金光寺(読み)きんこうじ

日本歴史地名大系 「金光寺」の解説

金光寺
きんこうじ

[現在地名]福知山市字喜多

三岳みたけ山の南腹、標高およそ三六〇メートルほどの所にあり、東南方からすヶ岳・おにじようを見はるかすことができる。三岳山千手せんじゆ院と号し、高野山真言宗、本尊不動明王。

中近世を通じ、三岳山上蔵王ざおう権現(現三嶽神社)別当寺で、両者は約一千メートルほどの距離である。なお平安・鎌倉時代には当地は延暦寺末の妙香みようこう院門跡領佐々岐ささき(上山保・下山保)で、蔵王権現別当寺も妙香院の支配下にあった。

明徳五年(一三九四)正月一一日付沙弥威光(大中臣実宗)の金光寺衆徒宛文書(金光寺文書)によって建立(再建)に至る経過が知られる。ちなみに大中臣那珂氏は鎌倉末期に当地に来住したと伝える土豪で、佐々岐庄に勢力を伸長していた。

衆徒宛文書によれば当時蔵王権現神領上山かみやま保が領家代官に押領されており、それに原因してか蔵王権現別当寺が退転していたらしいこと、応安二年(一三六九)守護から上山保の地頭職を認められた沙弥威光の尽力により、上山保は一円金光寺領であることが改めて本所(妙香院)から確認されたこと、沙弥威光こと大中臣実宗が檀越として別当寺を再建したこと、金光寺という寺名はこの時名付けられたものであることなどがわかる。


金光寺
こんこうじ

[現在地名]下京区本塩竈町

時宗。六条道場市中山と号し、本尊は定朝作と伝える阿弥陀如来。もと七条大路北、堀川ほりかわ西にあり、平安京の東市の地にあったため、市屋いちや道場と称した(金光寺縁起)。創建について「山州名跡志」は「空也上人承平年中ニ上人市姫ノ得神勅開也。以薬師仏本尊、今ノ薬師是ナリ」と記す。もと天台宗であったが時宗に改宗したのは「弘安九年ノ秋、此宗祖一遍上人都下弘通ノ時、此寺空也上人以開基、念仏教化ノ旧例ニ因ンデ来ツテ勤行ス、時ニ老若群詣シテ如市、遂ニ当寺ノ住持、諱ハ俊暁、号唐橋法印、上人勧化ヲ帰敬シテ弟子トナリ、改テ号作阿上人、自是当宗ヲ嗣デ一派ノ本寺ナリ」とする(山州名跡志)


金光寺
こんこうじ

[現在地名]長浜市十里町

新荘山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。湖北十ヵ寺の一つ。寺伝によれば、承和二年(八三五)良信により開かれ、天台宗に属したが、のち了善が正和年間(一三一二―一七)に覚如に帰依して真宗に改宗したという。以後、了空・了恵・了専・了照と継ぎ、了照は明応九年(一五〇〇)七月二八日に実如より十字名号を下付され、裏書に「江州坂田北郡福永庄南方金光寺常住物也、願主釈了照」とあって(寺蔵)、実如期には寺号を名乗っていた。永享七年(一四三五)の「長浜八幡宮勧進猿楽記録」にみえる金光寺は当寺にあたるか。


金光寺
こんこうじ

[現在地名]鈴鹿市東庄内町 階下

東庄内ひがししようない集落南東の階下かいげにあり、曹洞宗、山号無量山、本尊阿弥陀如来。宝暦二年(一七五二)に書かれた「勢州鈴鹿郡原之庄階下、無量林金光禅寺興廃旧記」によれば、仁治二年(一二四一)天台僧円海による開基とされ、貞治元年(一三六二)には管領斯波家の者がこの寺で僧となり、文明二年(一四七〇)には、後花園院の皇女も入寺したという。その墓をひめ塚といった。その後川崎かわさき(現亀山市)の峯氏の菩提寺ともなった。中世旱魃のとき、鈴鹿川下流域の村々は野登ののぼり(八五一・六メートル)に登り雨乞をしたが、途中この寺を休憩所とし、やがてこの寺で雨乞の踊を行う例ともなった。

天正一一年(一五八三)峯城陥落の際、当寺も焼失、衰微したが、慶長三年(一五九八)曹洞宗の曲川によって再興され、同宗に転じた。


金光寺
こんこうじ

大宰府に所在した時宗の寺院。「時衆過去帳」には、文和三年(一三五四)八月二〇日の項目に「遊行第八 侍阿弥陀仏」、その裏書に「宰府」と記されるのを初見として、計五名、尼衆として二名が宰府時衆として書上げられており、大宰府でも時衆の活動がみられた。その活動拠点と考えられるのが金光寺である。享保六年(一七二一)に書写された遊行派末寺帳(京都七条道場旧蔵)の筑前の項目に「金光寺 宰府」、宝暦年中(一七五一―六四)に書写された時宗十二派本末惣寺院連名簿(竹野興長寺蔵)の筑前の項目にも「宰府 金光寺」とみえる。


金光寺
こんこうじ

[現在地名]五ヶ瀬町鞍岡

超耀山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。寺伝によれば慶長元年(一五九六)了正の開基で、肥後熊本西光さいこう寺の末寺であったが、延岡藩主有馬氏の時代に延岡妙専みようせん寺の末寺になった(元禄四年「妙専寺由緒書」妙専寺文書)。正徳四年(一七一四)の高千穂小侍宗門改帳(工藤家文書)によると興呂木八之丞と家族が檀那となっていた。


金光寺
こんこうじ

山城町内にあったと推測される寺院。池田いけだ川崎の三所かわさきのさんしよう神社蔵の大般若経巻四六一の奥書に、応永九年(一四〇二)相月(七月)一八日付で「阿州田井庄山城郷大井村金光寺住僧」、巻四八〇奥書に同年五月付で「阿州田井庄大西郷山城太井村金光寺」とあり、ほか断簡にも「太井村於金光寺」とみえる。


金光寺
こんこうじ

文明一八年(一四八六)一二月二三日に鳥越とりごえを訪れた尭恵が宿泊した寺院。鳥越付近の閑林にあった小寺であったというが(北国紀行)、ほかに所見がない。あるいは鳥越の山伏持の村堂か。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の金光寺の言及

【長楽寺】より

…また,一種の歓楽地の様を呈した。1870年(明治3)に遊行派に帰入,1908年七条道場金光寺を吸収。そのため,金光寺蔵の一遍上人像以下歴代遊行上人像や七条金光寺文書(いずれも重要文化財)がある。…

【仏師系図】より

…《本朝大仏師正統系図幷末流》と題する。(6)金光寺本 仏師定朝の宅地跡に建てられ,七条仏所と密接な関係があったという金光寺(京都市下京区にあった時宗の寺で,七条道場とも呼ばれたが,1908年円山の長楽寺に合併)に所蔵されるもの。毛利久が《仏教芸術》第59号(1965年12月)に紹介した。…

※「金光寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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