平安中期の陸奥国の豪族。生没年不詳。安倍頼時の子。貞任(さだとう)の弟。鳥海(とりうみ)三郎という。陸奥守源頼義と安倍氏とが戦った前九年の役のさいには,兄貞任とともに頼義と戦った。1062年(康平5)叔父の僧良照とともに小松柵において源頼義・清原武則らと戦って敗れ,ついで本拠の鳥海柵(岩手県胆沢郡金ヶ崎町)を戦わずして捨て,兄貞任の厨川柵に立てこもった。同年9月17日の厨川柵落城のさいには傷をうけ,いったんは城を捨てて逃れたが,数日後に一族のものなど9人とともに降参した。64年源頼義に引きつれられて上京し,伊予国に流されたが,67年(治暦3)には九州の大宰府に移された。その娘は後に奥州藤原氏2代目の藤原基衡の妻となり,平泉の地に観自在王院を建立した。
→安倍貞任
執筆者:大石 直正
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生没年不詳。平安後期、奥羽の武将。安倍頼時(よりとき)の子、貞任(さだとう)の弟。鳥海(とりうみ)三郎と称し、鳥海柵(とりうみのき)(岩手県金ヶ崎町)を守ったが、これは胆沢(いさわ)川を挟んで、胆沢城ののどを扼(やく)する要衝(ようしょう)であった。前九年の役(1051~1062)では、兄貞任と並んで、安倍軍抵抗の指揮をとったが、厨川柵(くりやがわのき)(盛岡市)の戦いに敗れて降伏し、捕虜として都に上せられ、のち九州に配流となった。都に上ったとき、梅の花を示し「宗任、これはいかに」ときく公家(くげ)に、「我が国の梅の花とは見たれども、大宮人はいかがいふらん」と答えたという伝えは、有名である。
[高橋富雄]
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(菅野文夫)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
生没年不詳。平安中期の陸奥国の豪族。頼時の子。鳥海(とりのみ)三郎と称する。前九年の役では1057年(天喜5)父の戦死後,兄貞任とともに源頼義と戦い,これを破った。62年(康平5)頼義が出羽国の豪族清原武則・光頼兄弟の援助をうけると形勢は逆転,厨川(くりやがわ)柵(現,盛岡市)の戦で敗れ投降した。64年伊予国に配流され,67年(治暦3)大宰府に移されたという。その後は不明。女は奥州藤原氏の基衡(もとひら)の妻。
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…平安時代の陸奥国の豪族。安倍頼時の嫡子。通称厨川二郎。1056年(天喜4)結婚を拒否されたことを恨んで,陸奥権守藤原説貞(ときさだ)の子光貞・元貞を襲撃し,前九年の役を起こし,陸奥守源頼義らと戦うに至った。57年に父頼時が戦死してからは,安倍一族の総帥となり,同年冬には黄海(きのみ)(岩手県東磐井郡藤沢町)において頼義軍を破った。しかし62年に出羽国の清原氏が頼義軍に加わってからは,小松柵・衣川(ころもがわ)柵・鳥海柵と敗戦がつづき,同年9月17日,本拠の厨川柵(岩手県盛岡市)において敗死した。…
…安倍の忠臣善知鳥安方が文治と名を変えて,安倍貞任の子の千代童の身を守護している。文治が千代童の薬の代に禁制の鶴を殺したのを見た南兵衛が実は安倍宗任で,文治とは主従の関係。宗任がみずから鶴殺しの科人となり,都に引かれたのは,八幡太郎義家に一矢を報いんがためだった。…
※「安倍宗任」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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