陥落させた。こののち南朝勢力は肥後の山間部に追いこまれて衰滅。懐良は74年(文中3・応安7)ころ征西将軍職を甥の良成親王に譲る。筑後矢部にて没。
執筆者:

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百科事典マイペディア 「懐良親王」の意味・わかりやすい解説

懐良親王【かねよししんのう】

〈かねなが〉とも。後醍醐天皇の皇子。1338年征西将軍となり,四国を経て九州に渡った。菊池・阿蘇氏らの支持を得て大宰府を中心に南朝の勢力をはったが,今川了俊が九州探題として赴任するに及び次第に圧迫され,征西将軍職を良成(よしなり)親王に譲って筑後の奥地に隠退,同地で没。
→関連項目菊池武光征西将軍八代宮

懐良親王【かねながしんのう】

懐良親王(かねよししんのう)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「懐良親王」の意味・わかりやすい解説

懐良親王
かねながしんのう

[生]元徳1(1329)
[没]弘和3=永徳3(1383).3.27. 筑後,矢部?
南北朝時代の南朝征西将軍宮。後醍醐天皇の皇子。足利尊氏離反にあたり征西大将軍に任じられ,五条頼元らに守られて出立,四国に渡る。興国3=康永1 (1342) 年薩摩に行き九州の勤王党菊池,阿蘇ら豪族に擁せられて経略に従事。大宰府に入り,北九州を確保して南朝唯一の地方勢力として重きをなした。この勢威に驚いた足利氏は初め渋川義行を,さらに今川貞世 (了俊) を遣わして勢力の回復にあたらせたため,征西府は圧迫され,大宰府は陥り,親王は退去,天授1=永和1 (75) 年将軍職を良成親王に譲り筑後矢部に隠居,同地で没したらしい。陵墓は熊本県八代市宮地にある。

懐良親王
かねよししんのう

懐良親王」のページをご覧ください。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「懐良親王」の解説

懐良親王 かねよししんのう

?-1383 南北朝時代,後醍醐(ごだいご)天皇の皇子。
建武(けんむ)3=延元元年(1336)南朝の征西将軍に任命され,薩摩(さつま)(鹿児島県)に上陸。のち肥後(熊本県)にはいり,菊池武光らに支持されて九州に勢力をきずく。康安元=正平(しょうへい)16年大宰府(だざいふ)を占拠,九州の南朝方の隆盛時代をひらいた。征西将軍宮,鎮西宮(ちんぜいのみや)とよばれた。永徳3=弘和3年3月27日死去。名は「かねなが」ともよむ。

懐良親王 かねながしんのう

かねよししんのう

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「懐良親王」の解説

懐良親王
かねよししんのう

1330?~83.3.27

「かねなが」とも。後醍醐天皇の皇子。1336年(建武3・延元元)後醍醐天皇から征西将軍に任じられ九州へ下る。48年(貞和4・正平3)肥後の菊池氏の本拠に入って勢力をのばし,61年(康安元・正平16)には大宰府を掌握。71年(応安4・建徳2)明から「日本国王」に封じられる。翌年九州探題今川貞世(了俊)によって大宰府を追われ,征西将軍職を退いて筑後国矢部に隠退,この地に没した。

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旺文社日本史事典 三訂版 「懐良親王」の解説

懐良親王
かねよししんのう

1329〜83
南北朝時代の皇族
後醍醐 (ごだいご) 天皇の皇子。南北朝の内乱で1338年南朝の征西大将軍に任命され,四国から九州に渡り,南朝軍を指揮して足利軍と交戦,肥後の菊池・阿蘇両氏らに支持されて '61年から10年間大宰府 (だざいふ) を中心に全九州を統一した。これに対して足利氏は九州探題として渋川氏,さらに今川了俊(貞世)を派遣。了俊に圧迫されて筑後矢部の奥地で没した。

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世界大百科事典(旧版)内の懐良親王の言及

【懐良親王】より

…南北朝期の親王。後醍醐天皇の皇子。〈かねなが〉とも読む。征西将軍宮。阿蘇宮,鎮西宮などとも呼ぶ。母は御子左為道の娘三位局。南朝勢力の拠点を築くため九州征討の任と全権をおびて五条頼元らの従者と出帆。途中伊予忽那島,薩摩谷山に滞在したが,1348年(正平3∥貞和4)肥後の菊池武光のもとに本拠を構えた。この時期中央の政情は九州にも3勢力(南朝,幕府,足利直冬方)の鼎立,錯綜を惹起させたが,菊池・阿蘇氏に支えられた懐良はこれをよくおさめ九州における南朝勢力を培った。…

【観応の擾乱】より

…南軍は52年閏2月畿内・関東で一斉に蜂起し,畿内では京都を一時占領して北朝の天皇・両上皇・皇太子を奪い去り,関東では上杉憲顕勢を加えて一時は尊氏を追って鎌倉を占領した。また九州では直冬党と探題一色氏との対戦に乗じて征西将軍懐良親王が菊池氏に擁せられて勢力を拡大した。直冬は南朝に帰順して中国に移り,畿内の南軍,北陸の桃井,さらに幕府中枢から疎外された山名時氏などを戦列に加え,55年(正平10∥文和4)まで2回にわたり京都を占領した。…

【九州探題】より

…続いて49年,中央幕府政局における二頭政治対立の影響で,足利直義の猶子直冬(尊氏の庶長子)が西下。また前年の征西将軍宮懐良親王の下向もあって,九州地方の政治的勢力関係は,幕府方(尊氏―鎮西管領一色氏),直冬方,宮方(南朝―征西府)という三者鼎立となり,いわゆる観応(かんのう)の擾乱につながる。概して直冬方が最優勢といえるが,南九州守護島津氏は幕府方に立ち,北九州守護少弐氏は直冬方,中九州の肥後守菊池氏は宮方であった。…

【征西将軍】より

…《続日本紀》養老4年(720)7月の条に征隼人持節大将軍に任命された大伴旅人のことを征西将軍と称したのが初見史料であるが,その後,941年(天慶4)藤原純友の乱を平定するため藤原忠文を征西大将軍に任じ,その下に副将軍,軍監などを配した。 以来久しく征西将軍府は設置されなかったが,後醍醐天皇は九州地方における南朝勢力の拡大を意図し,1338年(延元3∥暦応1)皇子懐良(かねよし)親王を征西将軍に任じ下向させた。親王は五条頼元以下少数の従者を率いて42年(興国3∥康永1)5月1日薩摩国に上陸し,征西将軍宮と称された。…

【八代宮】より

…一名〈将軍さん〉とよばれる。後醍醐天皇皇子懐良親王を主祭神とし,後村上天皇皇子良成親王を配祀する。明治になり,建武中興の功績者を顕彰する機運が高まるなかで,いずれも南朝の征西将軍宮として四国・九州で活躍した勲功により,1880年官幣中社に列して奉斎する旨の勅命が発せられ,84年懐良親王ゆかりの八代城址に鎮斎された。…

※「懐良親王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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