佐々岐庄(読み)ささきのしよう

日本歴史地名大系 「佐々岐庄」の解説

佐々岐庄
ささきのしよう

福知山市の北部、南は常願寺じようがんじ大呂おおろから北は三岳みたけ山・天座あまざまでの一帯に比定され、西部佐々木ささき川流域を上山かみやま保、東部長尾ながお川・大呂川流域と一部天座川流域を下山保と称した。三岳山古くから山岳霊場として開かれ、遅くとも南北朝初期には山頂蔵王ざおう権現(現三嶽神社)が祀られており、下山保きた(喜多)村には別当寺金光きんこう(妙香院末寺)があった。

荘名の初見は康治元年(一一四二)八月二二日付官宣旨案(塚本吉彦氏所蔵文書)で、

<資料は省略されています>

とある。これによれば佐々岐庄は九条右大臣(道長の父藤原兼家)の夢告により、大入道大相国(道長)と慈忍権僧正が兼家の女詮子(東三条院)の産んだ一条天皇の皇胤と道長の子孫繁栄を願って延暦寺末妙香みようこう(跡地は現八幡市)を建て、そこに寄進した官省符荘であったことが知られる。この時も近衛天皇即位に伴う大嘗会役を国司から課せられたが、先例によってこれを停止している。

その後も妙香院領として存続していたことは、応安五年(一三七二)四月一三日付および明徳四年(一三九三)一〇月二二日付の妙香院門跡令旨(金光寺文書)、応永二七年(一四二〇)二月九日付法眼某奉書(同文書)などによって知られるが、これ以降は妙香院との関係をうかがわせる史料は消える。

南北朝期に佐々岐庄に勢力を有していた土豪に大中臣那珂氏がいる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報