日本歴史地名大系 「大田村」の解説
大田村
おおたむら
〔中世〕
薩摩国建久図田帳に「大田十五町」とみえ、本主(開発領主か)は薩摩国在庁官人の大前道友で、大隅正八幡宮(現鹿児島神宮)領のうちの万得領であった。しかしその帰属をめぐって島津庄と大隅正八幡宮との間で相論中であった。鎌倉後期と推定される薩摩国伊集院分造宇佐宮用途支配注文(島津家文書)によれば、大田は豊前宇佐宮から造営用途四四疋・人夫食料米一石三合を賦課されている。なお前掲図田帳に日置庄(現日吉町)下司としてみえる小野太郎家綱は大田に居住し、大田氏を号したという(「肝付兼重伝」旧記雑録)。文保元年(一三一七)と推定される薩摩国御家人交名注文(玉里文庫蔵古文書類)では伊集院の御家人として太田入道跡とみえる。興国三年(一三四二)と推定される六月吉日の御感綸旨所望輩注文(旧記雑録)に南朝方に属した島津道忍(伊集院忠国)に従った大田八郎左衛門入道蓮義がみえる。
大田村
おおたむら
- 鹿児島県:大口市
- 大田村
大田村
おおだむら
北は
「注進案」によれば、「日本書紀」仲哀天皇八年九月条(神功紀一書も同様)の、新羅出兵の神託の中で神が「穴門直践立の献れる水田、名づけて大田といふ、是等の物を以て幣ひたまへ」という大田が当地であるとし、続いて「されバ神慮に任せて此地を其供御田とし給へるにや、今の世一ノ宮御散米てふものを毎年貢ギに来る時に先ヅ大田を先キとする事旧例たり」と述べて、一ノ宮(現下関市の住吉神社)の神領であったとする。
大田村
おおたむら
大田村
おおたむら
大田村
おおたむら
- 大分県:西国東郡
- 大田村
国東半島の中央部やや南に位置し、東は東国東郡
大田村
おおたむら
- 新潟県:燕市
- 大田村
東は
大田村
おおだむら
旭川に注ぐ
大田村
うふたむら
大田村
おおたむら
大田村
おおたむら
- 石川県:七尾市
- 大田村
加賀藩領。寛永一二年(一六三五)の鹿島郡喜兵衛組役家書上(藤井文書)に村名がみえ、役家二八。
大田村
うふたむら
大田村
おおたむら
大田村
おおたむら
大田村
おおたむら
大田村
おおたむら
太田村とも記す。北は
大田村
おおだむら
府中町の西、
両村とも慶長五年府中本多氏知行所となるが、同二〇年、本多氏の菩提寺である府中
大田村
おおだむら
大田村
だいたむら
大田村
おおだむら
大田村
おおたむら
大田村
おおたむら
大田村
おおたむら
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報