佐々木秀義(読み)ささきひでよし

改訂新版 世界大百科事典 「佐々木秀義」の意味・わかりやすい解説

佐々木秀義 (ささきひでよし)
生没年:1112-84(天永3-元暦1)

平安末期の武将。源三秀義と称する。近江に土着した宇多源氏子孫で(佐々木氏),源義朝に従い保元・平治の乱に参加。平治の乱後平氏の権勢に従わなかったため所領佐々木荘を没収され,以後渋谷氏のすすめで相模に20余年間住んだ。1180年(治承4)頼朝の挙兵に応ずる。84年(元暦1)一ノ谷の戦ののち近江に帰還したが,同年7月伊賀・伊勢の平氏与党の蜂起を鎮圧しようとして,甲賀油日神社付近で戦死
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朝日日本歴史人物事典 「佐々木秀義」の解説

佐々木秀義

没年:元暦1.7.19(1184.8.26)
生年:天永3(1112)
平安後期の武将。三郎。宇多源氏。祖父経方は近江佐々木荘(滋賀県安土町)下司,小脇楯に居住。父は季定,母は安倍宗任の娘。源為義の猶子で元服時,義家以来の太刀綱切を賜う(『拾珠抄』)。源義朝に属し平治の乱(1159)に敗北後,平氏方の佐々貴氏(神主家)に本領を奪われ,子定綱らと伯母の子藤原秀衡を頼り奥州へ下向途中,相模の渋谷重国の館に寄留。治承4(1180)年,源頼朝の挙兵に定綱ら兄弟が大功をあげ,秀義父子は佐々木荘を回復。元暦1(1184)年同国甲賀郡油日谷で伊賀・伊勢の平氏残党を撃退したが,大将秀義は討死。子定綱は近江守護となり,子孫に諸国の守護となるものが多く,有力な御家人となった。

(湯山学)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「佐々木秀義」の解説

佐々木秀義 ささき-ひでよし

1112-1184 平安時代後期の武将。
天永3年生まれ。父は佐々木季定,母は安倍宗任(むねとう)の娘。源義朝(よしとも)につかえ,平治(へいじ)の乱で敗れて近江(おうみ)(滋賀県)佐々木荘を追われ,相模(さがみ)(神奈川県)の渋谷重国のもとにのがれる。源頼朝(よりとも)の挙兵後,近江にかえる。元暦(げんりゃく)元年7月19日伊賀平氏との戦いで討ち死に。73歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内の佐々木秀義の言及

【佐々木氏】より

…清和源氏の勢力が伸びてくると佐々貴氏は源為義に結びつき,宇多源氏系は為義の子義朝と結んだ。保元・平治の乱に宇多源氏系は義朝に従ったが,平治の乱で義朝が敗れると佐々木秀義は平氏に佐々木荘を奪われて坂東に下り,相模の渋谷氏の庇護を受けた。1180年(治承4)義朝の子の頼朝が平氏打倒の兵を挙げると,秀義は子息たちとともに頼朝を助けて勲功を挙げ,本領佐々木荘を安堵されたうえ,その5人の子息は十数ヵ国の守護に任ぜられた。…

※「佐々木秀義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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