改訂新版 世界大百科事典 「休浜法」の意味・わかりやすい解説
休浜法 (やすみはまほう)
瀬戸内海のデルタ発達にともなう入浜塩田の干拓造成の進行は,1750年(寛延3)ころとなると,塩の生産過剰→塩価下落→塩田不況をもたらした。この危機打開策として51年(宝暦1)安芸国瀬戸田浜の三原屋貞右衛門が提案したのが休浜法で,それは10月~1月の間休業して労賃節約,塩価上昇をはかるものであった。60年ころには備後,安芸,伊予の休浜同盟が成立したが,まもなく瓦解した。71年(明和8)周防国三田尻浜の田中藤六が再び9月~2月の半年休業と替持(かえもち)法(1塩田の1/2または1/3を交替に操業する)を提唱し,72年(安永1)から周防,長門,続いて備後,安芸,伊予が加わり,毎年安芸の厳島で会合して規約を確認し情報を交換した。漸次備中,備前,播磨,阿波,讃岐も加わり,1813年(文化10)から毎年の会合を備前瑜伽山(ゆがさん)と厳島で交互に開催した。効果は1775年ころからあらわれ,85年(天明5)ころには一時好況を回復したようである。この十州休浜同盟は1875年まで存在した。
執筆者:広山 尭道
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報