大田村(読み)おおたむら

日本歴史地名大系 「大田村」の解説

大田村
おおたむら

[現在地名]伊集院町大田

下谷口しもたにぐち村の北西、飯牟礼いいむれ村の北、神之かみの川中流左岸の標高一〇〇―二〇〇メートル前後のシラス台地に立地する。東端に伊集院城跡があるじよう(じょやまとも、一四四メートル)がある。城山の南麓を出水いずみ筋が通り、ほぼ街道沿いに東から西にかみなかしもの三集落がある。

〔中世〕

薩摩国建久図田帳に「大田十五町」とみえ、本主(開発領主か)は薩摩国在庁官人の大前道友で、大隅正八幡宮(現鹿児島神宮)領のうちの万得領であった。しかしその帰属をめぐって島津庄と大隅正八幡宮との間で相論中であった。鎌倉後期と推定される薩摩国伊集院分造宇佐宮用途支配注文(島津家文書)によれば、大田は豊前宇佐宮から造営用途四四疋・人夫食料米一石三合を賦課されている。なお前掲図田帳に日置庄(現日吉町)下司としてみえる小野太郎家綱は大田に居住し、大田氏を号したという(「肝付兼重伝」旧記雑録)。文保元年(一三一七)と推定される薩摩国御家人交名注文(玉里文庫蔵古文書類)では伊集院の御家人として太田入道跡とみえる。興国三年(一三四二)と推定される六月吉日の御感綸旨所望輩注文(旧記雑録)に南朝方に属した島津道忍(伊集院忠国)に従った大田八郎左衛門入道蓮義がみえる。


大田村
おおたむら

[現在地名]大口市大田

木之氏きのうじ村の南西にあり、北西はほぼ南西流する牛尾うしお川を隔てて小木原こぎはら村、南はさと村。西方で羽月はつき川が牛尾川を合せ南流する。大口筋がほぼ南北に通る。永和三年(一三七七)一〇月二八日の一揆神水契状案(禰寝文書)の署判者の一人に「牛屎太田」の沙弥元清がみえる。元清はおそらく牛屎氏の庶流であろう。永享六年(一四三四)正月二六日の樺山殿宛本田重経・平田氏宗連署坪付(樺山文書)にみえる「大田之内前原之門」の前田などの計一町七反余も当地をさすか。寛正六年(一四六五)一一月一五日の牛山院坪付(田代家文書写)に、大田名中ノ橋の口門分として下もちい田・つるかい・みちそい・むた・又みそゝ井の一町一段、同名おさまちの門分としてしやうちんおさまち・つるた・きさきの田・ふるかいの二町二〇代、浮免としてもちい田の三段がみえる。永禄一三年(一五七〇)二月には牛屎うしくそ院のうちの浮免九段が内田主馬首に宛行われており、このうちに大田名「三むた先三町牟田」の二段が含まれていた(「島津氏老臣連署坪付」旧記雑録)


大田村
おおだむら

[現在地名]美東町大字大田

北は絵堂えどう長登ながのぼり、東は佐々並ささなみ(現阿武郡旭村)、南は綾木あやぎ、西は秋吉あきよし(現秋芳町)などの各村と接し、四方を山に囲まれる。村内を船木ふなき街道と赤間関あかまがせき街道(中道筋)が通り、船木街道沿いに美祢宰判の勘場(代官所)と宿が置かれていた。ほぼ中央を厚東ことう川の支流大田川が南流する。

「注進案」によれば、「日本書紀」仲哀天皇八年九月条(神功紀一書も同様)の、新羅出兵の神託の中で神が「穴門直践立の献れる水田、名づけて大田といふ、是等の物を以て幣ひたまへ」という大田が当地であるとし、続いて「されバ神慮に任せて此地を其供御田とし給へるにや、今の世一ノ宮御散米てふものを毎年貢ギに来る時に先ヅ大田を先キとする事旧例たり」と述べて、一ノ宮(現下関市の住吉神社)の神領であったとする。


大田村
おおたむら

[現在地名]津幡町上大田かみおおた

大海おおみ川上流右岸、広く開けた谷間に位置。能登国羽咋はくい郡に属し、近世初期は太田と記した(正保郷帳など)長柄ながら用水の取水口があった。天正一九年(一五九一)一〇月、前田利家が織田信長の旧臣不破源六に宛行った知行地に太田村一千三五八俵余(うち荒分六八八俵)がある(「不破源六宛文書写」加越能文庫)正保郷帳では高四一二石余、田方一六町六反余・畑方一〇町八反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高七二一石、免四ツ九歩、小物成は山役一九八匁・苦竹役七匁、鳥役一〇匁(出来)であった(三箇国高物成帳)。享保九年(一七二四)の高五一三石、家数八〇、うち頭振二三(「押水組巨細帳」岡部文書)


大田村
おおたむら

[現在地名]桃生町太田おおた

北上川右岸の丘陵谷間に集落が散在する。北沢きたさわ袖沢そでさわ薬田くすだ小池こいけ拾貫じゆつかん入沢いりさわ宗前山そうぜんやま九郎沢くろうさわなどの集落からなる。南は飯野いいの(現河北町)、北西は寺崎てらさき村。寛永六年(一六二九)登米伊達家二代白石刑部太輔(宗貞)宛の伊達政宗領知黒印状(伊達家文書)に桃生のうち「大田村」として、七貫一八五文が記され、正保二年(一六四五)まで白石氏の所領があった(登米藩史稿)。寛永二一年の小梁川氏の知行目録(小梁川一良家文書)によれば、当地一一貫文を知行。正保郷帳では田五三貫三九一文・畑一三貫二一八文で水損・旱損と注され、ほかに新田六八貫七五六文。


大田村
おおたむら

面積:四六・〇七平方キロ

国東半島の中央部やや南に位置し、東は東国東郡安岐あき町、南は杵築きつき市・速見郡山香やまが町、西および北は豊後高田市に接する。国東半島では海に面していない唯一の行政区。中央部のよこ(三八九・五メートル)から南のチシャノキ峠、さらに波多方はだかた峠に連なる稜線、横岳から北側の走水はしりみず峠に至る稜線とが分水嶺となり、地形上村を東西に二分する。東の朝田あさだ地区の中央を流れる白木原しらきばる川は安岐川の源流域に、西の田原たわら地区を源流域とするかつら川は地区の中央部を南流している。


大田村
おおたむら

[現在地名]燕市秋葉あきば町一―四丁目・水道すいどう町一―四丁目・白山はくさん町一―三丁目・東太田ひがしおおた新栄しんえい

東はなかくち川に面し北は杣木そまぎ村、南は大関おおせき村・小関こせき村がある。天正五年(一五七七)の三条衆給分帳(市川浩一郎氏蔵)に「白川彦八郎分 太田村・とゝろ木村・そまき・こ関村」とある。正保国絵図は高一千三二〇石余で幕府領。貞享元年(一六八四)の村上藩領分郷村高辻帳は一千四一三石四斗余。天保三年(一八三二)の高反別帳(小林家文書)によると、明暦三年(一六五七)に村上藩の検地があり、本田畑(屋敷を含む)一千五五一石四斗余(反別三四町三反余)、新田四石九斗(四反余)、見取新田(田畑屋敷)五七一石七斗余(五二町三反余)となり、寛文元年(一六六一)の新田(戌明・亥明・子明・丑明)検地で三七石四斗余(三町五反余)が増加している。


大田村
おおだむら

[現在地名]建部町大田

旭川に注ぐ長谷ながたに川に沿った谷間に広がり、西は旭川に面し、東は小鎌おがも(現赤磐郡吉井町)、南は土師方はじかた村・吉田よしだ村、北は美作国の下神目しもこうめ村などにそれぞれ山境に接する。赤坂あかさか郡に属し、寛永備前国絵図に大田村高六四八石余とあり、「大田村内」と記された二ヵ村の枝村の表示がある。慶安元年(一六四八)の妙圀寺寄進帳(妙圀寺文書)には大田上村・大田中村・大田下村があり、貞享元年(一六八四)の赤坂郡高目録(池田家文庫)では枝村を大田上村・大田中村とし、「撮要録」では同三年大田上村を上谷かみだに、大田下村を下谷に枝名替えしたとする。「備陽記」は枝村を上谷・下谷・井手口いでぐち鎌谷かまだに白石しらいし上山うえやまとする。同書によれば本村分田畠一九町三反余、家数六六・人数四八四、上谷分田畠一三町余、家数二九・人数二三七、下谷分田畠一四町九反余、家数四一・人数三四九、高瀬舟三。


大田村
うふたむら

[現在地名]久米島町大田おおた仲泊なかどまり鳥島とりしま

具志川ぐしちやー間切南東部に位置し、南東は兼城かにぐしく村、北西は西銘にしみ村。大田うふた集落の西方に中泊なかどうまい集落がある。西部を浦地うらじ川が流れる。絵図郷村帳に「おほた村」とみえる。琉球国高究帳では「おほた村」の高頭一六石余、うち田八石余・畠八石余。康熙三〇年(一六九一)の久米具志川間切諸地頭作得帳(与世永家文書)によれば、大田大屋子(脇地頭)が任じられており、采地高一三石余、作得八石余。乾隆一一年(一七四六)久米島検地により諸村が再編されたが、翌一二年の村高は田一二八石余・畠四三石余(「久米具志川間切諸村取納帳」同文書)


大田村
おおたむら

[現在地名]大和町鶴巣つるす 太田おおた

七北田ななきた丘陵の北斜面、南から小鶴沢おつるざわ川が川原田かわらだ川となって開析谷をともなって北流する。東と西は丘陵地。道は多賀城から利府りふ(現宮城郡利府町)を経て下草しもくさ吉岡よしおかに通ずる古代の奥郡への駅路が、村の南で小鶴沢村からの路と合して西側丘陵の東縁を走る。西は今泉いまいずみ(現富谷町)、南は山田やまだ村、北は幕柳まくやなぎ村、東は大谷成田おおやなりた(現大郷町)


大田村
おおたむら

[現在地名]七尾市大田町

崎山さきやま半島西側に位置し、七尾南湾に西面する。南西に佐味さみ村が連なる。太田村とも記した。長浜ながはま浦沿いに北から赤崎あかさきたきしり海門寺かいもんじ藤平谷内とべやちの垣内がある。戦国後期頃の能登内浦村々給人注文写(諸橋文書)に太田とみえ、海門寺の給地。ほかに滝尻・赤崎・くぬきがあり、斎藤太郎四郎の給地。

加賀藩領。寛永一二年(一六三五)の鹿島郡喜兵衛組役家書上(藤井文書)に村名がみえ、役家二八。


大田村
うふたむら

[現在地名]具志川市大田おおた川田かわた

具志川ぐしちやー村の南東にあり、南は勝連かつちん間切南風原へーばる(現勝連町)。具志川村の間切番所から首里方面へ通じる街道があり、その途中には中城なかぐすく湾を眺望できる標高八〇メートルの大田うふたバンタがある。大田バンタから南下する坂を大田うふたビラ(坂)とよんでいるが、この坂道は近世に造られた石畳の道で、一部破壊されているが現存する。「おもろさうし」巻一六の四一に「一 たいらまさりきよか(平良勝り子が)/あかはんた のほて(赤ハンタに登って)/おほたはる みやれは(大田原見やれば)/しらちやねの よりなひく きよらや(白種〔稲穂〕が揺れ靡く美しさよ)/又 とよむまさりきよか(鳴響む勝り子が)」とある。


大田村
おおたむら

[現在地名]涌谷町太田おおた

箟峯こんぽう寺北側直下にある。東は塩釜しおがま吉住よしずみ村と接し、西は小里おさと村。北は寛文事件の発端になった小里谷地で、その間をはさま川が流れて低湿地を形成する。集落は篦岳ののだけ丘陵北麓の低湿地に張出した丘陵先端にあり、東西に縫うように吉住村・小里村、大貫おおぬき(現田尻町)への道が通る。元和九年(一六二三)の伊達政宗領知黒印状(伊達家文書)によれば、大崎おおさき・遠田のうち「大田野谷地若林より西小里境」までの五貫文などが広田彦左衛門尉に与えられており、五年は荒野扱いで、その後検地を行うとしている。正保郷帳では田一四貫四四七文・畑二貫三二一文で旱損・水損・雑木山と注され、ほかに新田三貫九四二文。「安永風土記」では田三〇貫一八四文・畑六貫四四二文(うち茶畑三五文)で、蔵入七貫三一八文。


大田村
おおたむら

[現在地名]岩美町太田おおた

本庄ほんじよう村の南東、蒲生がもう川・小田おだ川の合流点の南に位置する。太田村とも記した(「在方諸事控」など)。支村にみどりがある(因幡志)。集落の中を通る但馬往来の間道が当地で南方の小田谷へ分岐しており、地内に残る享保一六年(一七三一)銘の道標には「右小田谷 左岩井湯村道」と記されている。拝領高は二六五石余、本免は四ツ六分。藪役銀一匁一分を課されており(藩史)、井村氏・菅沼氏の給地があった(給人所付帳)


大田村
おおたむら

[現在地名]広川町太田おおた

吉里よしさと村の南にあり、北部を広川が流れる。太田とも記される。「和名抄」に記す上妻かみつま郡太田郷の遺称地とされる。建武三年(一三三六)三月日の藤吉光童丸軍忠状案(高浜辺文書/南北朝遺文(九州編)七など)に「大田・清水合戦」とみえ、光童丸は建武三年二月二七日の同合戦で討死した父種家への恩賞として、文永の役の恩賞として拝領したものの元徳元年(一三二九)に収公された三潴みづま藤吉ふじよし(現久留米市)の返付を求めている。


大田村
おおたむら

[現在地名]吉田町西太田にしおおた

太田村とも記す。北は中野なかの村・大島おおじま村に接し、西にし川を境に西に接する佐善さぜん(現分水町)と一部宅地・耕地が錯雑する。元和四年(一六一八)の長岡藩知行目録の高五八九石四斗余。正保国絵図では高九四〇石余。慶安二年(一六四九)長岡藩の検地があり、中野村と法花堂ほつけどう村が分れた(皇国地誌)元禄郷帳の高五八九石四斗余、文政一三年(一八三〇)の長岡領分高附録(長岡の歴史)では本与板組に属し、高八九五石七斗で、以後村高はあまり変わらない。安政五年(一八五八)の戸数は一〇二(「旧長岡城主牧野家領地七ケ組村名・反別・戸数一覧表」同書)。明治八年(一八七五)の税地は田五九町六反・畑二六町三反・宅地二町四反七畝、おもな飛地は中野村内に九反、中野村・杣木そまぎ廿六木とどろき(現燕市)の間に六反歩がある。


大田村
おおだむら

[現在地名]武生市上太田かみおおだ町・下太田しもおおだ

府中町の西、吉野瀬よしのせ川左岸に沿う。享禄二年(一五二九)七月一九日付の青木景康・印牧美次連署状写(田中家蔵)に「広瀬村より大虫之社岡本・太田野三箇村」とある「太田野」は当地と考えられる。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名と高一〇七六・七五五石が記される。正保郷帳から上大田村・下大田村に分けて記され、上大田村は田方六〇六石余・畠方一〇四石余、下大田村は田方二八二石余・畠方三三石余。のち両村とも「太田」の字を用いている(天保郷帳)

両村とも慶長五年府中本多氏知行所となるが、同二〇年、本多氏の菩提寺である府中竜泉りゆうせん寺領として上大田村のうち五〇石が除地となった。


大田村
おおだむら

[現在地名]板柳町太田おおだ

東は長野ながの村、西は五所川原堰を境に福野田ふくのだ村、南は横沢よこさわ村、北は深味ふかみ村に接する。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の田舎いなか郡の新田に大田村三五二・三二石とある。貞享四年(一六八七)の検地帳は田方二八町四反六畝七歩、畑方九町八反三畝二八歩、田畑屋敷合せて三八町三反五歩、村高三一八・八四五石、百姓三四人、郷蔵屋敷、漆木二〇本と記す。


大田村
だいたむら

[現在地名]豊田市豊松とよまつ町 大田

ともえ川支流のたき川沿いにあり、下河内しもごうちから足助あすけ(現東加茂郡足助町)に抜ける外下山としもやま街道が通る。字トドロの信光しんこう寺蔵方便法身尊像享禄五年(一五三二)銘の裏書に「針崎勝満寺下 三河国加茂郡大田信光寺」とあり、「大田」の名がみえる。また、下河内・大田・歌石うたいし境にある標高二三四メートルの城山は、大田城跡と伝える。現在は山林となっているが、削平地・削崖・石垣が残る。


大田村
おおだむら

[現在地名]安芸津町大田

風早かざはや村の北西に位置し、南は小松原こまつばら村、西は女子畑おなごばた(現安浦町)に接する。北西は標高四〇〇―五〇〇メートルの山地で、南にやや低く、女子畑村より東流する広瀬ひろせ川が村内北西部から南流する川と合流して高野たかの川となり風早村に入る。慶長六年(一六〇一)の福島検地以前は小松原村と同じく風早村に含まれていたといわれるが、元和五年(一六一九)の安芸国知行帳に高一八五・三九石が記される。


大田村
おおたむら

[現在地名]諸富町大字大堂おおどう太田おおた土師はじ

諸富津もろどみつの北、大津村の北隣に位置する。慶長絵図に「大田 高二千四百九石五斗二升」とある。

この地を太田庄の遺称地とする説もあるが(杵島きしま郡の→太田庄)、一般には太田の名は、太田道灌より五代の胤太田美濃守資元(浄泉)河副かわそえ庄に下向したことに始まるといわれる。太田氏はのち鍋島氏に仕え、佐賀藩国老役を務めた。

村内には資元が創建した曹洞宗の補陀落山慈広じこう寺と太田神社がある。


大田村
おおたむら

[現在地名]美浜町太田おおた

佐田さた村の南、駈鞍かけくら山北部の山裾太田谷にある。小名として山本やまもと中筋なかすじ門前もんぜんなどがある。「親元日記別録」政所賦銘引付の文明一〇年(一四七八)九月二一日条に収められた田辺四郎右衛門尉貞次の訴状に「太田極楽寺」とみえる。


大田村
おおたむら

[現在地名]御調町大田

丸河南まるかなん村の東、御調川南岸に位置する。南部は標高三〇〇メートル級の山地で、西寄りの山中に丸河南村分の御建山がある。御調川沿いの平坦地には条里制の遺構が認められる。「御調郡誌」によると、室町時代末期に栗原くりはら(現尾道市)千葉氏の支族今田氏の領地であった。

元和五年(一六一九)の備後国知行帳に村高四三一・九二五石とあり、「芸藩通志」による畝数三〇町七反余、高四四七・三九七石、戸数八六・人口四六四、牛二八・馬一九。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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